澤城(大和) Topへ 澤城再訪 & 米山城 へ
北畠氏の築城技術は、近江の山城を見る度に比較するとどうしても劣ってしまう。
どこかに最新の、北畠独自の防御構造を持った城が埋もれていないか、との思いから、北畠氏が
大和宇陀に進出し、南朝の天子を保護していた関係から、大和宇陀であれば境目の城であり、
最新の技術を駆使しているに違いないとの期待で大きく膨らんだ胸を更に大きく膨らませ、登城に
及んだ。
高山右近顕彰碑の傍らにある登城口から登る。(これ以外に沢山登城口の標識が出ており、みな
途中で一つになりどの道を通っても同じである。)自家用車は「山口農園の傍らにある澤城登城口」
看板近くの邪魔にならない場所に駐車しておいた。もちろん農園の方に断ってからだ。
前日の降雪により、ぬかるんだ道が暫く続く。 暫くというよりほとんどが残雪あり、ぬかるみありで、
乾いた場所など無かった。歩くこと20分くらいで、堀切に出る。そこから標識に沿って進む。直ぐに
右手尾根に堀切が見えてくる。 山はいつもの通り大変荒れており、倒木がいたる所に手付かずの
状態で残っているためこの写真は見えるだろうか、チョト心配。やがて、道は水平になって角を回ると、
そこに「澤城出郭」の看板があり、説明板が建っていた。「出郭」とは「副曲輪」の意味で、土塁が巡り
曲輪らしい曲輪であるが曲輪内は一面の熊笹と前日の雪のため全く見えなかった。
仕方なく主曲輪と副曲輪を分ける堀切を超え主曲輪に登るもこれまた一面の熊笹のため、早々に
撤退した。撤退している途中、人声のする方向を見ると、沢山の方が手に手に山鎌を持ち、なにやら
相談の様子。訊くと地元の方で、この春に向け登城路の整備をするべく下見に来られたようで、小生
思わず、「ありがとうございます、是非お願いいたします」と大声を出してしまった。 なおも様子を
尋ねると、この中に専門の方、榛原市の埋蔵文化財センターの方がお見えで様子を聞くことができた。
先程の疑問(北畠氏の築城技術、主曲輪と副曲輪との並立など)をぶっつけてみた。それによると、
主曲輪と副曲輪との並立ではなく、築城時期の違いであろうとの答え。一部発掘の結果は、16世紀
第3四半期頃の遺構とのこと。つまり高山右近の父親ダリヨの時期のようだ。しかし、主曲輪の防御が
いかにも弱いとの疑問には答えがない。もう少し調査をしないとの答えが出ない、との答えであった。
ただ調査をするにも障壁があり、この山が個人の持ち物ゆえその方の了解が必要だが、例え下草を
刈るにもその方の了解がもらえない状況なのだという。仕様が無い。この方の了解が貰え、表面調査
だけでも出来ればまだかなり進歩するであろう。それまで我慢するか。
埋蔵文化センターの柳沢様、今回の質問では小生があまりに浅学のため失礼になりはしなかったかと
危惧いたしております。また大貝地区の皆様、皆様方の努力で私共は歩けるのです。この場をお借り
して感謝申し上げます。
☆所在地 奈良県宇陀市榛原区(旧 宇陀郡榛原町澤)




2008.2.11 撮影