2008/05/01
宮森小学校Z機墜落事件から50年 永久に語りつぐ
大人たちの宮森「630館」設置と「フクギの雫」で応援する若者
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 1959年6月30日の、”平成の大合併”で現在はうるま市となった当時の沖縄県石川市立宮森小学校への米軍ジェット機墜落事件からまる50年を迎えようとしています。50年の法事といえば仏事では最後の法要ということになりますが、宮森小学校を取り巻く多くの人々はこれを新たな始まりとして、この出来事を永遠に語りつごうと気持ちを一つにして、その取り組みは力強さをますます大きくしています。

 当時の教職員の皆さんは、この出来事を様々な場で、常にその時々の現在的諸問題の中に位置づけて証言をくりかえしてこられました。続いて、当時の同窓生の皆さんがこの出来事を決して風化させまいと、米軍に対する事故報告書の開示要求などにご尽力されてこられました。とりわけ当時2年生だった平良嘉男先生が校長先生として宮森小学校に運命的な赴任をされた昨年度の7月には”命と平和の語り部 宮森「630館」設置委員会”が組織され、地域住民、同窓生、当時の教職員が一丸となって、この事件を永久に語りつぐ決意を新たにされました。これまで事件について口を閉ざしてこられたご遺族、被害者、関係者の方々へのご理解を得ながら、50年を経て毀損が激しく、あまりにも乏しいという当時の資料を収集するとともに、その成果を当面は宮森小学校の空き教室に資料展示室を設置して展示し、将来的には公開の展示施設を創設するためにご尽力されています。

 そしてさらに大切なことは、この大人たちの思いに若者たちが共感し合流してきていることです。この出来事を語りつぎ、「630館」設置の訴えを発進し、賛同を求めたいという若者たちの動きに宮森小学校の卒業生たちも合流し、宜野座映子さんのご指導のもとで「ハーフセンチュリー宮森」という表現集団が結成されました。5月30日、「ハーフセンチュリー宮森」は「フクギの雫」というパフォーマンスを佐喜眞美術館で行いました。宮森小学校で事件から再生したフクギを前に校長先生が子どもたちに事件を語りつぎ、映像、音楽、歌にダンスを織りまぜつつ、基地あるが故におきた惨事を忘れることなく平和の実現のためにできることを考えたいと訴えます。「フクギの雫」公演は更に6月13日にうるま市石川会館で、さらには慰霊祭当日にも宮森小学校で行われるそうです。なお、宮森「630館」設置に協力したいとお考えの方は後ろに掲載した案内をご参考ください。
 ところでもう一度、宮森小学校へのZ機墜落事件についておさらいをしておきたいと思います。

 1959年6月30日午前10時36分、ジョン・シュミット大尉(35歳)が操縦する米空軍第313航空師団第18戦術戦闘機航空団傘下の第44戦闘機中隊所属のF-100Dジェット戦闘機が訓練飛行のために嘉手納空軍基地を東シナ海方向である南西方向に向かって離陸しました。離陸直後、高度1200フィート約300メートル、時速463キロに達したところで発火を示す火災指示器が点灯しました。嘉手納基地への緊急着陸のために機体を軽くしようと25ポンド爆弾を海上に投棄し機体を右旋回させ恩納村真栄田岬上空を通過、嘉手納基地北東部から進入をはかりました。ところがその時突然高度が下がり、このまま直進するとコザ方面に墜落するおそれがあると機は高度を上げ、再度北東側からの嘉手納基地進入を試みるために左旋回して北上します。シュミット大尉が爆発を起こすのではないかと恐怖におびえたそのとき、再び火災を示す指示ランプが赤く点灯、同時に激しい爆発がおきたといいます。そしてもはや嘉手納には戻れないと覚悟し、機首を西に向け、人家の少ない石川市南西部の山腹への墜落を決意したといいます。間もなく激しい爆発が生じコックピットに煙と火が回りシュミット大尉は脱出したといいます。この間離陸からわずか数分の出来事でした。

 この無人化し、制御能力を喪失した火の槍は、自分の機を投げすててパラシュートで逃げだした操縦士が期待するコースからどんどん外れ、右旋回しながら北の方向に向きを変え、あろうことか石川市立宮森小学校に南南西の方角から、空中爆発を繰り返し、黒煙をふりまきながら超低空で接近してきたのです。宮森小学校直前で集落に墜落した機体はバウンド、午前10時40分、宮森小学校南側の6年生の2階校舎の屋根に激突、真っ赤な色と異常な熱気であたりを包み込みながら、機体はバラバラに分解しました。機体に組み込まれたエンジンと主脚のタイヤがこの6年生の教室の屋根を突き破って落下し炎上、校舎の壁にはさながら鉄の暴風のように破片が突き破って飛び込みました。さらに勢いのついた残骸は屋根を越えてさらに突き進み、燃えさかる火の玉となって別棟の2年生の校舎の上から、火の粉ならぬ、ジェット燃料の火炎を降り注いだのでした。このとき、宮森小学校は2時間目を終えた休憩時間でした。ミルク給食を取る学年、校舎や廊下で走り回ったり、教室で暴れている子どもたち。いつもの騒々しくもおだやかな学校生活に一瞬にして突然の悲劇が襲ったのでした。

 この事件で小学校の児童11名を含む17名をが死亡、やはり児童156人を含む212名が重軽傷を負うことになりました。3教室、公民館、民家27棟が全焼、2教室と民家8棟が半焼しました。

 事件当日から現地のマスコミは全紙面を割いて<惨!宮森校にZ機墜落><平和な学園-一瞬!死の恐怖><現場は阿鼻叫喚の渦><さながらの生地獄 火をかぶって黒こげに>という見出しで事件の激しさを伝え、その後も連日、続報を掲載しています。

 落下した残骸の直撃を受けて即死した子、燃料を頭からかぶり引火して生身を焼かれ、火だるまになって”先生助けてッ”と救いを求めながら息絶えていった子、病院に運ばれながら”先生いたいよ、いたいよ”と訴えながら親御さんがおいでになるのを待ちきれずに逝ってしまった子、焼け落ちた校舎の下敷きになり、真っ黒な炭のようになって発見された子。まさか我が子だけは・・・と思いならも、安置室とされた教室に「一人一人入っていくたびに教室から鳴き声が起きる」(7/1沖縄タイムス)。

 米軍のみならず近隣地域の消防車、医師が集まり消火活動、応急医療処置を行い、タクシーは負傷者の病院への搬送に協力しました。けれども被害者のリストも収容先病院も公開されず、ご家族は帰ってこない我が子を探してあちこちの病院を探し回ったと言います。教職員の皆さんは、何が起きたのかすら分からない突然の出来事への混乱のなかで、教え子たちが傷つき死んでいく事態を目の当たりにしながらも、子どもたちの安全の確保、負傷者の救護、子どもたちの安否の正確な把握のために夜を徹して確認作業に奔走しました。「世界で最も小さい島でさえ平和が確保されず、このような犠牲者をだして、どうして世界平和が可能なのでしょう」(7/1 琉球新報)とやり場のない怒りと悲しさを表現される先生もいらっしゃったようです。

 事故の後も子どもたちの身体と心の傷は容易には癒されることはありませんでした。沖縄教職員会編「沖縄教育」に掲載された3年生の作文には「あのZ機事件から53日すぎたがいまでもやけどで苦しんでいるお友達がたくさんいます。それでもZ機はかまわず毎日のように飛ぶので皆がこわがっています」と当時の教室の様子を表し、学校の修復工事に来ている大工さんが昼の休憩で横たわっている姿を見た幼い弟が「びっくりしたように”人がしんでいるあっちにもこっちにもいっぱいしんでいる”といったのでこまってしまいました」と書いているように、子どもたちに大きなショックを与えていたことが分かります。この事件で大やけどを負った子どもたちの中には、その後、体力が弱り数年後に命を落とした方や、日常生活に支障をきたすような障害を残した方もいらっしゃいます。負傷が原因で記憶障害をおこし、五十音まで忘れてしまう子たちまでも生み出したと言います。

 また、6年生の男の子の中には、近所の女の子が負傷し、目の前で「お兄ちゃん、助けて!」と訴えられたのに恐くて逃げてしまったことが、今になっても、なぜ助けてあげられなかったのかという後悔と心の重みになって苦しんでいる方もいらっしゃいます。遺族の方々の心の中ではあの事件から時間が止まり、50年を経ても陰膳を欠かすことなく、幼い我が子と共に生活し続けておられる方もおいでになると聞きます。ここでは詳しく触れませんでしたが、Z機が墜落した民家で被害にあわれた方々も家屋の下敷きになったり、Z機にはね飛ばされたりと壮絶なものだったと伝えられています。

 事故機は5月に台湾の民間整備会社で整備を受けて嘉手納に帰還したもののトラブルが報告もあり、また計器類にも不調が生じ、嘉手納で再度の整備を行っていたことが伝えられています。米軍は事故原因の開示要求に、重要部分がほとんどマジックで炭塗りされた文書を”公開”しました。そのような不十分な資料からでも、整備不良の欠陥機を用いたテスト飛行であったことが徐々に明らかになってきています。ここで”事故”ということばを極力控え、”事件”と表現しているのはこれに根拠します。

 この事件はヤマトゥの新聞でも報じられています。7月1日付けの朝日新聞は社会面にAP通信社の配信記事として写真入りで事故の模様を掲載しています。7月2日には全国で多発する米軍用機の事故の特集を組み、偶然上京していた琉球政府文教局長の談を掲載しています。「こんどの事故があった宮森小学校は基地に近いところではない。そこの落ちたことは全島約三百の小、中学校が同じ危険にある状態だ、といえる」と。基地というものが沖縄全体に実際に危険なものであることを現実が証明した出来事だったのです。
宮森小学校Z機墜落事件の犠牲者を追悼すると共に、今を生きる児童たちを見守る”なかよし地蔵”。
なかよし地蔵の土台に刻まれた事件の概要
 当然ながら宮森小学校Z機墜落事件50年を現在の出来事の中でどう捉えるかということを私たちは考えなければなりません。

 嘉手納基地は常に米軍事戦略の前線にありました。事件を引き起こしたF-100Dという戦闘機は米国にとっては初の超音速戦闘機として開発され1956年から量産されました。米ソ冷戦下でMiG-17と対抗するものの戦闘機の能力としては劣勢で、爆撃任務に就くようになったといわれます。そして実際1965年からはベトナム戦争での北爆に用いられた航空機です。現在も第44戦闘機中隊は嘉手納飛行場でF-15を主力装備として展開しています。最新鋭の戦闘機による前線での訓練は高度な操縦テクニックの取得のための激しい訓練であるため、民間航空機を飛ばしているのとはわけが違います。沖縄県基地対策課の資料から嘉手納基地関連の航空機事故をひろいだしただけでも施政権復帰前には墜落事故が5件、1972年から現在まで墜落事故24件、部品落下事故23件、異常離着陸事故63件と事故や使用機材の不調は日常化しています。また激しい騒音の”基地負担軽減”のためと日米軍事再編で沖縄以外の地域への嘉手納基地所属の戦闘機の転地訓練が開始されましたが、今度は米本土からF-22が一時配備されたり、アラスカやグアムから、韓国から、岩国から、太平洋艦隊の空母艦載機が群れになって飛来し、逆に騒音が激しくなっているのが現状です。宮森小学校上空は相も変わらずごう音を引きずって戦闘機が飛び交っています。
 2004年8月13日の普天間基地所属のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落炎上し、再び基地というものが沖縄全体に実際に危険なものであることを証明しました。宮森小学校Z機墜落事件を思い起こさせたのは墜落事故の恐怖のみならず、沖縄県警を排除して米軍が非常線を張る捜査、報道機関による立入取材の排除など、復帰前と変わらぬ米軍による権力行使でした。非常時には今も米軍が日本という主権国家の中にありながら軍事力を背景に権力を行使する事態を目の当たりにしたのでした。また当時の町村外相は米軍の「イラク戦争対応への多忙による睡眠不足が導いた整備不良」という事故原因報告を受けて10月12日には事故機と同型機の運用再開を承認しました。イラク戦争の負担を沖縄県民に押し付けたうえ事故の再発防止への提案もは全くなされないままのいい加減な対応でした。それをあからさまに示すように、10月16日に沖縄を訪問した同元外相は、墜落した近隣の家屋には激しい勢いで機体の一部が飛び込み、死傷者が出なかった方が不思議だった現実に目を背け、「米軍のパイロットは操縦技術がうまかった」と発言したのでした。宮森小学校Z機墜落事件の張本人とも言えるシュミット大尉も恥ずかしげもなく事故直後から「ベストをつくした」と述べ、多くの人々からその無責任さを指摘されました。最も重要な立ち位置として、ジェット燃料が降り注ぐ運動場や教室にいた子どもたちや、、激しい勢いで住まいに飛び込んでくる墜落するヘリの部品から赤ちゃんと共に身を守って隠れた母親の視点から起こっている事態を見たいものだと思います。

 キャンプ・シュワブ沿岸地域への新基地建設で環境アセス準備書が沖縄防衛局によって公告・縦覧され、これへの意見書の集約が終わりました。防衛局はそれにもかかわらず準備書の提出後も調査を続けています。調査も終わっていないのに工事開始の時間あわせのためにだけ準備書をでっち上げたのではないかと、その違法性への指摘の声が大きくなっています。この準備書は5400ページにも及ぶ大部のものですが、その全体を見渡しても”事故”や”墜落”という言葉は、アセス方法書に提出された住民意見書の中に、しかも数度しか認められません。けれども宮森小学校へのZ機墜落事件は、軍用機が使用する飛行場の危険性はいかに人口密集地をはずしても沖縄全体に実際に危険なものであることを事実で証明しているのです。

 沖縄戦の傷口も癒えきらない時期に再び襲いかかってきた惨事、基地というものが危険だということを確認するには大きすぎる犠牲を払った宮森小学校Z機墜落事件の50年を当時の教職員の皆さんは「襟を正して」迎えたいとおっしゃいます。犠牲者の皆様へのご冥福をお祈りし、私たちももう一度襟を正す機会とさせて頂きたいと思います。
宮森「630館」設置にご協力を
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