龍王山城          Topへ

  「この山城は、南北二つの嶺に分かれていて、北のほうが60mほど低いが北城のほうが大規模である。
南北両城を合わせると、大和髄一の中世城郭である。二ヶ所に分かれながら、互いに呼応しあって一つの城を
形作っているのを別城一郭の構えという。北城(城台)は、標高521.7mの曲輪を中心に、太鼓ノ丸、辰巳ノ丸、
時ノ丸、五人衆ノ丸、茶屋ノ屋敷、西ノ大手ノ丸などの曲輪が幾重にも重なり、土居や掘割、井戸、それに
「馬ヒヤシ」と称する水溜などもあって、中世城郭としての原型をよくとどめている。南北朝の頃、小さな砦を
つくられたのがはじめで、天文年間(16世紀始)十市遠忠が小さな砦をもとに一大城郭を築いた。遠忠は大和武士と
して知られたのみならず、歌人として、特に優れていた。その子遠勝の時、永禄十一年(1568)七月末ほとんど
抵抗することも出来ずに、龍王山城を明け渡して十市平城(現橿原市十市)へ退いてしまい華々しい篭城戦も
行いえず、秋山氏の手に渡してしまったようである。大和一の名城の竜王山城五十年の歴史は終わった。いま
も落城にまつわる幾多の悲しい物語を伝えている。」

 「十市遠忠 (?〜1545)
十市遠忠は天文十四年(1545)三月十六日病没。年齢は四十代であったと考えられる。遠忠は武人としても優れ、
十市家中興の祖とされ、多面、歌人でもあり、書家でも一家をなし、文武両道に秀でた人であった。彼は飛鳥井二楽軒
(稚康)門下の歌人としてぬきんでていた。その歌集五部までが「群集類従」に収録された

     えにしあれや長岳寺の法の水 むすぶ庵もほど近き身は (天文四年孟夏)
     天の下治まる時を朝夕の 月にも日にも先ず祈るかな (享禄四年)」
                                                   城跡に建った案内板より

また他の場所には

 「龍王山城は、奈良盆地の東にそびえる竜王山頂上(標高585m)に築かれた山城である。城の範囲は北城と南城に
分かれ、奈良県に残る城跡では最大級に含まれ、信貴山城に次ぐ規模である。中世、大和の有力豪族である十一氏の
山城として発達した龍王山城は、16世紀に記録が残り、十市遠忠によって本格的な城郭造りがなされたものと思われる。

  曲輪を尾根筋に沿って一列に築いた連郭式山城の形態を持つ南城に比べて、北城は本丸の回りに曲輪を配置した
環状式山城で、石垣の跡も各所に残すなど、城郭の特徴では南城が古い形態を保ち、北城が後に築かれたものと
考えられる。龍王山城は、天正六年(1578)に破却されたが、日本の中世に築かれた山城の原型を良く留めており、
城の歴史を知るうえで貴重な遺跡である。                          天理市教育委員会」


 遺構は現在でも曲輪群、土居、空堀、石垣(石積)、畝状空堀と多彩に残っている。上記の案内板に記された如く北城は
新しく築城され、南城は古い時期に築城され北城の築城と期を一にして改修されたようである。また、南城は居住性を持ち
北城は防御性をより鮮明に出していたように感ずる。南城の主曲輪下の曲輪は、主曲輪とは階段で連絡しており、その中に
礎石が残っていることから、礎石建ちの建物があったのか。

平成9年に初めて発掘調査が行われ、南城主郭の一段下の曲輪から礎石建ちの建物と庭園が発見された。
庭園は、その当時山城で発見されたことが無く、嚆矢の発見だったとか。しかし、観音寺城は平井丸での庭園の発見は、
昭和じゃなかったのかな?

☆所在地 奈良県天理市柳本町

 

 

 

 

 

 
                                              2010.12.11 撮影

再訪

平成23年5月21日に再訪する。

目的は、北の虎口を見落としていたから。北の城は、天理市教育委員会の説明にもある通り、南の城より後世に
築かれたもの。であれば虎口ももっと緻密なものになっていたはず。北の城の南の虎口は、「喰違い」を意識して
いたので、今回は如何なるものか少し期待していた。

前回と同じように、入口左側に畝状竪堀を見ながら時の丸へと進む。今回は時の丸下を先行する。土塁と土塁の
切れた辺り(此の辺りも平入りの虎口と見ることができる)からより先端の曲輪へと進む。

此の城はどこにも説明板が無く、これだけ有名な城で広い城には珍しい。今日も多くのハイカーに出会った。中には
個人で来ておられるので、説明板程度はあっても良いと思う。事故防止に繋がるし、第一親切というものだろう。

愚痴を言っても仕方がないので、先に進む。一つの曲輪に着くとその城道を探し、城道を辿らなければ虎口には
行けない。城道が一つしかない場合は、判り易いが、二本も三本もあるときはどうするか、二本も三本も行かない
ことにはどうしようもない。でも城道が「これが城道だ!」と主張していれば良いが、多くはそんな主張はしていない。
だから正直わかりづらく、後世もっと研究が進めば真の部分が解明されるでしょう。とにかく今は現在の段階での
城道を探さなければならない。

曲輪と曲輪との間が少し開けてある。これは明らかに虎口でしょう。虎口を下る城道が残っている。降りた場所にも
左側への踏み跡がある。踏み跡を辿ると土塁左が開口している場所に着く。良く見れば更に先端に同じような構造を
持つ場所に到着する。平入りの構造だがこれは確実に虎口である。その先にも同じ平入りの虎口があり、二重に
なっている。待てよ、これを一つの構造と考えた場合、これで枡形と同じ事にならないか。この間に奥部と左右から
弓矢で射掛けられたらこれこそ枡形と同じ働きをする。やはり、龍王山城は歴史に残るお城だった。

 

 2011.5.21撮影