今治城 Topへ
戦国時代の今治地方の支配拠点は、唐子山山頂の国府城で、能島水軍の領主村上武吉が居城としていたが、
天正13年(1585)秀吉による四国征伐で侵攻した小早川隆景に戦うことなく開城。伊予平定後の隆景に国府城を
含む伊予国の大部分が与えられたが、天正15年筑前名島に転封。
替わって福島正則が東予11万石を領し、翌年国府城に入城。8年後の文禄4年清洲城に転封。 その後、池田
景雄(慶長の役で1598年戦死)、小川祐忠(関ヶ原の合戦で西軍に加わり改易)と城主が変わり、慶長5年藤堂
高虎が城主となった。
高虎は浅井長政に仕えて、15歳で姉川の合戦に初陣。主君を次々変え、天正4年羽柴秀長に仕えて、天正13年
雑賀根来一揆征伐の功で1万石、同15年九州征伐の功で2万石を領すが、秀長、その子秀俊が相次いで没し、
高虎は二人の菩提を弔うために文禄4年高野山で出家した。秀吉はその才を惜しみ、同年7月招いて伊予宇和郡
7万石を与えた。 高虎は父と共に大洲に入城し、板島城(宇和島城)築城に掛かる。 慶長3年朝鮮再征の功で
1万石加増。翌年諸侯に先んじて弟正高を人質に差出し、家康より下総蚊取り3千石を賜る。
関ヶ原の合戦では、福島正則と共に徳川軍の先陣で活躍。 その功で12万石加増され、伊予半国20万3千石の
大名で国府城に入城。藤堂高虎は、発展性に乏しい山城の国府城を捨て、軍事的に要地で、且つ海陸の交通や
経済発展にも便利な、20万3千石の大名に相応しい城郭と城下町を建設するため、城域を越智平野中央の今治に
定めた。
天守は可能な限り忠実に沿うため、丹波亀山城古写真(移築後の今治城天守閣が明治10年まで存続)今治城
古写真(慶応3年半井梧庵撮影)、貞享・安永の今治城絵図、藤堂家の家譜「宗國史」などの資料を基にして、
城郭研究の権威である藤岡通夫博士の指示を受けて再建しました。
以上、今治市のHPより
☆所在地 愛媛県今治市通町3-1-3

2009.4.26 撮影