加賀野井城    Topへ

「築城時期は明らかでないが、天正年間(1573〜91)には加賀野井弥八郎秀望が織田信雄の
臣下となり、415貫文(一万石)を領して城主となっていた。

本能寺の変の後、豊臣秀吉と織田家との対立に際し、天正12年4月長久手において戦ったが、
豊臣方の大敗となり、翌5月緒戦の雪辱の為一転してこの城を攻撃した。

城中には信雄の援兵2千余騎も加わり防戦するも、豊臣方10万の大軍の前に抗し切れず、城の
明け渡しと助命を条件に講和を申し入れたが受け入れられず、そのため夜陰に乗じて大手門より
打って出、最後の決戦を試みた。

衆寡敵せず城兵は枕を並べて討ち死にし、城主秀望は辛くも脱出し関東に逃れた。」
                                 平成18年3月 羽島市教育委員会

北勢の諸侍で48家と呼ばれた国人達は、信長に降伏後織田信雄勢の一員としてあちらこちらに
遠征し、次第に本貫地を持たない根無し草になっていった。先には長島一向宗徒との戦い、滝川衆
との戦い(賎ヶ岳の戦い)と次第に選別され、最後のこの戦いに勝ち残ったものはいなかった。
真に諸行無常と言わざるを得ない。


☆所在地 岐阜県羽島市下中町西加賀野井

 2007.2.8 撮影