後瀬山城          Topへ

標高168mの位置に石垣を配する主郭を置き、ここから山麓の空印寺の位置にあった居館に通じる
北側稜線と、登山道に並行する東側稜線に、大小あわせて139箇所の曲輪と呼ばれる平場の防御施設を
設けています。これら2本の稜線に造られる曲輪をつなぐ道路が北東谷間に幾本もみられる「谷の横道」と
呼ばれています。また、北側稜線の先端には、畝状竪掘・竪掘などを設け、防御を固めています。
このことは丹後国守護一色氏と度々戦火を交えた若狭武田氏が、西の小浜への入口(青井口)の防御を
強く意識していることを想定させます。

城主は、大永2年(1522)に築城した若狭守護武田氏五代 元光(もとみつ)から、六代 信豊(のぶとよ)、
七代 義統(よしむね)、八台 元明(もとあき)へと継承され、若狭武田氏滅亡後は織豊系武将の丹羽長秀、
浅野長政、木下勝俊が相次いで入城し、若狭統治の拠点として存続する。関が原合戦後には入国する京極
高次によって廃城となる。

発掘調査された主郭北西の曲輪では、礎石建物跡とこれに付属する築山、そして多くの茶器類が検出された。

                                 ―――山麓の愛宕神社にある案内説明文―――

愛宕神社登り口から整備された山道を15分程登ると曲輪群に着く。土塁を持たない、削平地だけの曲輪が
見えてくる。凡そ11段ほどあろうか。更に登ると大きな曲輪があり、井戸跡であろうか素掘りの大きな穴が
ある。その反対側には竪掘りと土橋で防御を固めた曲輪があり、その段上が主郭である。
虎口は改変されているのでいかなる虎口を持っていたのか不明である。愛宕神社の本殿の後方に人頭大の
石で石塁が築かれていた。山頂の周囲を削り残し、頂上部を削平し土留めに石垣を造ったようだ。

主郭を少し下ったところに横堀を挟んで発掘調査が行なわれた副郭があり、その北側に土塁と一体となった
築山が築かれている。しかし、その郭内は下草に覆われどこがどこだかわからない。辛うじて、石類が並んで
いる場所を発見したので、これが式台であろうと画像にしたが、果たして・・・・・?

☆所在地 福井県小浜市伏原・大宮・男山・鹿島・浅間

 

 

 

 
                                        2006.12.01 撮影