目賀田城 Topへ
いずれ湖東地方のいずれかの地に残っているであろうと思い、探すでもなく気にかけていた城跡でし
たが、肥田城を探す途中偶然通りかかり、案内板を見つけ訪問したものです。観音寺城では淡路丸の
直ぐ下部にその屋敷跡が残っていることから、重臣の一人と考えております。
目加田集落の中心に土塁が残っている。
「天正4年(1567)織田信長が安土城を築くに当り、その当時の目賀田山(現在の安土山)を要請され
たので、その代わりに貞政の諸領地である光明寺野(現在の目賀田)に新たに目賀田城を構築した。
城主・・・・目賀田家42代 摂津守貞政(小次郎)
所領・・・・愛知川、中宿、沓掛、佐生、七里等
禄高・・・・2万石
43代 摂津守堅政
44代 摂津守堅政(次郎左衛門)
天正10年本能寺の変起こり明智方にあった堅政は浪人の身となり、城は慶長2年廃墟となった。」
ー 現地案内板より ー
「目賀田城は、戦国期、佐々木六角氏の重臣として活躍した目賀田氏が築城したと伝えられる城館
です。
目賀田氏は、天正10年(1582)の本能寺の変において、明智光秀に加担したことから、豊臣秀吉に
知行を没収され一族は離散したとされ、当地目賀田はメカタ姓発祥の地であると言われている。
目賀田城は県下でも比較的類例の多い単純な方形構造を持つ平地城館です。現在の目賀田集落が
目賀田城をその南西部分に取り込むように成立しており、ほぼ一町四方の城館主郭内部においても
今日、かなり宅地化が進んでいる。しかし、当城跡において残存する土塁は比高3mを有し、今回城跡
公園として整備を図る地区の遺存状態は良好といえる。
当城館の特徴としては、現在はすでに整備されているが城館北側の内湾部の存在があります。これは
堀を経て岩倉川に通じる舟入と考えられており、河川を利用した水運が想定されている。また目加田
集落の周囲をめぐる里道においては、外部から集落に入る道が交差するところで3ヶ所食い違いがあり、
これを虎口の遺構とみると、目加田集落は城館を中心にして総構えで編成されたとも考えられ、留意
すべきと思われます。」
ー 城址にある現地説明板より ー
☆所在地 滋賀県愛知郡秦荘町目加田

2006.11.23 撮影