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  先日といっても もう1ヶ月も前の1123日、滋賀県日野図書館主催の「鎌掛城探索会」(?)に
  出席した。 日野図書館の振角さんとその仲間たちは、昔の武士の格好をして現れ、このイベントを
  盛り上げようと意気込んでいるのがよく解った。

     イベント

         としょかんの歴史ウォーク「鎌掛城を攻める!」
              と き:1123日(日・勤労感謝の日) 9301330
               参加費:100円(保険料含む)
               集合・解散:正法寺駐車場 募集:先着50


 さて、まず山屋敷だ。 山からの虎口は、前面に二重の堀切を設け、食い違い虎口を採用し防御を
 厚くしている。 しかし降旗さんはそれほど評価していない。 むしろ先端の主虎口と、そこに横矢を入れるよう
 工夫された土塁の突出部の説明に熱が入っていた。 熱が入るのは、これまで未発表だったからで、 
 地権者の方のご理解をありがたく感じられた。 山屋敷から山城への通路は途中の崖崩れで不明とのこと。

 次は、山城だ。以前は遮二無二登ってみたが、今回は案内人がいるから安心、安全。 
 振角さんが山城の虎口だ、と紹介された場所の近くから城内に入り、虎口を見る。

 「・・・・・?」

 半信半疑 それらしく見えないことは無いが・・・  しかし ??

 説明によると、この城は主曲輪付近を完成してはいるが、その下部曲輪は未完成のままで、削平や
 土塁が殆ど見られない。 急ぎ改修されたが間に合わなかった可能性が強い。

 また主曲輪下の大井戸は、 このままでは水を貯める能力が無く、 使用に当たっては上部から
 雨水が流れ込むようにトユを設け、井戸内部には例えば木造の桶を置いていたのではないか、との
 説明であった。 もし井戸近辺にある白い石が石灰岩であれば、その石灰岩で漆喰を作りそれで
 充分止水できるのだが・・・・。

 城の歴史は、南北朝の建武二年(1335)中野左衛門尉清信が砦を創築。その後様々と変々はあったが、
 大永三年(1523)三月蒲生籐兵衛尉秀紀は叔父である蒲生高郷との抗争に敗れ、音羽城からこの城に
 退去した。更に大永五年一二月(1515)秀紀は毒殺。 蒲生家の内紛に決着がついた。 高郷の子が
 賢秀で山屋敷に隠居。 その子氏郷は、信長の人質でありながら見込まれ、信長の娘冬姫との縁組に
 より運命が大きく開かれたことはご承知の通り。

 改修された時期は、本能寺の変の後賢秀がこの城に信長の家族を匿った頃なのかな?

『江濃記』によると、 賢秀の時代浅井賢政(長政)との野良田の戦いの時、敗軍となり、
一族であった千草氏が討ち取られたとの事である。

 

 

 
                                      2008.11.23 撮影