西山城 Topへ
『西山城は、近江源氏佐々木氏の分家である朽木氏によって、戦国時代に築かれた山城です。ここより
南南西1.3kmには朽木氏の本城であった朽木城がありました。
西山城は朽木城の背後を守るための支城であるとともに、西方の若狭街道(鯖の道)や東方の朽木街道
(琵琶湖方面)を監視するのに適した位置に築かれていました。東城は標高356mの西山山頂部を中心に、
南北450mの広範囲に、10ヶ所以上の曲輪とよばれる陣地がつくられています。また、堀切や縦堀といった
空堀を設け、曲輪の周囲には土を盛り上げた土塁を設けて、守りやすく攻めにくい工夫がされています。
なかでも、南側の出入り口の内部には、侵入してくる敵兵を集中攻撃するための長方形の空間(枡形)や、
北側虎口の上方には烽火台を設けるなど、小規模ながら高い技術を用いた城であったと言われています。』
主曲輪内の説明文から
烽火台、狼煙台を見るのはこれで2例目である。一つは伊勢の国司、北畠氏が築いた「髯山」と称するもの。
そしてこの「西山城」とである。
比較すると大きな違いに気付く。
まず防御パーツの違いである。
北畠氏の場合、切岸と三本の竪堀。標高688mの天険を恃んだのか、それ程多くのパーツを使っていない。
一方西山城の場合は、しっかりとした城域、枡形虎口、土塁、堀切。そして主城周辺に散らばる物見の跡。
次に規模の違い。
北畠氏の場合、烽火台自体の大きさは4m四方、高さ1.5mの土塁と石塁に囲まれた山上に立つ。烽火台を
含む台地の大きさは20m×40m程度。その規模で、三重県の伊勢市大湊から、津市美杉町、松阪市阿坂城を
カバーする。西山城の場合は、烽火台自体の大きさは10m四方で高さが2mを超える土塁が周囲を廻っている。
主曲輪の大きさが17m×40mと大きな違いはない。規模は、安曇川の河口近くを監視し、それを山下の朽木
屋敷に伝えることだけであれば、影響力は少ない。
造られた時期は、双方とも信長により廃棄されたことから考えて大きな違いは無いでしょう。
この違いは何でしょう?
北畠氏は、伊勢という中央から離れた場所に居り、激しい世の中の移り変わりを感じなかった。近くの領主も、
大和奈良は興福寺などの寺社勢力という中世を代表とする勢力だったこと。北畠氏は出自がお公家さんで、
危機管理能力が欠如していた。
様々考えられるが、やはりその周辺に大きな勢力が居なかったことが大きいのではないでしょうか。
☆所在地 滋賀県高島市朽木市場







2010.6.3 撮影