「山陰への小旅行」  その1 ー備中松山城ー   Topへ 
      
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10月に入って最初の連休にそれまで溜まりに溜まっていた疲れを癒すべく山陰への旅行を企てた。
行先は、憧れていた備中松山城であり月山富田城である。  

備中松山城を訪問すれば、岩村城・高取城そしてこの城と日本三大山城を訪問したことになり、
月山富田城を訪問すれば、日本五大山城(観音寺城・小谷城(八王子城)・山中城・春日山城・
月山富田城)のうち春日山城を除き全て訪問したことになり、目標を春日山城一つに絞ることが
出来ることから、わが古城訪問会の意思を統一しやすくなる。


10月5日

作業を終え、ホテルに帰るや否やシャワーや食事もソコソコに、トヨタレンタリースの窓を叩き、予約係の
係員を急かせて車に乗り込む。それでも出発は8時前になってしまった。 (しかし、急いじゃ駄目ですね。
ポカをやってしまい、大いなる反省を食らうことになるとは、だれが想像しただろうか。)

『よ〜し、今日中に高梁市まで走り、明日はゆっくり起きて備中松山城を見学し、明日は安来市まで
行ってしまおう。』

誰だって好きなことの目標に向かっている時は、興奮してなかなか眠れないものですよね。 小生も同じ
でして、阪神高速を吹田ICで中国自動車道、山陽自動車道と乗り継ぎ、途中少しの休憩を挟みながらも
宿舎には12時前には到着しました。 

10月6日


翌日は良く晴れ(画像を撮るには最悪)。もっと寝ている心算がそれまでの習慣から早くに目覚め、勇んで
自動車に乗り込み目標とする「ふいご峠駐車場」に向かいます。ところが、土日祭日はふいご峠の駐車場は
狭いので、山腹の別の駐車場に駐車しそこからシャトルバスでふいご峠まで向かうよう指示されました。
ふいご峠から歩いて20分程度で施設のある小松山城郭に到着するとのこと。

私は「城の歩き方」の本の通り、「下太鼓の丸」の中世期のものを堪能しようとの思惑から他の皆さんとは
反対の方角に山を登っていく。すると、山の斜面の所々に土砂を取り除いた場所があり、地肌を見せている。
それによると、現在の土壌は10cm程度で表土を除くと直ぐ岩石が出てくるようである。そのまま登っていくと、
やがてV字型に道が曲がったところに人頭大の石の列が埋まっている。10mほど歩くと、直ぐに立派な石段が
見えて来た。幅1.5m高さ2mを10段ほどの石段で直線に入れるようになっている。登ってみるとブルーシートに
覆われていて、調査中のようだった。 シートを踏まないように端っこを歩き南方に行くと、立派な石垣の列が
残っていた。数えて見ると4段ほどあり、梯立式の物のようだ。まだ算木積みには程遠いが、それでも石垣の
折れや石の大きさなどから曲輪に近づく者には威圧感を与える築城者の意思が伝わってきた。「これこれ、
この臨場感が堪らないんだよ」と付近を歩くこと20分。蜘蛛の巣に顔を突っ込むわ、ズボンに草の種が付くわ、
大変な目にあっちゃった。でもまだそれは序曲だったのです。

さてと、見るに楽しんだ後は、HP用に画像を残そうと愛用のデジカメを取出し、やおら写そうとすると・・・・・
動きません。「おやあ?・・・。 ? ? しまった!電池が無い!」そうです。昨夜急いで出発したのは良いが、
電池を充電しないまま来てしまったのです。頼りは予備のバッテリー一つ。これでどれだけ撮れるかな・・・。

【 沿革 】   「城内の案内板から」

備中松山城は、延応2年(1240)に有漢郷(ウカンノゴウ)(上房郡有漢町)の地頭 秋庭三郎重信が臥牛山の
大松山に砦を築いたことに始まる。元弘年中(1332〜34)には、秋葉氏に代わり備後の三好氏の一族である
高橋九郎佐衛門宗康が大松山に入城。この頃には縄張りは小松山まで拡張し、弟の大五郎を居城させている。
その後も城の縄張りは変遷を遂げ、城主は高氏・上野氏・庄氏・尼子氏と替わり、永禄4年(1561)には安芸の
毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(川上郡成羽町)城主三村家親が尼子氏の加番吉田左京亮を討ち、備中
松山城主となっている。

元亀三年(1572)、将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると、三村元親は東方の織田
信長と結び、毛利氏に反旗を翻す。 天正二年(1574)冬から翌三年夏にかけて毛利・宇喜多連合軍を三村勢
との間で備中松山城をはじめとする備中諸城をめぐって激戦が展開される。いわゆる「備中兵乱」で三村氏は
滅ぶが、この頃には備中松山城の本城は小松山へ移り、臥牛山一帯は大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・
馬酔木丸などの出城・出丸が設けられ、全山が一大要塞となっていたことが記録などからうかがえる。また居館で
ある御根小屋も現在の場所(臥牛山南西麓 現高梁高校用地)に設けられていたようであるが、本城と共にその
縄張りや建物などについての詳細は明らかでない。

関が原の合戦の後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、毛利領の中で最も東にある備中松山城に国奉行
として小堀正次・政一(遠州)父子を赴かせた。 小堀氏は頼久寺において政務を執っていたが、政一は、慶長
十年 1606)に御根小屋と備中松山城の修復を行なっている。その後政一は所替えとなり、因幡国鳥取から池田
長幸が入城。その子長常に嗣子が無く廃絶、常陸下館から成羽を経て、寛永十九年(1642)水谷勝隆が入城する。

水谷氏は、勝隆・勝宗・勝美の三代が備中松山藩を治めている。初代の勝隆により玉島新田の開拓や高瀬舟に
よる高梁川水路の開発など、主に経済基盤が整備され、県下三大祭として有名な「備中松山踊り」もこの頃に
始まっている。さらに二代の勝宗は、天和元年(1681)から三年にかけて備中松山城の大改修を行い、現存する
天守や二重櫓、その他の櫓、大手門、二の丸櫓門、搦手門など全容が完成している。 しかし、三代の勝美が若く
して急逝、跡継ぎが無かったため水谷氏は改易となっている。 元禄六年(1692)水谷氏断絶後、播州赤穂藩主
浅野内匠頭長矩が城の受け取りに当り、城代家老大石内蔵助良雄は一年近く在番として備中松山藩にとどまって
いる。その後安藤重博、同信友次いで正徳元年(1711)に石川総慶が城主となり、延享元年(1744)に石川氏に
代わって伊勢の国亀山から板倉勝澄が入城する。板倉氏はその後、勝武・勝従・勝政・勝ラ・勝職・勝静・勝弼と
七代続き廃藩置県を迎える。



【行き方】  備中松山城   岡山県高梁市山下1
  山陽自動車道 賀陽IC下車約20分 表示板が沢山あり迷うことは無い。

高梁市に入ってから、街中を流れる高梁川沿いの道路を走らせると市役所から300mほど北側にある標識《備中
松山城→》が目に入る。その標識に従って石火矢町を抜け10分も走れば、駐車場に着く。訪れたのが土曜だった
ため、山腹の駐車場からシャトルバスで鞍部の『ふいご峠』に向かった。バスでは10分ほど、歩くと40分はかかる
でしょう。


【蛇足ですが・・・】

旅の面白みは、各地の美味しい物を賞味すること。備中松山城では、高梁市の名物がアユとのこと。駐車場の
おじさんに訊いたところ、高梁市の鍛冶屋町にある【魚富】に行くと美味しいアユを食できる、とのこと。2時までしか
やってないとの言葉を背中に探しましたね〜。城下町の狭い路地を、あっちでもないこっちでもない、とウロウロする
こと約30分。 時間はお昼を過ぎてもう直ぐ1時。探しているうちにお腹もペコペコ。
諦めて違う店にしようかなと思ったら、ありました! 車は店の前の駐車場に入れ、暖簾を見て『ドキッ』
「お寿司 土井」とかいてある。恐る恐る「ここ魚富さんですか?」と尋ねると、店いっぱいの客人から「 応!」の声。 
幸い時間制限前でご主人に頼むと、快く迎えてもらえました。

いやあ、うまかった! 何が良かったって、日替わりメニューも良いんだが、アユの寿司が一番だ! 天然のアユで
なけりゃ出来ないもので、ナレ寿司じゃなく、生のアユを上手に寿司にするんだよ。うまかったね〜! コリコリして
口の中でアユが泳いでいるようだ。これで3日は長生き出来たね。

※山陰への旅
 10月6日  備中松山城 画像    米子城
 10月7日  月山富田城 画像    津山城