備中松山城関連 頼久寺     Topへ     備中松山城  画像

  戦国兵乱の世、天正三年備中松山城主三村修理進元親は故あって毛利と離れた為、小早川隆景を総帥と
  した毛利八万の攻囲を受け、戦火は備中一円に拡がり激闘半年、戦運利なく元親はすべての出城と将兵を
  失い、本城も落城。 六月二日 奥灘の松連寺で自刃した。その子勝法師丸は井山宝福寺に預けられていた。
  輝元はその俊英凡庸ならざるを見、三村家再興をおそれて井山谷で之を斬った。

     夢の世に幻の身に生まれきて
             露に宿かる宵のいかつち

  時に八歳、戦国の習いとはいえ痛ましい最期であった。 星霜うつり昭和の中期、井山の里人により奇しくも
  深草に埋もれた勝法師丸の供養塔が見出され回向されていた。その後有縁者により祖父 家親、父 元親の
  眠るこの墓側に移され、その霊の永遠に安らかなるを祈った。云々
                                       ―――三村元親四百年遠忌に際し―――


   天柱山安国頼久禅寺は、草創は不祥なるも暦応2年(1339)足利尊氏が再興して備中の安国寺と号した。
   永正年間(1504)松山城主上野頼久公が大壇越となり寺観を一新し、大永元年逝去したので、頼久の二字を
  加えて安国頼久寺とした。

   有名な庭園は、慶長5年(1600)小堀新助正次が、備中に1万石を領したが、慶長9年に逝去したので、一子
  作助政一が遺領を継いだ。その頃の松山城は備中兵乱後で非常に荒廃していたため、遠州は頼久寺を仮の
  館とし、また良く本寺を外護され、元和5年(1619)までこの地に居た。庭園はこの頃の遠州の作庭による。
                                              頼久寺パンフレットより

☆所在地 岡山県高梁市頼久寺町18

 

 
                                  ↑ 高梁を望む         2009.3.15 撮影