白旗城                 Topへ

白幡城跡は、南北朝時代の武将赤松円心が建武三年(1336)に築城し、新田義貞率いる六万の軍勢に
よる五十日余の城攻めに耐えた堅固な山城です。赤松円心はこれによって足利尊氏の室町幕府樹立に
大きな功績を立てました。

以後、嘉吉の乱(1441)により赤松氏が滅びるまで、白旗城は播磨、備前、美作三ヶ国の守護大名赤松氏の
本城でした。


現在のこる城郭の一部は、後の戦国時代(16世紀ごろ)に築かれたものと思われ、全長約550mに及ぶ
尾根上を中心に、本丸・二の丸・三の丸・櫛橋丸・馬場丸・侍屋敷と伝えられる曲輪跡や土塁・堀切・石積
などの防御施設が残っています。

 白旗城 年表

   1336  建武三年  赤松円心、白旗城を築城。新田義貞の軍勢に対する50余日籠城戦に耐える。 
                その功により円心、播磨守護職に。

   1361  康安元年  南朝の軍勢京を占拠。赤松則祐、足利春王丸(後の3代将軍義満)を白旗城に
                迎える。

   1427  応永34年  赤松満祐、4代将軍義持と対立して下国。白旗城に籠城準備。後に和解。

   1429  永享元年  満祐、播磨国の土一揆鎮圧後、白旗城に白幡降下の瑞兆を報じ、勅使の
                下向を乞う。

   1441  嘉吉元年  嘉吉の乱。赤松氏城山城に一旦滅亡。白旗城も落城か?

   1454  享徳3年  赤松則尚、播磨奪回を目指し白旗城に陣する。

   1499  明応八年  守護代浦上則宗とその部将宇喜多能家、白旗城に籠城し敵の浦上村国を
                退ける。

   1520  永正17年  播磨守護赤松義村、守護代浦上村宗と対立し白旗城に陣する。

                                                   上郡町教育委員会

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到着したのはお昼過ぎ。 昼食がまだとはいえ、これから宿に入るのは勿体ない。大急ぎで腹ごしらえをし、
道の端に駐車して登り始める。

空の様子が怪しいが、帰るまでには降らないだろう。足を速めて頑張る事にする。しばらく歩くと、同じような
格好のご夫婦に会う。 帰りのようだ。 所要時間を尋ねると、1時間少々とのこと。

登り勾配がドンドンきつくなる。 足元には大小の川原石がごろごろしてくる。歩き辛い事この上ない。
一時間ほど歩いた頃、空がようやく明るくなってきた。頂上に近づき、頭上を覆っていた木々が開けてきたのだ。
尾根に出る。しかしまだ登りは残る。 しばしの休息の後、再び挑戦する。 ようやく城の遺構である堀切がある。
その上部にも小さいながらも削平地がある。この削平地は後世のものかもしれない。とこうするうちに分かれ道に
出た。左を登れば櫛橋丸直進すれば二の曲輪、馬場曲輪を通って主曲輪である。 まず主曲輪へ向かおう。
すると櫛橋曲輪を登り下った城道と同じくなる。とはいえ、こちらのほうが低く、戦いの場では不利になっている。
二段に削平された広い削平地に繋がった。 二の曲輪である。 土塁とか防御に必要なものが見当たらない。
幅10m長さ100mほどの馬場曲輪を通った先が主曲輪であった。緩やかな勾配があり、3段の最上段が主曲輪で
あった。 主曲輪を通って北側に出れば、また三の曲輪が目に入る。 唯一土塁のある曲輪である。

この城郭は、防御パーツが切岸だけであった。城道は一回折れている。戦国時代でも相当新しい時代のものと
思えます。

☆所在地 兵庫県上郡町赤松・細野・大富・野桑

 

 

 

 

 

  2010.1.10 撮影