長野城(豊前) Topへ
@ 行き方: 東九州自動車道長野トンネル上に位置する。
A 見所 : 馬蹄形の城を取り巻く連続畝状竪堀群
B 背景 : 長野城が現在のような畝状竪堀群を備えた城となったのは、天正十四年(1586)頃と考えられている。
此の時期九州の大部分は薩摩の島津氏の影響下にあり、畿内で中央政権を樹立した豊臣秀吉が
いずれ九州へ進出してくるは確実と見られていた。
長野城主である長野氏は、一族である秋月氏・高橋氏、及び島津氏と同盟関係にあり、此の竪堀群の
規模や周辺で発見されている城郭群を考えると仮想敵国は畿内の勢力であろう事は間違いないであろう。
したがって、この畝状竪堀群の築造主体は、長野氏・秋月氏・高橋氏に違いない。
C 畝状竪堀 : 畝状竪堀の効用は敵兵の攻城ルートを限定させる効果である。この城の竪堀は、両脇に盛り上げられた
土塁の高さを含めて約2mの深さがあったと考えられ、幅は一人が通れる程度のものである。そのため
斜面に取り付いた攻城兵は、左右に展開することが不可能なまま竪堀に従ってまっすぐに登らなければ
ならない。しかも一列縦隊である。
これに対し守備隊は、いちいち一兵ずつ狙いを定める必要なく竪堀に沿ってただ鉄砲を打ちさえすれば
良い。竪堀を登って来る攻城兵は畝によって左右に逃げることが出来ないため簡単に一掃することが
出来る。
興味深いのは、約50mという竪堀の長さだ。これは当時の鉄砲の有効射程距離とほぼ一致する。
畝状竪堀という築城技術が普及し始めたのは永禄年間(1558〜1569)からといわれており、鉄砲の
普及した時期と重なっているのは偶然だろうか。
敵兵を駆逐するという点では竪堀沿いに矢を射たり石を落としても、攻城兵に対しては効果を得られる。
D 感想
2009年4月25日 夕刻訪問する。自動車道の下を潜る林道から登ること凡そ30分で右手林の中に畝状竪堀群が
見える。4月のことで下草は枯れておらず、馬蹄形の城域外側に200条の畝状堀切群を見ることは出来なかったが、
攻城兵の気持ちになって畝状竪堀群を眺めた時、オゾ毛を振るったのを思い出した。
☆所在地 福岡県北九州市小倉南区大字長野




2009.4.25 撮影