『第14回 李登輝学校 台湾研修団』 報告記:その1



 923日〜27日まで日本李登輝友の会に よる第14回李登輝学校 台湾研修団に参加してきた(小生は更に一日延泊して28日 まで滞在した)。昨秋の12に 初めて参加し、今回で2回 目となる。同時に小生は4月から台湾語(閩南語)講座に週一回通い始め、いよいよ実践する時が来た ので楽しみにしていた。

 昨秋から早10カ月、この間日本も台湾も大きな変化が起きた。いつもは参加者が3040名程度なのだそうだが、今回は20数名とやや少な めだったものの直前の尖閣問題もあり皆関心の高い人が集まっていた。また、いつもは80代の参加者 までいるのが、今回は昭和23年生まれの3人 が最高齢で平均年齢が大幅に低くなったようである。小生もどちらかと云えば年齢を押し下げるほうである。

 今回の研修は、初日、二日目、そして最終日 の5日目が台北近郊の『淡水』で講義を受け、34日目が『台中』を宿にして、内陸のほうへ野外研修に行くというスケジュールであった。

 初日午後に淡水へ到着後、すぐ近くの『群策』の研修会場へ集まっ た。群策会は<李登輝>先生を中心にしたシンクタンクで、毎回研修の受け入れ先となっている。

 開会式に群策会秘書長となられた云わば群策 会を実質取り仕切る立場の<王燕軍>教頭の言葉を頂戴した。まだ40代半ばの体格のいい方であり、 後から聞いたところ、元は李登輝先生の警護をされており、すっかり李先生に惚れこんだ一人だそうだ。王さんは台湾新幹線建設を実質的に推進された一人だそ う だ。初日の夕食会では、その酒豪ぶりに驚いたが、それをも上回る酒豪ぶりを発揮したのは今回我が方の団長となったUさ んであった。筆者とは第12回の時からの縁で、王秘書長とおない年の寅年である。

   初日の夕食会前に元総統府国策顧問、現台日 経済協会副会長の<黄天麟>先生の講義があった。持論である大きな経済体が小さなそれを吸収していく『周辺化現象』を述べられ、日台ともに中国に呑み込ま れないよう警告された。また、日本が他国の目を気にして円高を20年間放置していることにも疑問を 投げかけられ、『国家は自力で守るしかない』と主張された。尖閣につながる話でもある。

   夕食会では、『二・二八事件』の真相追及に 尽力されている<阮美姝(女へんに朱)(げん・みす)>さんも顔を出された。お父様の<阮朝日>さんは日本統治時代から毎日新聞の支局長をされたり、台 湾ではいくつもの事業を立ち上げた功績を持つ方で、愛娘の阮美姝さんを愛情深く育て上げたそうだ。しかし戦後、新聞社の総経理(社長)を勤めていたという 身分だけで1947228日、阮美姝さんの目の前で当局に拉致され今日まで行方不明となっている。阮美姝さんは『まどか出版』より 『二二八の真実 消えた父を探して』という本を出されており、直前に小生も読んでいたのでお会いできたことが夢のようであった。83歳となっても5060代に見間違えられるほどの綺麗な顔立ちなのだが、前々日に自宅で転倒されたため、小生や他の参加者が腕組 みをしながら歩いた。普段は介護職に従事してるので少しは役立ったかしらと思う一方、小生も初日は和服に着替えていたので、階段などではこちらの足取りの 方が危なっかしいという情けない状況だった。

 二日目は4人の先生による講義を受けた。一人目、『台湾独立建国連盟』主席の<黄昭堂>先生は尖閣問題について、まだ 船長拘束の段階で、多少リップサービスもあったのだろう、‘‘なんとかいい線を行っている’’と云って下さったが、この講義の直後に周知の結果となったの で日本人として恥ずかしい思いである。黄先生は、守る力もないくせに台湾領と主張する無責任な台湾人の一部勢力を非難していたが、裏を返せば日本が責任を 持って自力で守れと云われているに等しい。前日の黄天麟先生と同様、自己責任を説いたのである。

 小生は昨秋の研修でも黄先生の講義を拝聴し た。冗談を交えながら軽妙にお話を進められるのだが、昨秋は台湾人の独立志向が日増しに強まっている実態を数十年来の世論調査を通して実証された内容にと ても感銘を受けた。しかし、いくら台湾人がそのように考えても日増しに攻勢をかけ、今回のようなヤクザまがいの論理で尖閣列島を領有化しようとする中国と 相対していて、本当に台湾は大丈夫なのだろうかという疑問が湧きあがり、今回の講義で黄先生に質問をぶつけてみた。黄先生も同じ危機感をお持ちで、しかし 台湾はこれまで自力で、それも血を流さずにやってきた実績があり、それは今後も知恵を出してやっていくしかないということだった。楽観、悲観が相半ばする ようなお答えだったところに台湾の難しい現状がうかがえた。

 二人目、児童文学作家の<鄭清文>先生は、 戦後長らく国民党政権下で中国古典文学しか教育してこなかった政策を批判され、民主化後の現馬英九政権も同じような道を進もうとしていることを批判されて いた。鄭先生は、より台湾独自の文化、文学の普及を進めることを提言された。

 三人目、<何瑞藤>先生は台湾大学において 日本語文学科を設立し、台湾日本研究学会の理事長として日台間の学術交流促進に貢献された功績で、本年旭日中綬章を授与された方である。何先生は、近代以 降の日本と台湾の歩みを話された。曰く、日本統治時代の経済政策、インフラ整備、教育の充実が台湾近代化に大きく貢献し、結果的に『日本精神』と呼ばれ る、勤勉、忠実、清潔、礼儀等を根付かせたとのお話であった。

   この日最後の講義となった<呉明義>先生 は、原住民アミ族出身で、原住民を中心に台湾の歴史をお話されたのだが、昨秋の講義では歌を歌って下さったので今回も小生よりリクエストすると、子供時代 運動会で歌っていたという歌を美声をきかせて歌ってくださった。参加者は何の曲だったのか分からなかったが確かに日本の歌だった。アミ族は美声で有名だそ うだ。

 4つ の講義を終え、すぐに台北から台湾新幹線『高鐵』に乗り、台中へと向かった。台湾の新幹線はフランスTGVと 日本の新幹線の技術をそれぞれ導入して使っているそうだ。11年前の大地震を教訓に李登輝先生が日 本の技術導入に舵を切ったとのこと。



今滞在中のベストショット:台中駅ホームにて

 3日目からは野外研修で、台湾最大の湖、北側が太陽(日)の形、南側が月 の形をしていることから名づけられた 『日月譚』へと向かった。このすぐ近くの山間(やまあい)に『茶業改良場魚池分場』があり、そこには戦前日本人技師の<新井耕吉郎>さんの胸像がある。台 湾の紅茶生産を切り開いた方で、当時の建物は70年以上経った現在でも工場として使われている由緒 ある場所である。建物は山道を上った頂上にあるのだが、両脇には近年見直されてきたという紅茶畑が一面連なっており、新井さんの功績が甦ったことがうかが える。

 
頂上にある茶工場

一 方、日月譚のほとりには、台湾電力初代社長の<松木幹一郎>さんの胸像もある。いずれの胸像も実業家の<許文龍>さんが寄贈されたものである。異国の地 で、湖の周りに日本人の功績をたたえた記念碑や像が二つもあるということなど台湾以外であるのだろうかと思う。

その 後、ちょっとした観光を兼ねて『集集駅』へ向かった。台湾には日本時代の駅舎が多数残っているのだが、この『集集駅』もその一つであった。地震で一度倒壊 し、再建の声が高まり修復したそうである。ここの駅前は、地方の町ながらも賑わっていた。ドライフルーツなどを売っている老婆の店をのぞくと、日本語で話 される昭和3年の生まれの方だった。売る側なのに『これ、おごってやるよ』というちょっと不思議な 云い回しをされていたのだが、要は試食させてあげるという意だった。4種類のドライフルーツを買う とおまけでもう一つサービスして下さった。

 ま た、この集集駅前で『陳代書 王代書』という看板を見つけた。代書屋のことなのだろうが、思わず看板をカメラにおさめた。というのも日本では今や『代書』 という看板で営業しているところはないからだ。小生は上方落語の当代<桂春團治>師匠の十八番『代書屋』が大好きで暗唱してしまうほどである。代書屋とい う職業もこの落語で初めて知ったほど。今は行政書士とか司法書士のことを云うそうだが、きっと日本にも数十年前まで方々にこの看板があったのだろう。


『もうかった日も 代書屋の 同じ顔』(川柳)
台湾の代書屋さんも愛想がないのだろうか?

 

続い て向かったのは、11年前の平成11年(1999年)921日夜中、台湾中部一帯で起きた大地震の象徴的な被害現場、旧光復国民中学校跡地である『九二一地震教育園』であ る。校庭のトラックが断層のずれで2メートルほどボッコリと盛り上がったところや音楽室の 建物がピサの斜塔のごとく傾いているところなどが保存されていた。この地震は李登輝先生の総統時代に起きたもので、地震の翌朝には既に被災地に立って陣頭 指揮を取られていた。幹部連が台北の総統府へいつも通り出勤したことを強く叱責したという逸話が残っている。研修最終日の李先生ご自身の講義の際にも触れ られてたのだが、新潟大地震の時の安倍元総理は現地にすぐ駆け付けたものの、たかだか一時間もしないで被災地を後にしてしまった。被災地を把握するのに トップとして最低23日は必要であると当 時の対応を批判されていた。

 3日 目の野外研修を終えた夜、台湾人の実業家の李登輝友の会会員の方から足裏マッサージへ招待された。施術以上に驚いたのは、一度に80人の客を施術できるという信じられない店の規模であった。ちなみに、足裏マッサージは日本人にとって中々 過酷なようなのだが、普段お世話になっている整骨院の先生方に小生は強めにやってもらっていたので、今回のマッサージは概ね問題なかった。


左の窓ガラスの先へさらに15台くらいあり、これで半分。
写真に写らない反対側に同じ数の施術台が並んでいる。

 
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日目午前は、最初に台中市内にある『寶覺禅寺(宝覚禅寺)』へ赴いた。ここには戦前台湾中部で人生を終えた 日本人の遺骨を集めた合同墓地があり、その隣には大東亜戦争で命を落とした台湾人軍人・軍属三万名強の鎮魂碑もある。この鎮魂碑には『靈安故郷』と李登輝 先生が揮毫している。改めて日本と台湾の絆を感じる場所である。

 宝 覚 寺訪問後、再び山岳地域へ向かい、『霧社事件』跡地へ赴いた。昭和5年に台湾統治30年以上が過ぎたにもかかわらず日本人に対する大量の殺害事件が起きた。事の真相は、家族意識の強い原住民 タイヤル族と日本人警察官との個人的なトラブルが大規模なものに発展してしまったということのようである。しかし、跡地の記念碑には抗日運動の一つとして 伝えられている。旅行ガイド『地球の歩き方』台湾版は、この事件の報復として大東亜戦争時に高砂族などが戦争に刈り出されたなどというトンチンカンな因果 関係が書かれていた。『地球の歩き方』が『迷い方』と揶揄されてしまうのも無理はない。

台中 は、その名の通り台湾の真ん中、臍に位置しており日本統治時代に指定された『台湾地理中心碑』が『埔里』にある。また、その近くには『埔里酒廠』というお 酒博物館がある。埔里は老酒(ラオチュウ)の一大生産地として有名だそうだ。日曜日とあって大勢の家族連れが来ていたが、彼等は老酒の種々を試飲して、そ れから運転して帰るのだろうかという素朴な疑問を残しつつ、二日間の野外研修は終了し『高鐵(新幹線)』で台北へ戻った。

 


余談 だが、台中というところは台湾人の住みたい街ナンバーワンだそうである。確かに市内の街のつくりは台北に比べ広々と余裕があり、周りは山河に囲まれる自然 豊かな地である。台中にいる間、ふと気づいたのが、方々にある歩道橋が実に洒落ているのだ。ただ橋をかけているのでなく、一つ一つが誰かしらのアイデアに よるデザインで作られており、歩道橋の下をくぐる度に小生はシャッターを押していた。おかげで参加者から歩道橋マニアとまで云われる始末だった(上下の写 真参照)。

 



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