岡山城              Topへ        携帯画像へ

天正元年(1573)、宇喜多直家が、当時この近辺にあった石山城の城主金光宗高を滅ぼし、その城を
修築した後、沼城から移ってきた。

今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家である。 秀吉が天下を握ると秀家は父の遺領で
ある備前・美作のほかに備中の一部をもらい、57万4千石の大大名となった。参議従三位という位階をも
取得し、『備前宰相』と呼ばれた。

こうなると、石山城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天守閣の建つ「岡山」という丘の上に、
新しく旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛り上げ、上・中・下三段の地形を造成した。そして天正
十八年(1590)から本格的な城作りを開始した。途中、朝鮮への出兵などがあったが慶長二年(1597)の
天守閣の完成で城作りの全工事を完了した。

秀家の築いた天守閣は、石垣からの高さが20m余、二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の
構造である。外壁の下見板には黒漆が塗られていて『烏城』の別名がある。

本丸内で戦火を免れた唯一の建物が『月見櫓』で、風流な名前とは裏腹に表書院の北西を防御する櫓であり、
武器の貯蔵庫になっており、銃眼や石落としを設けられている。 またすぐ近くには、穴倉式の火薬貯蔵庫・
井戸・流し台なども残っていて、この付近では城の情緒を覚える。 さらに石垣に目を移すと、現在広い範囲で
残っている石垣の殆どは以前のままで、本丸周辺の石積みが野面積みであること。月見櫓を支えている石垣は、
それより新しい打込み接ぎという手法で、石垣の勾配が美しい。

雨の日曜日に気乗りしないながら出かけた。 思った以上の収穫があった。 復元された不明門から城内に
入り、右に見える月見櫓、その周りの諸施設跡。 これを楽しまない法は無い。 また城内に宇喜多氏時代の
石垣を、掘削した状態で開放されていたのには感激した。 模造天守閣を後にし、本丸周囲の石垣を楽しもう。
多くは説明書通り古い時代の野面積みだが、一部には小早川秀秋が修理した石垣が残されていた。 見れば
そばにある説明板通りいい加減な仕事しかしていない。小早川秀秋は、関が原の役の後この城を賜り、わずか
二年後に死んでしまっている。 「裏切り者」の陰口に耐えられなくなったのだろうか。 小早川秀秋の肩を持つ
ものではないが、このいい加減な石垣造営も果たして小早川のものか? もしかすると小早川に汚名を着せて
いるだけなのかもしれない。

 復元されたこのような城でも、真面目に見せている場所もあるのだ、という事がわかり、ひとつ進歩したようだ。


 『岡山開府物語から 宇喜多氏から池田氏へ』

天正元年(1573)宇喜多直家が亀山城(沼城)から岡山城の前身である石山城に入城した事に始まる。
直家の後を継いだ嫡子秀家は城下に山陽道を拓き、町内にさまざまな職業の商人を呼びいれて、城下町を
整備し、商業の繁栄を図った。その後小早川秀秋を経て池田家へと受け継がれ、32万石の大藩の城下町と
して確立された。

宇喜多の名が世に広まるのは、宇喜多直家の祖父の宇喜多能家(よしいえ)の時代で、能家は砥石山城
(瀬戸内市)の城主で、浦上氏に能家あり、といわれたほど智勇兼備の名将だった。その能家は家督をその子
興家(おきいえ)に譲り隠居した。興家は父能家とは違い、覇気も才も無い人物であったがため、天文三年
(1534)六月、隣の高取山城主島村氏に襲われ、老衰の能家は自刃、興家は当時六歳の幼名八郎(直家)を
連れて備後の鞆に逃れた。そして天文九年(1540)興家は病死、妻は和気郡天神山城の浦上宗景の奥方に
仕えた。直家は邑久郡笠加村の尼寺にいた伯母に預けられたが、直家のたっての願いで浦上宗景に仕え、
15歳で初陣したという。その翌年(1544)16歳で元服、名を宇喜多三郎左衛門直家と名乗った。

当時邑久郡の乙子村は海賊が出没するなど不穏なところであった。宗景はその乙子に砦を築いた。それが
乙子城である。しかし物騒なその城を預かるという者がいなかった。 その手を挙げたのが直家で、足軽
数十人を連れて乙子城に入った。この乙子城が後に備前・備中・美作の三国を制する直家の初舞台であった。


  宇喜多氏の家臣団

宇喜多氏の家臣団形成は、宇喜多直家の時代であろう。その体制作りで大切なことは、褒美の取らせ方で
ある。 それは織田信長と同じ方法、つまり下級の武士であっても、有能な者、手柄があったと見れば重用し、
十分な報酬(知行)を与えた。 また直家は領内の村落から優れた地侍に着目し、有能な者を家臣に起用し、
更に有効な部将には攻略した城塞を預けた。直家最大の激戦だったといわれる明禅寺合戦において、兵数では
三村元親に劣っていたにも拘らず直家が勝利した。これは、その家臣団の組織作りが功を奏したものといわれて
いる。


家臣団として名を馳せているのが、
   戸川達安(みちやす):常山城主 戸川秀安の嫡子。 後 備中庭瀬藩主となる。
  花房正成:乙子城の直家に仕えた正行の嫡子で清水宗治没後の高松城主となる。
  浮田河内守:本姓は遠藤又次郎。 弟の喜三郎と共に興善寺にて三村家親を安殺、その功により浮田姓を
          許され、金川城主の松田氏を攻略して後は戸倉城主となる。

☆所在地 岡山県岡山市丸の内2-3-1 

       

 

 

 
                                            2009.4.4 撮影