甲賀 小川城 Topへ
城主については、鶴見伊予守が築城との説と、小川氏を名乗った富永俊盛が築城との二説が
あるが、また別に多羅尾氏の存在も考慮する説もあり、結論は出ていないようだ。
伊賀甲賀でが、単郭方形の城館が多い中、この城は他所で見られると同じような形式の城で
ある。それだけ多羅尾氏の力が強かったということか。
県の指定史跡でよく整備されていたが、整備されすぎて往年の姿が失われ修正されていたの
は残念。
☆所在地 滋賀県甲賀郡信楽町小川字和田




2004.1.10 撮影
追記
『近江の山城 ベスト50を歩く』の中で、この城を担当された鈴木良章氏は次のように述べられている。
この地域の小川には、「小川城」「小川西城」「小川中の城」の三ヶ所が知られており、築城者も三氏
考えられる。現在のところ、文献から小川城は鎌倉時代末に鶴見長実によって築城され、長享元年の
六角氏征討直後に鶴見氏が、16世紀後半には小川氏も駆逐され、最終的には全て多羅尾氏の城に
なったと考えられる。
山頂の全長約280m、幅70mに大小十数か所の曲輪が配置され、四周を土塁で囲まれた曲輪には
大手口と見られる虎口や礎石建物が現存する。 発掘調査での出土遺物の年代では、16世紀後半の
ものが大半であることや、遺構としての虎口が平入であること、直線的な横矢のかかり方などから、
天正十三年(1585)頃に多良尾氏によって大規模に改修を受けた。 文禄四年(1594)の豊臣秀次の
切腹に連座して多良尾氏は改易され、十年余で廃城となった。
本能寺の変に際し、堺にいた家康が本拠地に逃走する、いわゆる「伊賀越え」で、多羅尾氏が山口城から
伊賀境まで警備に当たったことが記録に残っている。その際、窮地の家康一行が小川で一夜を過ごした
とある場所は、小川城であり、「小川中の城」であろう。




2009.8.23 撮影