小椋城 Topへ
小椋氏の出自については、諸説ありよく分からない。 『淡海温故録』、『蒲生郡志』、『愛知郡志』など資料に
よってまちまちで不明な点が多く、小倉実澄の事跡やその二代後に蒲生氏から養子を迎えた実隆に関する
ものが断片的に伝わっているだけである。 この実隆も永禄七年(1564)小倉右京太夫との合戦で討死にして
おり、佐久良を舞台とした合戦を最後に領主としての小倉氏の動向は不明である。
ただ小椋氏(小倉氏)は、南北朝が終わる頃 儀俄氏に替わってこの辺りを領有することになったようである。
永禄七年、それまで度々延暦寺領山上郷の年貢を横領した小倉右京太夫(伝 山上城主)に対し、六角氏より
小倉実隆に追討命令が出され、和南山で行われた合戦において、当主実隆が討死にする事態が起きた。
小倉右京太夫は、六角氏に縁のある永源寺の塔頭を焼き討ちし、さらに二ヵ月後六角方の寺蔵吉六の家臣で
ある園城式部丞が小倉右京太夫と合戦、小倉右京太夫が永源寺の塔頭を再び焼討ちしている。 この結果は
明らかでないが、後世の軍記物は蒲生定秀が小倉の拠点を焼討ちしたことにより小倉氏が敗れる形で決着した
と記している。 いずれにせよ、これらを契機に小倉氏は衰退し、蒲生氏に取って代わられたのでしょう。
☆所在地 滋賀県東近江市小椋

2009.12.5 & 29 撮影