2008/05/01
記憶をつねに新しく蘇生させよ!
大江・岩波裁判判決の日に座間味島を訪れて
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 3月28日、快晴の那覇泊港で高速船に乗り込み向かった先は慶良間諸島座間味島でした。慶良間の島々ははこの時期、山には朱の鮮やかな花をつけるケラマツツジが咲き乱れ、海ではアリューシャン列島から越冬のために回遊してきたザトウクジラの北方への旅立ちがはじまる時期で、ホェール・ウォッチングのスポットとして今シーズン最後の賑わいを見せていました。白人系の外国の方々もたくさん乗船されていました。船が着いた港のにぎやかさが一段落すると、自然環境を観光資源に手作りで作り上げてきた離島の落ち着いた集落の姿へと戻っていました。

 ちょうど63年前の3月26日、この座間味島で、日本軍の強制によって234人の島民が「集団自決」に追い込まれたのでした。座間味村全体では287名と2家族、渡嘉敷島をあわせた慶良間諸島全体で616名と2家族の方々が自決されたといいます(数字は座間味教育委員会編集の「戦世を語りつぐ」)。文部科学省が、2008年度から用いられる日本史の高校教科書からこの「集団自決」が日本軍による強制だという記述を削除する検定結果を公表したのがちょうど1年前の3月のことでした。それは、2005年8月に大阪地裁に提訴された大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判が公判中だというのが根拠の一つに挙げられました。沖縄の人々は「軍命」削除の教科書検定に全身全霊でその撤回を求めて立ち上がりました。県・県議会と全市町村と各議会は抗議決議をあげ、昨年9月29日の宜野湾と宮古・石垣での「教科書検定意見撤回を求める県民大会」には11万6000人が結集する、文字通りの島ぐるみの闘いとなりました。けれども、現在も教科書検定意見の撤回には至っておらず、沖縄の多くの人々は政府への不満をくすぶらせ続けています。そんな中で、今日の朝、大阪地裁はこの裁判の原告の訴えを退け、「集団自決」が事実上日本軍の軍命によるものだという判決を下しました。

 1944年9月座間味には海上挺進第一戦隊が上陸し島の守備と海上特攻の準備・訓練に明け暮れました。突然の上陸にも島民は軍に協力するだけでなく、防衛招集にも応じました。1945年3月23日から米軍による空襲が始まりました。集落の60%が焼失し、住民たちは避難生活に追いやられました。その避難した山も焼夷弾で焼かれることになりました。24日からは艦砲射撃も加わり、その日の夕刻には西方に大群をなした米艦隊が押し寄せて来ているのが確認されたそうです。25日も継続する激しい空襲と艦砲に打ち震え、日本軍の壕に頼ってくる住民を蹴散らし、足手まといになることを嫌った日本軍は住民に島の忠魂碑の前に集合することを伝令し、「集団自決」を促したといいます。26日午前9時、激しい艦砲と空襲の掩護のなかで水陸両用車両30台による上陸が確認されるや、住民たちはそれぞれの壕で手榴弾、カミソリ、ネコイラズの服毒などで次々と「集団自決」が始まったといいます。

 このような無惨で恐ろしい出来事を、自らの命のみならず、我が子を、我が妻を、我が親を手にかけなければならないところまでに追いつめられた人々の姿を、死にきれずに血まみれになって「殺してくれ!楽にしてくれ!」と訴える人々の断末魔の地獄絵を、実際に体験された方々は心の中にジッと押し込めてきました。178名がお亡くなりになられた「集団自決」が行われたという産業組合壕の慰霊碑は、決して多くを語ることなく、それが実際にあった出来事なのだということだけを静かに後生に伝えているように見えます。「平和の塔」のたつ上手の高台からは、座間味の集落と入り江が一望されます。ここから上陸してくる米軍の様子を目の当たりし、逃げまどい、為す術を失い、「生きて辱めを決して受けない」と「玉と砕け」るしかなかった住民の方々。それは決して想像にたやすいものではありませんでした。
 大江健三郎さんは「沖縄ノート」で、1970年の「集団自決」を命じた渡嘉敷島の守備隊長の渡嘉敷島の再訪の報にふれ、「おりがきたら、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ」と評し、辛辣にその心理を表現しました。「まず、人間が、その記憶をつねに新しく蘇生させ続けているのでなければ、いかにおぞましく恐ろしい記憶にしても、その具体的な実質の重さはしだいに軽減してゆく、ということに注意を向けるべきであろう。その人間が可能なかぎり、早く完全に、厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはことさらである。彼は他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく」。そして、原告の誤読として裁判の争点ともなった「あまりにも巨きい罪の巨魁のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、 歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいて彼は自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、・・・」。1970年、復帰前の沖縄では決してそうでなかったけれども、「本土」ではそれが認められるような「おり」が来ていたことに大江氏は警鐘を打ち鳴らされたのでした。

 2005年、この裁判の原告たちは、再び「おりがきた」と判断したようです。そして、今、日本政府も「おりがきた」と判断したのです。「集団自決」を根本で引き起こさせた琉球処分後の暴力を伴う「皇民化政策」「皇民化教育」、「聖戦」の名の下に行われた中国侵略と植民地主義的膨脹、その戦争の惨敗の結果として本土防衛の捨て石となった沖縄、これらの記憶を希薄化していく「おりがきた」と。

 沖縄の友人は、判決を聞いて「ほっとしたよ」「胸のつかえがスーッととれた」「本気で闘えば成果を得ることもできるんだ」と、検定意見の撤回に応じない文部科学省にいらだちを覚えながらも、一時の安堵を隠しませんでした。沖縄の人々は沖縄戦で何があったのかを決して忘れることはできないのです。それでも記憶が風化されないよう、「記憶をつねに新しく蘇生させ」なければと、後生への記憶の伝達に余念がありません。ある反戦地主の方は、「被害を受け、心に深い傷をうけた人々は、その年齢を自覚して、これが最後だという思いで苦しい証言をしておられます。時間は余り残されてはいないのです。同じことは加害の側の人々にも言えることです。加害の側の人が証言するときが来ているんですよ」と話されました。問題は、この「おり」を招いているのが、1970年となんら変わらず「本土」にあることだということだと思います。11万6000人が集まった「教科書検定意見撤回を求める県民大会」は、沖縄の人々の怒りと同時にそのような「おり」を与えている「本土」の状況への不安とも思われてしかたがありません。「記憶をつねに新しく蘇生させ」よと警鐘が鳴り続けてるようです。
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