多喜氏の城砦    Topへ        ☆所在地 滋賀県甲賀市甲賀町滝

1 多喜氏本城 多喜城

後に述べる梅垣城からは谷を隔てた北隣に残る中世室町の城跡である。

 丘陵突端を堀切により分断し、その堀切部分から登っていくとハッキリ残る城道がついており、土塁の
切れ目から主郭へ入るようになっていた。 この辺りのお城は、孟宗竹が生い茂り、構造を画像に撮りづらい。
 基本は単郭方形だが、本城らしく主郭のすぐ下や堀切の先にも曲輪が残っている。
 主郭は50m×50m程度で、その北方には15cmほど低くなっており、機能分化を覗いた気がした。

「多喜城は、弘安七年(1285)多喜家継によって築かれた。 多喜氏は伴四党(大原・上野・伴・多喜)の
一つで、家継が多喜氏の祖とされている。 多喜一族には、中村一氏が出ている。」   
                                              滋賀県城郭調査研究所

      ※弘安七年とは、鎌倉時代で当時の執権は北条時宗、貞時。

 

 

 
                                               2009.2.7 撮影

2 梅垣城(めいがき)

「本城跡は、多喜氏の居城であると伝えられている。多喜氏は、多喜彦太郎家継が祖とされている。
多喜勘八俊兼は、長享元年(1487)鈎の陣で戦功があった。俊兼の叔父である由旭は油日神社の再建運動の
指揮をとり、本殿蟇股に自分の花押を彫り込んでいる。土塁を巡らした城郭には、清水湧く泉井が現存し、
北西の隅に五輪塔が一基あり、城主を祀っているものと思われる。」
                                        平成8年     甲賀町教育委員会 

この城は、地元の屋敷地を通り入る形になっており、訪問するときには一言断って入らなければならない。

城道を左折し、虎口手前で右折すると虎口うけの空間が現れる。 更に土塁外側に堀切を挟んで削平された
空間も見ることができる。 虎口を入ると今は梅林になっている。 説明板の五輪塔は見当たらなかったが、
湧水の池はすぐ外側に残って、 今も豊な水を湛えている。 甲賀地方特有の高い土塁は、外部の異常を
監視する十分な構造を持っている。

     ※  長享元年 「鈎の陣(まがりのじん)」とは、足利義尚の六角征伐に使った陣。
        この戦いの最中、義尚は陣没する。
 

 

 2009.2.7 撮影


3 多喜氏支城 多喜南城

「遠望」に写る屋敷に子孫の多喜氏がお住まいになっておられ、小生が訪問したときは、むやみに茂る
孟宗竹を処分しておられた。 本城から更に北に向かった時この城を見つけたもの。

城跡に登ると、孟宗竹を燃やしていた多喜氏は、
「こんな何もない城が役にたつんかね。 あんた方も物好きな。」

と、私どもが良く耳にする言葉で迎えてくれた。 
しかし、心根は非常に優しい方で、この言葉の裏には、『よく先祖の残した城を訪ねてくれた。先祖を誇りに思う。』
との感謝の気持ちがあちらこちらに表れていた。

 

 2009.2.7 撮影