二俣城                 Topへ

標高90mの台地上に築かれた二俣城は、北曲輪・本丸・二の曲輪・蔵屋敷・南曲輪がほぼ一直線上に
配置されている。天守台のある本丸の南北にそれぞれ虎口を設け、北虎口は食違い虎口である。本丸
西側には小規模な天守台が残っており、石積みは野面積みである。本丸の南側には二の曲輪があり、
枡形門跡がある。それぞれの曲輪間には堀切が残っている。

二俣には現在、城址が三箇所ある。この城山の南にある「鳥羽山城」、市庁舎のある「笹岡城」、そして
この「二俣城」である。


今は鳥羽山城と二俣城の間に河川が無いけれど、今川方による築城時この間に天竜川と二俣川が
流れており、この天険の良さにより今川義元死去の後も、長期安定政権に慣れ、さしたる防御を構築
しなかった。しかし、その時は押し迫っていた。

永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)12月までの7年間、二俣城は徳川・武田両氏の攻防の舞台と
なった。二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり(今は天竜川の流路が変って
いる)、しかも二俣は遠江の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通の結節点で、遠州平野の「扇の要」で
あった。

元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、信濃を経て遠江に侵入し二俣城を攻撃。武田軍は力攻めを
とらず、城の水の手を絶つ作戦を選んだ。徳川軍の城兵が崖に櫓を建て、釣瓶で天竜川から水を汲み上げて
いるのを知り、上流から筏を流し井戸櫓の釣瓶を破壊した。こうして程なく陥落した。天正3年(1575)5月、
長篠の戦いで勝利した徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。鳥羽山に本陣を置き、
向井城を築き二俣城を包囲した。武田軍は7ヶ月で兵糧が底を尽き城を明け渡した。

ことほどさように、この城を攻めるには力攻めでは出血が多く出るだけで、成功はおぼつかなかった。

                               ―――――城内案内板を参考にして―――――

☆所在地 静岡県天竜市二俣




 

 

 
                                                2007.2.3 撮影