港川人の時代に思いを馳せて
 ”ガンガラーの谷”という観光スポットがあります。

 今年の8月8日にオープンされたばかりで、経営はあの”おきなわワールド玉泉洞”を経営する株式会社南都さんです。そしてこの観光スポットの売り物は、”港川人”が生活したのではないかと発掘が行われた鍾乳洞です。港川人研究を先行する東京大学総合研究所はその沽券にかけても港川人の生活遺跡の発見に力を尽くそうと、ここ”ガンガラーの谷”も発掘され、沖縄県立博物館美術館や沖縄県立埋蔵文化財センターなどもこの研究への協力、”ガンガラーの谷”へのフィールドワークなどの広報活動にも力を入れておられます。

キノボリトガゲさんです。 ナナホシカメムシの軍団です。 アオミオカタニシ君です。

 実際に訪れた”ガンガラーの谷”の見学では、説明員の方が随伴され、太古のむかしの港川人のプロフィールを解説してくださるだけでなく、鍾乳洞の形成のメカニズムやその天井の崩落によって形成されたこの渓谷の由来、この地域に生息する動植物の生態、この渓谷にまつわる民俗史などの解説を受けながら、港川人が歩いたかもしれない小径を1時間以上かけてじっくり散策するものでした。この施設を開設するにあたり南都さんが出された求人広告を見ると、退職教員や考古学の学生さんなど素養ある方々を捜されたようです。今後の追加調査の可能性もあり、安全に散策できる小径を整備する以上の開発は行なわれていません。

マダラコオロギ君の好物はクワズイモの葉っぱです。 ヒシバッタの一種です。 ホタルの幼虫の好物はアフリカマイマイです。

 私たちのルーツにつながるかもしれない人々の生活に思いをはせて、遠大な時間の流れの中に身を置くのも良いのではないでしょうか。順序は別にして、港川人についてのコレクションと解説に優れる沖縄県立博物館美術館の見学をおすすめします。

ガジュマルは歩くと言います。垂れ下がる気根が地面に付くと根となり徐々に位置を変えていくんだって。 この渓谷は鍾乳洞の天井の崩落でできたそうです。崩落跡は20メートルほどの高さです。 港川人試掘現場は、そのままの状態で置かれています。7メートルほどの深さまで掘られていました。
ガンガラーの谷の展望台から太平洋を望みます。港川人の遺骨が発見された港川フィッシャーは目と鼻の先です。
追加情報1
2008年11月23日、この遺跡「武芸洞」を発掘していた、沖縄県立博物館・美術館と沖縄更新世遺跡調査団は約2000年前の縄文末期の石棺墓と人骨を発見。歴史の空白を埋めようと発掘が進められています。
UkiUki 解説
港川人についての解説は様々な場でなされていますが、メモしておきます。

港川人骨の発見とその背景
ガソリンスタンド経営を生業にしておられた大山盛保さんがご自宅の庭石にと購入した琉球石灰岩(泡石、粟石、港川石:地質学的には最近の数十万年前にサンゴなどの石灰分が固まって形成された、できたてで圧縮されていない沖縄独特の石灰岩)に動物(シカ)の化石を発見したのがことの始まりだったといいます。1967年のことでした。この当時、静岡の三ヶ日、浜北での化石人骨が発見され、更新世人骨への関心が一種のブームになっているときだったようです。このとき沖縄で発掘された人骨の研究を行っていた鈴木尚東京大学人類学教室教授は沖縄での更新世人骨の発見に期待を寄せていたといいます。というのも沖縄の琉球石灰岩洞穴からにじみ出る地下水には炭酸石灰分が多く含まれ洞穴内に人骨があればそれを化石化する可能性が高かったからです。本州内では遺跡はあっても火山性の酸性土壌のもとでは人骨をとかしてしまうため人骨が化石化して残っている可能性が低いのです。大山さんはその庭石の切り出し地が現在の八重瀬町、当時の具志頭村港川であることを聞いてその採石場の調査に入りました。その採石場の幅1m足らずの岩の裂け目(フィッシャー)の堆積物の中から人骨の破片が発見されたのでした。この情報をもとに1968年から69年にかけて東京大学を中心とする発掘チームが現地に入り調査を行いましたがこのときには人骨は見つからず、同時に行われた那覇市の山下洞窟で32000年前の女の子の人骨が発見されたそうです。1970年に入っても継続して調査していた大山さんは人骨を発見し、琉球政府教育委員会の協力の下9体が引き上げられました。これがいわゆる港川人骨と呼ばれるようになったものです。なお、昨年、山下洞窟で発見された人骨も国内最古の37000年前のホモ・サピエンスであることが確認されました。

港川人が生きた時代
年代測定は困難なのだそうです。港川人の場合、(1)人骨の近辺から発掘された炭化物を放射線同位元素法の調査結果で18250-16600年前、(2)人骨とともに発見された出土層の動物化石がイノシシのみの層(Phase B)ではなくイノシシとシカが共存する層(Phase A)で、更新世末期20000-10000年前)(3)人骨や動物骨のフッ素含有量が多く縄文時代よりかなり古いという国立科学博物館の松浦秀治さんの分析から、一般に18000年前のものだと分析されています。

港川人は採取狩猟生活する栄養状態の良くない体格
頭は小さくないが骨が厚く脳容量は少なめだが知能が劣っていたとは思えないそうです。発見された人骨から見られる体型は身長153cmと小柄で上半身は華奢だったそうです。肩や腕の力は弱かったものの握力は強かったそうです。見つかってはいませんが、粗末な道具を用いるために頑丈な手が必要だったと見られています。反面下半身は骨盤も大きく、大腿骨も体格相応だと言います。足の筋肉に発達は進んでいて山野を駆け回っていたことが推測されます。栄養状態の不良を示すすねの骨にハリス線という傷が見られるそうです。咀嚼筋肉の発達が見られ、歯は著しくすり減っているそうで、固いものをかみ砕いて食べていたことが分かります。

港川人はどこから来たの?
港川人研究の第一人者である馬場悠男さんによれば、港川人はどこからか来たというのではなく、既存に発見されている新人たち、例えばインドネシアのワジャク人や、中国南部の柳江人などとともに、太平洋海岸部でまとまった集団として暮らしていた人々だと分析しておられます。馬場さんは港川人の生活跡が発見されていないことからくる発掘人骨への不信、港川人から発見された最古の文化遺跡までの約1万年のブランクに伴う縄文人の祖先説への懐疑、港川人絶滅説などには否定的で、港川人の積極的肯定説を取る方です。
その是非はさておき、人類の起源についての学説が続々と更新されているもとでは、このような論争はとどまることなく続けられていくことでしょう。現在の定説では、20万年前に登場したホモ・サピエンスが、人類の肉食を契機とする人口分散の必要性に駆られて10万年前ごろの第2次のアウト・オブ・アフリカによって、ネグロイド・コーカソイド・モンゴロイドへと分化したといいます。港川人もこのモンゴロイドの系列にあることは立証されているようです。更新世末期のこの時期は氷河期で水面が現在より100m程度低く、ユーラシア大陸南部とオーストラリア大陸の間にスンダランドが存在し琉球列島も大陸と陸橋でつながれていたといわれます。港川人はこの時期に南方から陸づたいにモンゴロイドが移動してきたという意見もあれば、既に南方の系列からはずれて別途形成された太平洋海岸集団だという説、ヒマラヤ北部からの南下説など様々な説があるようです。18000年前に琉球列島が大陸とつながっていたという説も、既に島嶼化していたという説もあり、諸説紛々です。これらは今後のさらに新しい発見にもとづいて、また新しい学説がこれらを塗り替えていくことでしょう。現に那覇市の山下町遺跡で発見された人骨も3万2000年前のものだと言われますが、これがホモ・サピエンスだったことが証明され、新たな考え方が登場する気配もあります。

沖縄県埋蔵文化財センターの「沖縄の自然」を参考に作成した15000年前の更新世末期の地形図
過去は地中深くに
さて”ガンガラーの谷”の港川人発掘現場は試掘調査が行なわれただけのようです。こちらの鍾乳洞ではこれまでに新石器時代の石器や土器が見つかっているそうで、試掘の候補地に挙げられたようです。試作調査の現場後には約5メートル四方、深さ3メートルほどの長方形の穴がくりぬかれ、更にその中に約3メートル四方、深さ4メートルの長方形の穴がくりぬかれていました。鍾乳洞に堆積した土砂を掘り進め、港川人たちが暮らした地層へとより深く掘り進めていくことでしょう。
最新の地層
ところで、沖縄県立博物館の貝塚時代の展示物の中に興味深い展示物が作られています。それは土器や石器、貝やジュゴン、ウミガメなどの海洋生物の外殻や骨格を用いた道具や装身具を、それらが発掘された地層から歴史的にどの時代のものかを説明する地層の断面模型です。写真撮影が禁止されているので説明だけになってしまいますが、およそ3メートルほどの高さの模型は、沖縄に住んだ人々の歴史を地層から如実に説明しています。この模型で最上層部、つまり最も最近の地層には何が積まれていたと思いますか?それはなんと米軍が基地建設のために基礎を入れた厚さ数十センチの盛土層だったのです。人類の起源、縄文人の起源、港川人が住んだかも知れない太古へのいざないは、3メートルの地層模型の厚みの上に、戦世ー(いくさゆー)からアメリカ世(ゆ)ー、大和世(やまとゆ)ーへと翻弄された沖縄の現代史が積み重ねられ、その最新の地層は米軍基地建設のための基礎だと分かるや、タイムマシンは一気に現代に引き戻されます。
基地のための基礎でない新しい地層
沖縄で人の手によって歴史が記録される時代がやってくるのは早く見積もっても12世紀後半のグスク時代の到来を待たなければなりません。存在は疑問視されていますが、1187年に舜天王が即位したといわれ、そのころになってようやく農耕の広がりと階級分化が生じ、豪族のような生産集団のリーダーが登場し始めたようです。

司馬遼太郎さんは「街道をゆく 先島への道」で、沖縄では砂鉄が出なかったために鉄器の普及が遅れ、農耕が根付かなかったことを指摘し、鉄をモチーフとした沖縄の前史時代の長さの必然性を解説しておられます。

グスク文化が世界遺産に指定されただけでなく、その前史時代の長さのゆえに、沖縄はいたるところに人の住んだ遺跡が分布しています。いわば遺跡だらけなのです。沖縄で発見された最古の土器は野国貝塚の土器です。これが紀元前5000年ごろのものと推定され、ヤマトの時代区分で縄文中後期のものです。この野国貝塚は、嘉手納空軍基地と国道58号線を挟んで目と鼻の先にあります。沖縄戦における米軍の上陸地点の間近です。

また普天間飛行場の所在地は遺跡の密集地で全く発掘調査は行えていない状態です。さらに新基地建設で問題になっているキャンプシュワブ沿岸にも思原(ウムイバル)遺跡、思原石器出土地、思原長佐久遺物散布地、大又(ウフマタ)遺跡が存在します。1982年の調査で発見された土器片などから、大又遺跡は少なくとも2000年以上前の遺跡だとされています。新基地建設案ではV字滑走路を建設するといいますが、ちょうどこれら4つの遺跡のうち2つを埋め立ててしまう計画になっており、さらに滑走路建設に伴う兵舎の移設予定地が残り2つの遺跡に引っかかっています。新基地建設にあたり名護市教育委員会は昨年試掘調査を行ない、今年は大又遺跡を中心に本調査が行なわれています。


普天間基地の下は遺跡だらけです。緑の領域は沖縄県埋葬文化財センターが遺跡だと指定している領域です。
遺跡を壊して基地建設が進められようとしているキャンプ・シュワブ。

基地建設で遺跡が破壊されていく。全く恐ろしいことです。韓国でも建設が進められている平澤のキャンプ・ハンフリーは、駐韓米軍が100年維持できる強固な基礎が必要だと、肥沃な農地に毎日毎日土砂を運搬し、2-3メートルの盛り土を行なうと言います。基地建設で肥沃な大地を破壊していく。全く恐ろしいことです。

米軍基地の地層はこれぐらいにしたいものです。あの地層模型のある沖縄県立博物館美術館は、米軍住宅の返還跡地の天久の新都心に移設新築されました。読谷村の補助飛行場返還跡地の村役場でも、嘉手納弾薬庫返還跡地のやちむんの里でも、北谷町のハンビータウンでも、返還を勝ち取った米軍基地の上に自分たちの歴史を築き上げる熱心な努力が積み重ねられ、その意気込みは今もほとばしっています。新都心に建設された博物館の地層の断面模型は、米軍によって積み重ねられた歴史の苦痛のみならず、その米軍の地層の上に新しい基地のない沖縄の地層を重ねていこうというウチナンチューの意気込みを来館者に訴えているように思えてきます。
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