帰雲城(かえりくも) Topへ
「帰雲城は、寛正の初め(1460年頃)内島上野介為氏によって築かれた城である。四代氏理(うじさと)の時代、
天正十三年(1585年)旧11月29日、東海・北陸・近畿に及ぶ広範の地域を襲った巨大地震によって帰雲山に
大崩壊が起こり、帰雲城とその城下集落が一瞬にして埋没したと伝えられている。
埋没前の、帰雲城の位置は確認されていないが、地勢・埋設土砂などからしてこの周辺地域と推察される。
平成十一年 六月 白川村」
予期せぬ大地震によって、一夜に城もろとも領主一族が滅亡した、城下町全体が跡形もなく土に埋まってしまった
城である。
寛正五年(1464)足利幕府八代将軍義政の時代、義政の命を受けた内ヶ島為氏が信州松代からここに移り住み、
帰雲山に城を築いた。内ヶ島氏の出自は楠正成の流れとも西園寺大納言の末裔とも言われるが詳細は不明。
天正十三年(1585)、豊臣秀吉から派遣された金森長近が三木自綱の居城、松倉城を落とし飛騨を平定する。
白川郷の領主だった兵庫助氏理(うじまさ―為氏の孫)は同盟関係にあった越中富山の佐々成政を救うため
出兵していたが、松倉城の落城を知り秀吉の軍門に降ることを決意する。氏理は鍋山城の金森長近のもとに赴き
帰順を願い出、嘆願は聞き届けられた。一説には、この白川郷の地下に鉱物資源、火薬の原料となる焔硝が豊富に
埋まっており、その採掘技術に長けた内ヶ島氏を抹殺するのは大きな損失と秀吉が判断したから、といわれている。
所領を安堵された氏理は、帰雲城に帰り喜び祝ったであろう。そして天正十三年十一月二十九日夜半、それは
起こった。世に天正大地震(1586.1.18)と呼ばれた大規模な地震である。飛騨、美濃、近江など東海・東山方面に
甚大な被害を出し、M7.8〜8.1のエネルギー放出だったようです。
この地震のため帰雲城は崩壊し、その時発生した土石流が庄川の流れを巻き込みながら城と在家300軒の城下町を
埋没させ、全ての人民もまた土石流の下に埋没した。他の地方はというと、美濃の大垣城は全壊。近江の長浜城も
ほぼ全壊状態で、このとき城に居た山内一豊の六歳になる一人娘が即死している。
帰雲城は、これまでに城下町が存在した裏付を示す遺構・遺物は発見されていない。城の位置さえ特定されていない。
かといって何も無かったのかと言えば「火の無い所に煙の立たぬ」の言葉通り、それに良く似た事象はあった筈である。
埋蔵金や埋没金伝説が浮上しており、まことしやかに語り継がれておる。
さて、あなたはこれを読んでどう感じますか?
明日といわず今日から家財道具一式纏めて処分し、宝探しに行きますか?
「図説 日本の城 青春出版社 2010年初版」から引用
☆所在地 岐阜県大野郡白川村保木

2010.9.3 撮影