河和城            Topへ

天正18年(1590)8月、秀吉の小田原攻めに出馬した当時の城主 戸田孫八郎守光が小田原で戦死
します。戦死の知らせを聞いた河和の人たちは、河和城を攻め河和の人々により河和城は破壊された。
守光の妻子たちは、親戚である於大の方を頼って江戸に逃げ、後守光の妻子は姓を『戸田』から母方の
姓である『水野』に改め、関が原の戦いの後河和に帰ることが出来た。
                    
                       −美浜町教育委員会−

河和の町を見下ろす比高50m程の海岸段丘上に位置する。 駐車場からは手摺付きの階段を登った
ところが主曲輪である。 東西50m南北30m程の菱形の主曲輪で、周囲は高さ1m〜50cmの土塁が
取巻いている。 東側は海で西側北側に堀切が巡り、その先に二の曲輪などが竹薮の中に残っている
ようだ。とにかく薮蚊が多く閉口した。

☆所在地 愛知県知多郡美浜町大字河和


 

 

 2008.6.1 (6.8) 撮影