大河原氏城 Topへ
甲賀市史 第7巻によれば、
「大河原氏城は土山町鮎河のうち、西野集落背後の標高404m、比高約80mの山上に位置する。『甲賀郡志』に
よれば、長享年間(1487〜89)に大河原源太により築造されて代々居住したとする」、と記載され、続けて、「この
城は、基本的には主曲輪北東や南の尾根に見られるように、階段状に曲輪が並ぶ構造であった。その後、主曲輪
部分を中心として横堀や石垣、土塁、虎口を付加するなど改修がなされたようである。従って、現在見られる遺構は
織豊期に改修を受けたものと推定される」、と記述されている。
この城を鮎河地区だけの領主が築いた、と判断するのは無理があると小生は考える。これだけの城郭を築くには、
一地方領主のフトコロ勘定ではチト無理であろう。鮎河だけの領地では狭すぎる、という経済的見地からである。
また、近くにある黒川氏城も同じような構造を持つ城郭だし、織豊期に改修されたという意見に異論を挟む人もいない
だろう。
それでは誰が何のためにこの城を改修したのか。
小生は、豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康との小牧・長久手の戦いの前哨戦に使われたのではないか、と考えている。
それは、天正十二年三月十三日に、秀吉から丹羽長秀に宛てた書状で、甲賀郡から伊勢方面への進軍路に、自軍の
駐屯用の城郭を三箇所築くよう指示しており(『加能越古文叢』)、また、同年十月二十四日に秀吉から池田恒興の
家臣片桐半右衛門尉に宛てた書状に、小牧・長久手の戦いの際に秀吉が土山に着陣したことを示す記事がみえ
(『黄薇古簡集』)ており、その後秀吉は水沢峠または安楽峠を越えて、伊勢に侵入したのではないかと考えている。
遺構面では、主曲輪の西下に残る曲輪虎口を内枡形虎口と判断している。また、この内桝形虎口の前面に土塁を
巡らせた曲輪があり、これは主曲輪の北側にある曲輪で、馬出の初期のものでは無いだろうか、堀を越えた曲輪
すなわち馬出と考えても良いのではないだろうか。また現在は林道建設のより破壊されてしまったが、この馬出の
前面にも曲輪があるようだ(再度確認に訪れたが、不明である)。今は土塁跡状のものが残っているようだ。以上の
内桝形虎口と馬出によりこの城が秀吉の伊勢攻めに際し、『加能越古文叢』に記載される三箇所の城に含まれる
土山城に続く二番目の城ではないかと考えている。
☆所在地 滋賀県甲賀市土山町鮎河小字北山










2011.4.10 & 5.14 撮影