津久井城      Topへ

津久井城は、北に武蔵国、西は甲斐国に接する相模国の西北部に位置し、八王子から厚木・伊勢原、
古代東海道を結ぶ八王子道と、江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井地域を東西に横断し甲州街道に
達する津久井往還に近く、古来重要な水運のルートであった相模川が眼前に流れている事などから、
交通の要衝であった。また森林資源も豊富で経済的に重要な地域として、中世の早い時期から政治・
経済・軍事上の要衝であり違いの対立する勢力のせめぎ合いの舞台となった。

津久井城の築城は、鎌倉時代三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦氏の一族津久井氏によると伝え
られている。時代は変って戦国時代、小田原を本拠とする北条氏は16世紀中ごろまでに相模・武蔵を
領国とする戦国大名に成長した。そしてこの広大な領国を経営し、敵勢力から守るため本城の下に
支城を設け、支城領を単位とする支配体勢を作った。当時の津久井城周辺は甲斐国境に近く、領国
経営上重視されており、津久井城(城主内藤氏)は有力支城の一つとして重要な役割を果たしていた。
現在の遺構は16世紀北条市が整備したもの。


天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条方の関東の諸城も前後して落城しており、
津久井城は徳川勢の本多忠勝、平沼親吉ら12000人の軍勢に攻められ、6月25日に開城した。

                                   ―――――城内案内板より―――――

行き方: 東名 厚木ICを降りR246からR129を橋本でR413に乗り、城山高校を過ぎると津久井湖が
見える。左手が目指す津久井城の城山で、県立津久井城山公園になっている。城山を回りこむように
根小屋諏訪神社方面に向かうと、城山公園の大駐車場が見えてくる。

感想: 冬の暖かい日に訪れた。まだ県立公園として整備している最中でした。落ち葉を厚く堆積させ
非常に歩き易い山道、散歩道をひたすら頂上めざし歩く、歩く。30分程で鞍部に到着。左すれば主曲輪、
右すれば飯縄曲輪だが、小生は左し主曲輪に向かう。尾根の細い削平地を歩くと直ぐに太鼓曲輪の
切岸に、右を迂回して登ると曲輪の後方に到着。太鼓曲輪は攻撃正面に対し低い土塁により防御していた。
先に進もう。堀切を渡る。深さは5mほどか。当時は橋が掛けられていた、との説明がある。その先は
主曲輪の切岸で3段の段曲輪が続いている。4段目の、つまり最上部の曲輪が主曲輪である。主曲輪の
東・南には土塁が廻っている。防御正面は東側だな。 おや? 西側に2段程下がった(米曲輪・米蔵)
曲輪には枡形がある。北条氏が枡形? ここは暫らくペンディングとしておこう。その先は茫々たる草の原。
先は東の沢とか中尾根と呼ばれる所だ。ちなみに、井戸が無いか探してみた。主曲輪の北側少し下った
場所にあるらしく、その場所に小さい削平地があるにはあるが、井戸らしき施設は見当たらなかった。
もっともブッシュが激しく見落としたのかも知れぬ。今度は家老屋敷を通って飯縄曲輪に向かう。飯縄と
聞けば、何を想像するかな?そう狐ですね。さらに、忍者かな。甲賀では水口の近くの飯綱山が忍者の
修行の場だった。百地三太夫だって藤林長門や服部半蔵だってここで修行したんだって。しかし百地は
後年、水口が騒がしくなったのでその奥の奈良県境に拠点を移した。 詳しくは、小生のHP「お城への
招待」を読んで下さい。

飯縄曲輪に入る道は今は直線で入るようになっているが、当時は今の神社手前の腰郭の更に手前で
一度大きく右に振り更に左に振り、腰郭に入る。このことにより横矢を効かしている。腰郭を左に(北に)
回り、一段降りたところに水の手『宝ヶ池』があり、今も水を湛えている。腰郭まで登り東側先端には、
鐘撞堂と呼ばれる烽火台跡などの施設があった。

確かに後北条氏の城は巨大です。後北条氏はこの城と八王子の城とで武田信玄の攻撃から領土を
守っていた。武田軍にはそれで良かった、これから来る軍勢に比べまだ弱小だったから。秀吉が大軍を
以って攻撃した日にゃ、擂粉木で磨り潰したように通った跡には何も残らなかった。

☆所在地 神奈川県相模原市津久井町根小屋162


 

 

 

 

 

 2007.2.2 撮影