村岡山城 Topへ
「戦国時代越前の一大勢力であった平泉寺は天正元年(1573)一乗谷の朝倉義景を滅ぼした
逆臣景鏡を迎え入れ、また社寺での内紛もあって加賀越前(志比)の一揆衆が平泉寺を討たんと
来攻し、天正2年九頭竜川で戦陣を交えた。北袋(現 勝山)の一揆衆も壇ヶ端城および中島より
この援護のため出陣したが敵軍の猛攻に敗れ島田将監らを大将とした一揆衆は壇ヶ端に引き返し
城を築いて攻略の作戦と兵 を組んだ。
そして平泉寺軍の監視所である村岡山と対陣、一ヵ月後の4月七山家等の一揆衆は急遽村岡山を
占領し、壇ヶ端城と共に決戦の機を制していた。 翌日平泉寺軍は朝倉景鏡を大将とした全兵力
八千を挙げて村岡山の奪還に出たが、一揆軍は激しく応戦、壇ヶ端城の一揆軍も志比方面の援軍を
得てこれに加勢した。しかもこの援軍の別働隊は暮見谷より本拠平泉寺の社院に火を放った為出陣
していた平泉寺軍は、この奇襲に狼狽し敗れ景鏡もついに戦死した。この山は一揆軍が勝利を得た
ところから勝山と名づけられたが翌3年に織田信長の北陸征伐によって一揆衆は掃討され、越前は
柴田勝家の領となり、勝山は甥の義宣の居城となった。
その後、天正5年には義宣も一揆の残党のため討死その養子の勝安が城主となって8年城を袋田に
移しその地を勝山と称した。」 現地案内板より
☆所在地 福井県勝山市村岡町寺尾




2007.8.16 撮影