猿掛城 Topへ
猿掛城跡は標高232m、山陽道を押さえる要害として重要だった。
築城の年代は不明。 なれど、武蔵国児玉党の旗頭、庄太郎家長が源頼朝よりこの地を宛行われ
家長の後裔によって、戦国時代築かれたと思われ、代々庄氏が城主だった。
天正3年(1575) 毛利元清(元就4男)が城主になり、天正11年(1583)元清が中山城(矢掛)に移り
廃城となった。
倉敷市教育委員会
太夫丸の由来
天文2年(1533)、猿掛城主の庄為資は松山城へ移り、備中半国の領主として、勢威隆盛を極めた。
その際、為資は一族の庄実近を猿掛城の城代としてこれを守らせた。天文22年(1553)、毛利元春の
援助を受けた三村元親軍と庄為資軍が猿掛城のふもと、現在の横谷・東三成で激突し、大合戦と
なった (猿掛合戦)。 しかし毛利元春の調停により、庄と三村は講和し、翌天文23年三村家親の長男の
三村元祐が庄為資の養子となった。三村元祐が猿掛城主として入城したので、城代の庄実近は城の
北側の曲輪へ退隠し、この曲輪を太夫丸と交渉したといわれている。
矢掛町教育委員会
猿掛城跡へ登る会実行委員会
猿掛城は真備町妹と矢掛町横谷にまたがる中世以来の山城である。猿掛城築城の始まりは東国の
武将・庄太郎家長がこの地に地頭として赴任した際に当初、幸山城(山手村所在)へ入ったが、防御に
不便として、元久2年(1205)ごろ猿掛城へ新城を築いて移ったことによる。
猿掛城は庄氏が366年間にわたり備中支配の拠点として利用した後、天正3年(1575)に毛利元清が
五千貫の領主として入城した。また、この城は天正10年(1582)の高松城水攻めの際に毛利輝元の
本陣となったことでも有名である。
関が原の戦いで西軍が敗れたことにより、元清のあとを継承した毛利秀元が長府へ帰った後、慶長9年
(1604)、猿掛城に花房志摩守正成が5千石で入城したが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり、
元久以来の名城も410年間で終局を迎えた。
矢掛町教育委員会
猿掛城跡へ登る会実行委員会
☆所在地 岡山県小田郡矢掛町横谷(猿掛山)






2009.3.15 撮影