伊予松山城          Topへ

   沿革

  松山城の創建者は、加藤嘉明である。嘉明は、永禄六年(1563)三河国永良郷賀気村に生まれた。
  父広明は徳川氏譜代の武士であったが、六歳の時に美濃国で逝去した。孤児となった嘉明は諸国を
  流浪し、やがて羽柴秀吉に見出されて、その家臣となった。 二十歳の時、賤ヶ嶽の合戦に加わり
  七本鑓の一人として武勲をたてたことは余りにも有名である。その後、従五位下、佐馬助に補せられ、
  文禄の役の戦功によって伊予国正木(伊予郡松前町)六万石の城主に封ぜられた。その後慶長の役
  (1597)においても活躍し十万石に加増され慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに徳川家康に従軍し、
  その戦功が認められて二十万石となった。そこで嘉明は同七年(1602)に道後平野の中枢部にある
  勝山に城郭を、その周辺部に城下町を築くため、足立重信を普請奉行に命じて工事に着手した。

  翌八年(1603)十月に嘉明は、家臣及び正木の住民らと共に居を新城下に移すこととなり、はじめて
  松山という名称が公にされ、その後も工事は継続された。当時の天守閣は五層で偉観を誇っていた。
  嘉明は松山にあること二十五年、寛永四年(1627)に会津へ移った。その後蒲生氏郷の孫忠知が
  出羽国上ノ山城から入国し二の丸の造営を完成した。在城僅か七年のち寛永十一年(1634)八月
  参勤交代の途中京都で病没し、嗣子が無かったので断絶した。その後、寛永十二年(1635)七月
  伊勢国桑名城主松平定行が松山城主十五万石に封ぜられて以来世襲して明治維新に至った。
  なお天守閣は寛永十九年(1642)に三層に改築されたが、天明四年(1784)落雷で焼失した。文政
  三年(1820)から再建工事を企画し、三十五年の年月を経て、安政元年(1854)に復興した。これが
  現在の天守閣である。
  標高132mの勝山山頂に本丸を置き、中腹に二の丸、山麓に三の丸(堀の内)を置いた。
  広大な規模を持ち、姫路城、和歌山城とともに典型的な連立式平山城である。

                                              主殿跡の広場に建つ案内板より

   感想
久しぶりの松山は、とても陽光がまぶしく、30年余り前の地方首長が掲げた将来像『観光都市伊予の松山』
として確実に開花している、と感じられた。

その目玉としての『伊予松山城』は、テレビドラマ『坂の上の雲』にも登場し、精密に復元された姿を全国の
ファンに披露され好評を博していることは、誠に嬉しくありがたく思います。

平山城の代表者としての松山城は、彦根城と同じく、その前段階の竪堀に替わるものとして登場した二の丸
御殿からの『登り石垣』が残ったり、愛媛大学が移転されたあと山麓の二の丸御殿も発掘調査され、発見
された大井戸は火災に対する消化システムが全国的にも珍しかったり、この城の素晴らしさをあらためて
小生の心に銘記させてくれるものでした。

☆所在地 愛媛県松山市丸の内


 

 

 

 

 

 

 

 2009.4.26 撮影