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☆所在地 静岡県三島市山中新田
説明板 1 史跡 山中城
山中城跡は、文献によると、小田原に本城のあった北条氏が文禄年間(1558〜1570)に築城したと
伝えられる中世最末期の山城である。
箱根山西麓の標高580mに位置する自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の
拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正18年(1590)3月、全国統一を目指す
豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられている。
三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和48年から発掘調査を行い、その学術的成果に
基づく環境整備を実施した。その結果、本丸や岱崎出丸をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、
田尻の池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀や畝堀の発見は、水の無い
空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一端を示すものとして
注目されている。
出土遺物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁などの建築用材、日常生活用具などが
ある。なお三の丸跡の宋閑寺には、岱崎出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮
康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。
平成8年2月 三島市教育委員会」
説明板 2 出丸 御馬場跡
山中城の出丸は、通称岱崎出丸(たいざきでまる)と呼ばれ、標高547〜557m、面積20400uに
およぶ広大な曲輪であり、天正17(1588)年、秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ増築された曲輪である。
ここは古くから御馬場跡と伝承され、土塁で東側と北側を守り、西側は深い空堀につづき、南側は
急峻な谷で囲まれた岱崎出丸最大の曲輪である。
曲輪内は、本丸と同様式の二段構築でつくられている。建物跡については確認されなかったが、
土塁上からは田方平野を眼下に見渡すことができ、出丸防衛上の拠点であったものと推定できる。
平成9年11月 文化庁 静岡県教育委員会
説明板 3 岱崎出丸「一の堀」
第九次発掘調査(昭和56年度)により検出された一の堀は、出丸全域を鉢巻のように廻るのではなく、
先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を箱根旧街道の空堀まで続くものである。第九次調査では、指定
地内の約150mの間に、17ケ所の畝を確認することが出来た。完掘された一の堀の第三区画は
ローム層を掘り下げて畝を残し、七十度前後の傾斜角を持って立ち上がっている。従って堀底から
すり鉢曲輪の土塁までは、斜距離18〜20m前後の急峻な勾配がつくわけである。
平成8年12月 文化庁 静岡県教育委員会
説明板 4 すり鉢曲輪
山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にある曲輪である。そのためか、曲輪の構築方法も
本丸側の曲輪とは全く異なり、中央部を凹ませて低くし中心から緩やかな傾斜で土塁までたちあがり、
中途から傾斜を強め土塁の頂部に達している。上方から見た様子が、すり鉢に良く似ているところから
通称「すり鉢曲輪」とよんでいる。この曲輪への虎口は南に作られているが、さらに東側に接続し、
幅八mの長方形の曲輪がつくられており、防備のための『武者たまり』と推定されている。
平成11年3月 文化庁 静岡県教育委員会
説明板 5 すり鉢曲輪見張台
出丸の先端に位置するこの見張台は土塁上の一角をやや拡げて、土塁と兼用させたものである。
すり鉢曲輪南側の樹木を低くすることにより、三島・沼津方面から韮山城まで手に取るように望見できる。
見張台直下北側の平坦な部分が堀の跡で未調査ではあるが、試掘の結果、非常に傾斜角が強く、
この堀底から見張台までは8m以上もあり、武具をつけた敵がよじ登ることは不可能な状況を呈していた。
平成8年12月 文化庁 静岡県教育委員会
説明板 6 箱井戸跡
ここは古くから箱井戸と伝承されていた所で、発掘調査の結果、箱井戸と西側の田尻の池一帯は
湿地帯であったことが確認された。
箱井戸と田尻の池の間は、土塁によって分離され、排水溝によってつながれていた。これは湧水量が
多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とす事により、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための
工夫と考えられる。箱井戸の水を城兵の飲料水とし、田尻の池は、洗い場や馬の水飲み場として
利用していたのであろう。
現在、箱井戸には睡蓮が植えられ、花の季節(7〜9月頃)には観光客の目を楽しませている。
平成13年3月 文化庁 静岡県教育委員会
説明板 7 西櫓堀
堀内には、ほぼ9m間隔に8本の畝が堀の方向に対して直角に作られている。畝はローム層を
台形に掘り残して作ったもので、高さは堀底から約2m、頂部の幅は約0.6mで丸みを帯びている。
畝の傾斜度は50度から60度と非常に急峻である。平均した堀底の幅は2.4m長さは中央で9.4m、
堀底から西櫓までの高さは9mもある。
現在は植栽されているが、400年前は滑りやすいローム層が露出し樹木は全く無かったので、もし
人間が堀に落ちれば脱出することは不可能だったと推定できる。
平成12年3月 文化庁 静岡県教育委員会
説明板 8 元西櫓
この曲輪は西の丸と二の丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれた640uの小曲輪である。
当初名称が伝わらないため無名曲輪と呼称したが、調査結果から元西櫓と命名した。
曲輪内は堀を掘った土を1m余りの厚さに盛土し、平らに整地されている。
この盛土の下部にはロームブロックが積まれていたが、これは曲輪内に溜まった雨水を排水したり、
霜による地下水の上昇を押さえ、表面を常に乾いた状態に保つための施設と考えられる。しかも
ロームブロック層は溜池に向かって傾斜しており、集水路ともなっている。
平成12年3月 文化庁 静岡県教育委員会