2008/05/01
「第二の名護市民投票」に勝利  「新しい基地はいらない」
-13年間足蹴にされ封じ込められてきた市民の誇りを奪回-
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 2010年1月24日の沖縄県名護市長選挙で「普天間基地の辺野古移設反対」を訴える稲嶺進さんが当選しました。稲嶺進さんの選挙対策本部には投票締め切り直後の午後8時3分には当選確実の一報が入り、支援者は全員”やったー!!”、”信じられない!!”と喚起に包まれたといいます。名護市民は12年の歳月を経て再び「新しい基地はいらない」との判断を示しました。比嘉鉄也元市長が13年前の名護市民投票で示された「新しい基地はいらない」という市民の意志を足蹴にして当時の政府と基地受入れで合意して以来、金と力と嘘で封じ込められてきたその市民の意志は、民衆の闘いの中で名護市長選挙の争点に高められた、基地を受け入れるのか受け入れないのかを問う”第二の名護市民投票”で、今、再び、蘇りました。政府が陰に陽に求めてきた”住民の意思”は明確に示されました。政府には退路はありません。キャンプ・シュワブ沿岸への”普天間移設計画”の即時撤回が求められています。

 島袋市政のこの4年間は、SACO合意に基づく旧移設案の事実上の破綻で消え去った名護市への基地建設事業をなんとか復活させ誘致したいという沖縄北部の”経済界”の一部の地域ボスの利権を代弁するものでした。米軍や沖縄族議員が結託して日米軍事再編の中にキャンプ・シュワブ沿岸への新基地建設を押し込み、地域ボスたちの企業への工事発注の獲得と、ハコモノ建設の工事のばらまきのために基地受け入れにリンクされた北部振興策や再編交付金の獲得が市政だいわんがばかりのふるまいを繰り広げてきました。けれども、ハコモノの建設後の管理・経営コストの増大は、国からの多額の予算の配分を受けているにもかかわらず、市の財政悪化の要因としてふくらみ続けています。経済危機到来で30社以上の企業が倒産する中、自らの支持母体の企業すら倒産から救えず、旧市街地は文字通りの”シャッター通り”から抜け出せないまま無策状態で放置されています。県立北部病院の産婦人科は一時的に国から軍医を借りてきたもののとっくの昔に本土に逃げ帰ったままで医師一人確保できず、過疎化した地域の学校は統廃合を強要され、ゴミ処理への受益者負担を増大させるなど、基地を受け入れることが、なんら市民生活を豊かにすることなどなく、逆にこれほどまでに市民生活を破壊させるものなのだということを見せつける事態を招いています。財政難もとでの副市長2名体制、”基地アドバイザー”の設置などの無駄遣いが指摘される中、身内の市職員への無試験採用や昇格といった市政そのものの私物化への批判まで噴出する始末です。

 今回の市長選挙は、当初、このような市政の私物化をめぐる名護市政内部の対立による保守分裂から始まったかに見えました。昨年4月には市政野党も市長選に向けた候補者の選定に乗り出しましたが候補者を絞り込めないままの、従前の閉塞状態だったといいます。ところが中央での自公政権の腐敗と瓦解、民主党による政権交代の動きは、とりわけ民主党の地盤のない沖縄ではその地盤の獲得のために打ち出された”普天間の県外・国外移設”方針によって一気に政治状況を塗り替えてしまいました。沖縄では8月末の衆議院選総選挙で、普天間基地の県内移設に反対する候補者全員が当選しました。11月8日の普天間の県内移設に反対する県民大会は自民党、公明党の組織的離脱で集まる人々の数は21000人にとどまりましたが、沖縄の人々の政治的意識は、その実現の現実性に目覚めていることを見せつけました。当初は”普天間移設”に対する姿勢はどうとでもとれる発言をしておられた稲嶺進さんも、本来の一坪反戦地主のころの思いに火がついたのか、次第に立場を鮮明にしていかれ、基地受け入れ反対の統一候補として自他共に認めるまでに変わっていかれました。このような民衆の意識の変化は、またしても、とうてい基地を争点とした選挙戦を戦えることができない状況にあった名護市長選を、一気に基地の受け入れを争点にして戦われる選挙戦へと押しあげられることになったのでした。

 告示後も新基地建設反対の民衆の意識はさらに高まる一方でした。稲嶺陣営の宣伝カーが通ると路地や  家々から人々が出てきては宣伝カーに近寄り、”頑張ってねー”と手を出し、歩道で候補者の幟を手に支持を求める人々やアピールする人々にむかって、通り過ぎる車から手を振る光景があちこちで当たり前に見られました。御自宅の前で幟をもつって立っている人がいらっしゃるかと思えば、あちこちの辻でゲリラ的な演説会をしている方に出会うなど、様々な人々が様々な形で基地受け入れ反対を訴えています。まさに97年の市民投票を思い出させる市民の活発な動きが町中にあふれていました。この活発な市民の活動と、それを受け入れる市民の意識こそが基地受け入れの是非を争点にまで高めた原動力だったのです。

 23日の選挙運動最終日、国道58号線の通称青山交差点(大北5丁目交差点)に稲嶺候補の支持者が集まってきます。おのおのの事務所から幟やゼッケンを持って”みちじゅねー”よろしく人々の流れは後を絶ちません。1000人を越える人々が集まってきます。稲嶺進さんが打ち上げの演説を行うのでした。市民投票以降でこれほどまでに勝利を確信して人々があつまり、打ち上げ演説が行えたことがあったでしょうか。「夜明けを信じて変えようとする皆さん!」稲嶺候補は訴えを開始しました。「13年間つらい思いをしながら、隣同士がいがみあわさせられてきましたが、これで終わりにしましょう!今回の選挙は、辺野古の美しい海に基地は作らせないという、13年前の市民投票と同じ結果を出し、辺野古に基地はいらない、県内の基地のたらい回しはだめだと、私たちが意思表示できる、最大で唯一のチャンスです」「明日の選挙で基地問題に決着をつけ、あたらしいやんばるの町作りに踏みだしましょう」と訴えたのでした。基地の受け入れを争点とした名護市長選挙はこうしてクライマックスを迎えたのでした。

 日米安保条約改定署名から50周年を迎えた直後に示された名護市民の意志は、その条約の根幹をなしてきた在日米軍基地の沖縄への封じ込め政策の本格的終焉の始まりを宣言するものです。沖縄戦後、在日米軍基地の集中が波状的に繰り返され、動くことはないと思われてきた沖縄の基地が、ひょっとすると動くかもしれないという、1990年代前半の冷戦崩壊後の時代の変化が、今ようやく形となってあらわれてきています。今回の投票結果は沖縄の一時代を画し、歴史的一歩を踏み出す時代の到来を予感させるできごとだと確信しています。

 投票日前々日は旧暦12月8日のムーチーの日に当たり、サンニンの葉に包んだ香りよいお餅を作り、子どもの歳の数だけ吊るして健康祈願、厄除けを行う日でした。この時期、沖縄は最も寒い時期であることから、このごろの寒さを鬼餅寒(ムーチービーサー)と言います。実際、稲嶺候補の打ち上げ演説が行われた投票日前日は冷え込みもひときわでしたが、演説会場は、名護が、そして沖縄が変わる時を迎えているという人々の興奮が熱気となって伝わってくるようでした。けれどもこの寒さは名護城の山々を真っ赤に染める寒緋桜の開花を促し、やがて来る春の到来には避けることのできないものなのです。



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