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城は観音寺城の支城として永禄十年(1567)に築城されたが、天正元年(1573)
織田信長の侵攻にあい落城する(愛東町教育委員会)。
調査された結果、石組みの暗渠排水路や濠、井戸などが発見されたというが、これ以外
何も見ることはできない。
☆所在地 滋賀県愛知郡愛東町鯰江 → 新 東近江市愛東町鯰江

04.05.01 撮影
追記
鯰江城は、鯰江氏、森氏によって、自然地形である「河岸段丘」を利用して築城された中世の城郭です。
旧鯰江郷の豪族であった鯰江氏が、荘園時代に、興福寺領の被官となってこの地を治めていました。
戦国時代になり、佐々木六角氏の家臣として佐々木六角義弼を奉じて、織田信長の近江平定に対抗しましたが、
天正元年(1573)に落城しました。この時、空堀を増設し、遠見櫓を増設するなどの城の規模拡大をしたと
考えられています。
落城後鯰江氏は、全国各地に分散し各大名に仕えたということです。特に、鯰江定春は、秀吉に仕えて
大阪に土地を与えられ、その地を「鯰江」と読んだそうで、現在も大阪市城東区にその呼称が残っています。
「城域は、現在の集落と重なっているため遺構の大部分は失われ、わずかに土塁の一部をみるだけです。
『近江愛智郡志』掲載の図によると、東・西・北の三方を堀で、南を愛知川の段丘崖で囲まれた約半町域に
「本丸」があり、その北西に変形六角形の土塁と堀に囲まれた「御殿屋敷」が、さらにその西に区画された
「士屋敷」と記された曲輪群が、そして西端には三箇所の「遠見櫓」が描かれています。
これまで実施された発調査で、石組み暗渠排水遺構、堀跡・土塁の一部や門跡と考えられる石垣や礎石等が
見つかっています(一部が用水場施設に復元されています)。城跡中心部=現在の鯰江集落中心部となっている
ことから、城郭遺構の大部分は未だに謎となっています。」 淡海の城 NO.8より転載
2010.9 撮影