大高城    丸根砦・鷲津砦   Topへ

『JR東海道本線大高駅下車徒歩約10分。 自家用車で行く場合は、近くに駐車場が無いので止めたほうが良い。

 大高城は、桶狭間合戦の発端の一つとして名高い。周辺は知多郡の愛知郡の境目なので、各勢力のせめぎ合いに
 なった場所でもある。

 築城時期は判然としないが、「寛政重修緒家譜」によると、永正年間花井備中守の居城で、天文年間には知多の
 水野為善の配下であった。 16世紀後半、尾張北部を掌握しつつあった織田信長と、三河から尾張進出を狙った
 今川氏との間で取り合いとなる。 永禄2年(1559)、鳴海城主山口教継が織田方から今川方へ転じ、織田方で
 あった水野氏の大高城を攻略する。大高城には今川方の鵜殿長助が入るが、織田方の包囲網が強化される中、
 松平元康が翌永禄三年(1560)兵糧補給作戦「大高兵糧入れ」を行い、彼の武名を高めると共に今川方の拠点を
 維持した。


 遺構は、昭和13年に国指定史跡に指定され、公園整備されているため非常に見やすい。 V郭からW郭にかけて、
 後世の削平をかなり受けていると思われる。 特にW郭部分は後世に志水氏の在番屋敷となっていた場所のため
 改変が大きい。  
                           (「愛知の山城 ベスト50を歩く」  中井 均 編集)』


 「知多半島の脊梁山脈の末端近くに、西側が開けた丘陵上に築かれた東西約106m、南北約32mの山城である。
 室町時代、永正年間(1504〜21)に花井備中守によって築かれたものといわれる。

 戦国時代、天文・弘治年間(1532〜58)の頃には、水野忠氏父子が居城していたが、はじめ今川氏に属し、後に
 織田家についたため、今川方の鳴海城主山口左馬之助に攻められ、今川義元の家臣鵜殿長照が入った。

 永禄3年の桶狭間の戦いのときに、松平元康が織田方の包囲の中を兵糧の運び入れに成功し、そのまま城を守った。
 元康は義元が討たれ、今川方が敗走するまで居て、今川方撤退後に父祖の地である岡崎城に入った。

 大高城は戦略上の価値を失い廃城となったが、元和元年(1616)尾張藩家老志水忠宗が城跡に館を構えたが、
 明治3年に廃止された。

 現在は、本丸・二の丸とこれを分ける内堀が良く残っているが、外堀土塁などは急傾斜の地形を安全上の理由から
 改変し、昔の面影は薄い。 丸根・鷲津の両砦とともに昭和13年国の史跡に指定された。  
                                                        名古屋市教育委員会」



鷲津砦、丸根砦共に永禄3年5月19日の桶狭間の戦いの日に、松平元康(後の徳川家康)と朝比奈泰朝により攻略
された。 鷲津砦は、篭城していたのだが攻撃に耐え切れず打って出て、守備隊の飯尾定宗、織田秀敏が討死。
飯尾尚清は敗走した。丸根砦は、佐久間盛重が500の兵で守備を固めていたが、打って出て敢え無く討死にした。

☆所在地 愛知県名古屋市緑区大高町城山
   丸根砦   緑区大高町丸根
   鷲津砦   緑区大高町鷲津


 

 

 

 

 
                                          2010.11.6 撮影