賤ヶ岳合戦の城砦群    Topへ

 天正十年(1582)六月の本能寺の変の後、秀吉と勝家との覇権をめぐる戦いがはじまった。
その場に選ばれたのが滋賀県北部余呉湖のほとりである。


 翌天正十一年春、二月雪を蹴立てて前田利長が近江に出陣。三月佐久間盛政、前田利家、柴田勝家と
続く。勝家は玄蕃尾城に本陣を構え、盛政は行市山に、利家・利長父子は別所山にと夫々砦を構え布陣した。
対する秀吉軍は、木之本田上山に実質上の本陣を構え(秀長)、東野山を東端に堂木山と神明山を結んで
第一の防衛陣地とし、岩崎山大岩山賤ヶ岳と田上山を結ぶ線で第二の防衛陣地と目論んでいた。


 行市山の盛政は、秀吉の留守を狙い四月まだ準備の整わない第二防衛陣地の岩崎山大岩山砦を急襲し、
秀吉の防衛戦略の弱点を暴いた。


 佐久間盛政の急襲を知った秀吉は、大垣から木之本まで54kmをわずか5時間で駆け抜け、利家軍の奇行も
あったが盛政軍を消滅せしめた。その後、勝家の所領地北の庄での勝家夫妻の見事な最後を見届け、天下人の
道を突き進むのである。


 神明山砦      画像へ

 「堂木山と同じ尾根の稜線上にあり、東野山砦、堂木山砦とともに秀吉方の第一線防衛線として、蜂須賀
  八彦右ヱ門尉、木村子隼人が陣を布いていた。               現地説明板より 」


     ☆所在地 滋賀県伊香郡余呉町文室


 
 堂木山砦     画像へ

「東野山砦と共に、北国街道を挟みこむ位置にあり、神明山砦と一体となり柴田軍の南下を防ぐ役割を担って
いた。ここには長浜城主 柴田勝豊の配下で勝豊と共に秀吉に降り、長浜衆と呼ばれた山路正国、大金籐八郎が
陣を布いていたが、正国が柴田方に内応し、行市山へ脱出したあと木下右ヱ門が入った。 
                                       現地説明板より」

    ☆所在地 滋賀県伊香郡余呉町堂木


『城跡紀行』

 余呉町の斎場付近から山に分け入る。細尾根の頂上までは害獣除けのフェンスが続いており、時々フェンスを
くぐりながら
20分ほどで神明山砦と堂木山砦の分れ道に到達する。堀切状になっているが、旧道のなごりである。
小生は、最初に堂木山に向かうことにし、右に進路をとる。細尾根の頂上には塁を築いたらしい直線の微高地が
見て取れる。岐路より
10分程歩くと尾根は南にくの字に曲がり、その先に土塁を伴う曲輪が現れた。西の曲輪で
ある。西の曲輪は上下二つに分かれており、上部曲輪の南側土塁は分厚く櫓状の建物の存在を予想させる。次の
主曲輪へはこの曲輪の南端から曲輪外に出、主曲輪の南側に開いた平虎口より入る。
 この砦の最大の見所は主曲輪にある喰違虎口であろう。主曲輪の東側に作られており、東曲輪との境となる。
東曲輪はイザ合戦になったとき第一線に当たることから南北とも腰曲輪を発達させ、東側最前線では幅
3mの堀切と
土塁塁線を折り横矢を利かせている。


 次は神明山砦だ。先程の岐路まで戻り今度は左に折れる。今度は西方向に進むのだ。直ぐに鉄塔に到着するが、
その下草を掻き分け進む。古墳跡らしい高まりを後にし、緩やかに登ること凡そ
30分で砦が見えてくる。尾根が
少し広くなった場所の先に土塁が見える。土塁を登り越すと四段ほどの削平地になっている。その中が主曲輪らしい。
主曲輪にも南側に喰違虎口があるようだが、堂木山砦ほど見易くは無い。ただ同じように南北斜面に対し横矢を
利かせている。 この主曲輪の中にまた一段高くなっている場所がある。
5m四方と広くは無いから指揮所では
ないだろうか。更に西方向に進むと先端土塁の先は竪堀を伴う堀切になっている。堀切底辺と土塁天端との高低差は
5mほどか。その直ぐ先にも堀切があり、山続きの西側敵正面には堀切で対処しようと考えているようだ。