篠脇城 Topへ
「鎌倉時代、下総国(千葉県)の名門、千葉氏の一族であった東胤行は、承久の乱の戦功により
郡上郡山田庄を加領され大和町剣に阿千葉城を築きその後三代約90年間居城しましたが、4代目
氏村のときこの篠脇城に移り、十一代常慶まで二百数十年間ここで領地を治めました。
城跡は山頂に本丸跡、二の丸跡、腰郭跡があり、この三段三五〇〇平方メートルの城郭を囲んで
放射状に三十余条の竪堀(通称 臼の目堀といい 石や丸太を投げ落とし、敵を撃退する)を構築
しています。
東氏は代々歌道に優れていましたが、中でも九代常縁は高名な歌人で古今集研究の第一人者でした。
彼は連歌師・宗祇にその奥義を伝授したことで知られ、『古今伝授』の祖と言われています。
常縁が関東へ出陣中の応仁二年(1568)、美濃国守護代斉藤妙椿の急襲を受け、父氏数の奮戦むなしく
落城しましたが、常縁が和歌十首を送りその返礼として城を返された、という話が伝えられています。
天文九年(1540)越前の朝倉勢が来襲したときには、この時の城主常慶は篠脇城で敵の大軍を迎撃して
敗退させましたが、その翌年に八幡赤谷山城に移り、この城は廃城となりました。」
この城の縄張り図を見たとき感じたことは、「なんや、ダニみたいな城やな。ぎょうさんヒゲ生やして」
しかし、これが当時の小生にとって最も知りたかった、見たかった畝状竪堀だったのです。ところがこの城に
もう少し早く気付いていれば、何はさておき飛んで行ったことでしょう。今は、岡山県岩屋城の「てのくぼり」を
見た後だからそれ程ワーッ、キャーッ言わないのです。しかし、やはり凄い物だと思います。
この城の歴史を読んでいると、天正九年に朝倉氏に攻められ、翌十年に廃城になったとか。ただ現在残る
遺構はその当時のものではなく、東氏が去った後誰かが改修したもの。多分越前の朝倉じゃないのかな。
朝倉の一乗谷城も沢山の畝が拵えてあるから。これくらいの普請は得意じゃなかったのかな?
この庭も立派なものだ。東氏は庭を造れるだけの財力、地位、見識を持っていた。美濃の郡上という田舎の
領主でも庭を造れるのであれば、あちろこちらでも築庭の一大ブームがやってきたのではないだろうか。
☆所在地 岐阜県郡上市大和町牧





2010.5.29 撮影