井口城             Topへ

高時川井奉行の井口氏の館城は、今の井口小学校辺りにあったようで、『井口弾正邸跡』の石碑の場所も
そこにあり、この写真を撮っていたときにお会いした現地の方は「私の小さい頃、今の小学校の前にあった
校舎の基礎工事をしていたが、その時堀の跡が見付かったのを覚えている。工事の人もそう言っていたし、
土の色が違っていた」と証言していただきました。また、この町の周囲にも土塁の残欠があの辺とこの辺に
残っている、と指唆され、それによると一辺100m以上の方形と思われる。

その方は、「我が家には、『餅の井落し』のとき役を与えられており、その時の笠があったはずだ、探せば
見付かるやろけど、どこへやったかな。 父から詳しく聞いておればよかったが、今にして思えば勿体無い
ものや。」と、残念そうに呟いてみえた。

それでも、貴重なお話をありがとうございました。此の場をお借りしてお礼申し上げます。

なお、次に載せている文章は、高月町歴史民族資料館からいただいた『井口理覚院の仏像と井口の文化財』
に記載されているものです。



     井口弾正旧跡について

  高月町井口に建つ理覚院は、浅井氏に仕えた当地の武将 井口弾正(経元)の菩提寺です。井口氏は
  崇峻天皇皇子定世親王の後裔 近江中原氏を出自と伝え、また一説には近江源氏佐々木氏の一族で
  東条氏と称したとも言う。所伝によれば、文永七年(1270)東条経方は国主佐々木頼綱の命を受け、
  大蛇を退治して国中の旱魃を救い、その霊を井大明神に祀り氏子となって井口姓を名乗り、高時川預かり
  (井預かり)の役を命じられたという。また弾正の娘は井水のため人柱となって民の憂いを救い、これを
  祀ったと伝える井大明神は高月町尾山の高橋山麓に残されている。井口氏は代々弾正を名乗り、この
  地方の有力土豪、磯野・雨森・赤尾の各氏とともに浅井家の重臣『湖北の四家』の一つに数えられ、大いに
  活躍したという。

  『浅井三代記』によれば、享禄四年(1531)の箕浦合戦の時、浅井亮政(1491−1542)が六角定頼の
  手勢に包囲され自刃せんとした時、井口弾正越前の守経元(−1531)はこれを救うため自ら亮政の甲冑を
  着し、その首を敵方へ送り、これによって亮政は難を免れる事が出来たという。一説に、経元の祖母は
  浅井家から嫁しており、その容貌は亮政と極めて良く似ており、定頼を欺くことが出来たともいう。戦の後、
  亮政は弾正経元の忠死を大いに悼み、嫡男経親(弾正・又八)を重用し、娘阿古(阿古御料・小野殿、1527?
  −73)を嫡男久政(1526−73)の室に迎えたという。そして久政と阿古の間に生まれたのが長政である。

  『嶋記録』には、天正元年(1573)小谷落城の際、長政の母阿古は捕らえられ、信長の怒りによって十指を
  数日の間に切られ、遂には殺害されたという心痛に耐えない記録が残されている。

  なお、渡岸寺観音堂(向源寺)に安置される国宝十一面観音像は、元亀元年の戦に際して土中に埋伏されて
  兵難を免れ、その後これを掘り起こして一宇の坊舎を建てて奉安したのが井口弾正(経元の子?)とも伝えら
  れている。

     己高山理覚院

  真言宗豊山派。 本尊 大日如来坐像。
  理覚院は、近江国主佐々木氏や湖北を領した浅井氏らとゆかりの深い、此の地の土豪井口氏の菩提寺(廟所)。
  寺宝として、井口弾正経元の肖像と伝える威風堂々とした画幅が残され、また天正十三年(1585)の銘が刻まれた
  供養塔が建っている。

  庭園は、江戸時代前期、小堀遠州によって作られたと伝える優れた池庭で、滋賀県文化財に指定されている。


     梵鐘

  寛喜三年(1231)の刻印があり、滋賀県内有銘梵鐘中最古の作。沙彌教西(浅井氏)が願主となり東西浅井・
  伊香三郡の氏人の募縁により、己高山の推鐘として鋳造された。「餅の井落し」の時、此の鐘の合図により
  進退を行った。

☆所在地 滋賀県伊香郡高月町井口

 

        

 

 
                                         2011.6.30 撮影