遭遇 ヤンバルクイナ

−伊部岳闘争が今に伝えるもの−
 8月末,国頭村安田で“闘争の碑”を見ていたら,道路を黒い鳥がタタタタッタと通りすぎ,道路脇の側溝をひょいと飛び越え,森の中に入っていった。デジカメのシャッターを押す間もなく目の前を通り過ぎてしまい,「あ,ヤンバルクイナだあ」と叫ぶことしかできなかった。そして,「あ〜写真を取りたかった」と言っている時に,再び目の前をくろっぽい影ががタタタタッヒョイと走り過ぎていった。これまた,写真をとることが出来なかった。2羽に出会ったのだから3羽目も!と,カメラを片手に,道路脇でじっと待ったが,3羽目にお会いすることはなかった。

 地元のネイッチャーセンターの方に「ヤンバルクイナですか」と尋ねたが,「お腹が茶色い別のクイナかもね」と言われたが,ヤンバルクイナ保護区でもあったので,そして,上の合成写真のような感じでもあったので,絶対ヤンバルクイナだったと,一人で信じている。沖縄に通い出して20年目の出会いなのだから・・・。



 ヤンバルクイナの交通事故死が多い。周辺にはヤンバルクイナ注意!の標識もある。側溝もヤンバルクイナが落ちてもはい出て来られるよう片面を直角ではなく斜めにしている。人間がどのように工夫をしても,そもそも,ヤンバルの森を切り開いてたくさんの道路を造ってしまったこと,ヤンバルクイナにとっては大きな問題であろう。

 めったに車が通らず,鳥や蝉の声だけが響く道路の真ん中で,再びヤンバルクイナに出会えることを願った。

UkiUki 解説
 ヤンバルクイナがクイナ科の固有種として”発見”されたのは1981年のことだと言います。もちろん地元やんばるの人々はこの鳥のことは昔から知っていて、「アガチ(慌て者)」だとか「ヤマドゥイ(山鳥)」と呼んでいたそうです。ヤンバルクイナは、胸の筋肉や骨格が退化して小さくなり、対称形状の風切羽を持つ飛ばない鳥独特の特徴を持っています。飛ばない鳥といっても、ペンギンは過酷な寒冷地の天敵が少ない環境下で海で生きる力を進化させ、ダチョウは大きな身体と卓越した走力を進化させることで天敵を減らすなど、比較的確かな生態系の中で位置づけられる種とは異なり、ヤンバルクイナは島嶼環境という大陸から隔離された環境でハブを中心とするヘビの仲間が食物連鎖の頂点に立つ天敵の弱い環境で進化をとげてきました。実際、全世界に約130種が生息するといわるクイナの仲間には島嶼環境で飛ばなくなったクイナも少なくないといわれます。けれどもこの島嶼環境に人間によって持ち込まれた捕食動物が食物連鎖を破壊し、それによって絶滅したクイナの仲間は20種を超えているそうです。島嶼環境は人間が環境にたやすく影響を及ぼすことができる脆弱な生態系だと言えそうです。英国のバードライフ・インターナショナルの調査では1701年から2000年までに134種類の鳥が絶滅したと言われます。18世紀には27種、19世紀には51種、20世紀には56種と増加の一途をたどり、絶滅の危機におかれた鳥は全体の12.4%にあたる1226種に及ぶといいます。しかもその多くが島嶼環境で生息する種であることも指摘されています。

 さて”発見”されたこのクイナ科の固有種には様々なネーミングが検討されたそうです。けれどもその保護には地元の理解と協力が不可欠だとして地名を冠して「ヤンバルクイナ」と命名されたといいます。発見と同時に沖縄県は天然記念物に指定し、翌1982年には国も天然記念物に指定しました。即座に分布域の生息状況や生態調査が始まりました。当時の環境庁の調査では個体数1800羽と推定されましたが、2004年の調査では810羽、2005年には717羽と急激に減少していることが報告されています。同期間に分布の南限が10kmも北上して生息域が半減したことに伴い2001年には国際自然保護連合(IUCN)もアジア版鳥類レッドデータブックで絶滅危惧種に指定しました。

 ご承知のように沖縄ではジャワマングースが野生化しています。これは1910年にネズミの駆除を目的に、コブラの天敵といわれたマングースをインドから輸入して29匹を野に放したのが始まりだとされています。もともとハブ退治は副次的目的だったそうで、実際、マングースがハブを捕食するのは”見せ物小屋”だけのようです。現実には昆虫など節足動物を補食しているそうですが、時として家畜のほかヤンバルクイナやホントウアカヒゲ、ノグチゲラ、トゲネズミ、オキナワキノボトカゲといった希少生物まで捕食しているそうです。マングースにはフィージークイナを絶滅させた実績があるほどです。沖縄県も2000年以降マングースの捕獲に着手しましたが、マングースの捕獲地域とヤンバルクイナの生息域の交わりは拡大を続けています。さらに最近ではヤンバルクイナにさらに2つの天敵が加わっていることが報告されています。一つは捨て猫や捨て犬が野生化しヤンバルクイナを捕食していると言われます。そして、いまひとつは人で県道2号線や70号線では交通事故での死亡が相次ぎ、年間20羽前後のヤンバルクイナが犠牲になっています。

 国頭村に暮らす人々はそうでもないそうですが、沖縄に暮らす人々でさえヤンバルクイナをごく自然に目撃した人はそう多くないようです。目撃した人の話を聞いていると「いるとは聞いていたが、本当にいるんだなぁ」と感嘆しきりです。それがそれが、昼前にもかかわらず灼熱の日差しが降り注ぐ真夏、静かな時間が流れていたその一瞬、彼らは音もなく、私たちの鼻先の道路を横断して駆け抜けたのです。人に話すと「嘘でしょ」とか「飛ばないクイナはほかにもいるよ」とか、はては「前日の泡盛のせいじゃないの」とか信じてもらえない始末。それでも”あれはきっとヤンバルクイナに違いない”と偶然の遭遇にUKIUKI、WAKUWAKUの自己満足で、やはり「本当にいるんだなぁ」と感嘆しきりです。
 ヤンバルクイナと遭遇したのは、国頭村の安田に「伊部岳闘争」の記念碑を訪れ、想像の中で往事の様子に思いを馳せてたときのことでした。この記念碑は今年8月15日に除幕式を終えたばかりで(訪れたときはそうだったのです)、国頭村が村制100周年の記念事業として「伊部岳闘争」の精神を後世に息づかせようと建立したものでした。除幕式で宮城馨国頭村長は「先輩たちの体をはった阻止行動を継承し、これからの村づくりに生かしていきたい」と挨拶されました。記念碑の背後にそびえる伊部岳はその容姿の美しさにとどまらず、国の重要無形民俗文化財に指定される「安田シヌグ」を今に伝える自然背景をなし、人々の暮らしを見守り、その人々からの畏敬を集めるにふさわしいまでの気高さを感じさせます。この伊部岳の頂上に米軍がヘリコプターでブルドーザーをつりおろし造成工事を開始したことが事件の発端でした。それはヤンバルクイナがまだ「アガチ」と呼ばれていた時代のお話です。

 沖縄の施政権返還前の1970年の2月23日、いっさいの通告なく伊部岳頂上にヘリコプターで米兵と機材が降下され木々が伐採されました。続いて発破で頂上を爆破し今度はブルドーザーを降下させ頂上を平坦に造成、3月2日には工事終了、頂上は5mほど削れられ、30mX10mほどの広場に警備ボックスや椅子や机が運び込まれました。この事実を北部営林局の職員が発見し、沖縄タイムスの比嘉康文記者がすっぱ抜き、密着取材が始められました。5月10日にこの事実が報じられましたがこの段階では工事の目的がわからないままだったようです。しばらくして5月末になると今度は場所を変えて伊部岳西部の「カシマタ山」の通称「ウフシキ」で森林伐採が始まりました。6月後半には伊部岳同様に発破が繰り返されブルドーザーが投下されます。こちらは運動場のように広く整地され、10月にはここに鉄板、テント、鉄条網、ドラム缶、建築資材などが続々と投下されたそうです。そして12月22日ついにこの工事の目的がはっきり公表されたのでした。沖縄に司令部を置く第3海兵師団は琉球政府にこの施設と一帯の650ヘクタールを実弾射撃場に使うと通告したのでした。

 沖縄の東海岸をたどって車を走らせると名護市に入った当たりからアップダウンを繰り返します。山が海まで迫るかと思うと、小さい川の河口部に開けた小さな平野部に形成された集落が現れ、そしてまた山が海に迫ります。国頭村の東海岸の生計の基盤は農漁業にあったようですが、同時に古くからやんばる山々は材木や炭を産し、東海岸を回遊するやんばる船交易で南部で生産される生活用品と交換できる大切な森林資源を提供していました。広大なやんばるの山々は必ずしも原生林ばかりではなく、有用木を産出するための開発も古くから行われてきました。16世紀初頭に琉球王朝で三司官として産業振興に辣腕をふるったと伝えられる蔡温は、風水の論理に基づいて植林に着手し乱伐や皆伐を許さない”持続可能な森林開発”の概念を実践し、その精神に基づいて長きにわたり山は守らえてきました。琉球処分の後、大部分が国有化されましたが植林や間伐などの森林管理と維持の代償として地域の人々は入会権を認められ継承されてきたといいます。戦後、やんばるの国有林は新たに設置された営林局の管理下におかれましたが、1970年当時も営林署の森林管理業務の支援業務や、間伐・皆伐時に木材の払い下げを受けるなど現金収入を得る手段として地域の人々にとっては重要な生計手段を提供していたといいます。けれども、いわゆる”僻地”に位置するこの地域はこの当時既に農林水産業で生計を立てることが難しくなった人々の離農・離村が進み、既に廃村に至った集落まで生じており、残った集落も過疎による共同体の崩壊は決して人ごとではなかったといいます。

 当時既に砲撃演習場として運用されていたキャンプ・ハンセンでは、住民の肥沃な農地は奪われ、砲弾が撃ち込まれた金武連山は草木が焼かれ山肌をさらけ出し、赤土は雨水で海に流出し海浜に堆積し、水源涵養林が破壊されていました。砲撃演習場が設置されるということが国頭村の人々に何をもたらすのかは明らかでした。数少ない現金収入を獲得できる山々が破壊され、水源涵養林は破壊され、琉球政府が将来の工業化を展望して水源開発を進めていたダムや林道建設も頓挫するなど、失うものばかりで、得るものなど何もないことは明らかでした。砲撃の激しい爆発音に悩まされ、ガンポジションから着弾点への放物線の延長先上のすぐ先に広がるパイン畑では砲弾が飛び込む危険にさらされることになるでしょう。将来への不安を抱えながら過疎と闘って暮らしている住民にとって、砲撃演習場の建設は住民の将来を奪い過疎への拍車を直感させたのでした。それは住民にとって心底、生命と財産の危機を感じさせたのでした。「先祖代々、この地に生きてきたのに、なぜ私たちが砲弾を向けられなければならないのか」「私たちに死ねということか」と。

 実弾射撃場の使用通告の翌日、当時の山川武夫国頭村長は村民総動員の反対運動に乗り出すことを表明、24日には立法院では「砲撃演習場設置反対決議」が採択され、26日には国頭村議会でも「演習場設置撤去要求決議」採択されました。更に全島から労働組合、平和団体、復帰闘争団体などが演習場や地域の調査に入り、地域住民とともにディスカッションを繰り返し、安田でも楚州でも全戸会合は「実弾砲撃演習阻止決起大会」へと闘う決意を固める場と化していきました。国頭村も山川村長を本部長とする「国頭村実弾砲撃演習阻止対策本部」を設置し、阻止の闘いは村ぐるみ、更には島ぐるみの様相を呈しました。米軍は反対運動の高まりに訓練実施を急ぎ、28日には砲座に大砲を2基設置し、30日には大晦日の演習実施を通告したのでした。

 12月31日、安田の住民を中心とする人々は暗いうちから山に入り、砲撃訓練の着弾地点に向かいました。人々は着弾地点に到着するやのろしをあげ、訓練の中止を訴えます。他方国頭村対策本部は早朝から村民大会を開催し、「決死隊」を組織して発射地点に向かいます。労働団体、平和団体も住民とともに山に入ります。発射地点も反対する人々で埋め尽くされ、空から降り立とうとする米軍は容易には近づくけませんでした。山道を登ってきた米兵と住民の間で生じたヤジと怒号、小競り合い、喧噪と混乱のなか一部の負傷者を出しながらも、住民や砲撃訓練に反対する人々の抗議は、米軍に砲撃訓練を断念させ、撤収させたのでした。

 年は明け、米海兵隊と国頭村は砲撃訓練場を巡り話し合いを開始することになりましたが、話し合いは平行線をたどり、その間米軍は伊部海岸で漁船をヘリコプターの暴風で巻き上げて地上にたたきつけ破壊したり、安波では植林していた材木を無断で伐採したりと、嫌がらせとしかとれない振る舞いを繰り返し、第3海兵師団最高司令官は「返還後も国頭演習場は撤収しない」と豪語し続けたといいます。けれども最終的にはこの砲撃演習場は二度と使われることはありませんでした。先に紹介した比嘉康文さんは、 この伊部岳闘争と砲撃演習を最終的に葬り去った背景に、砲撃演習場が計画されたイタジイの原生林に暮らす絶滅危惧種で沖縄県鳥であるキツツキの仲間の固有種ノグチゲラとそれを保護するために米国を含む全世界で巻き起こった自然保護運動があったことをつきとめ、2001年に「鳥たちが村を救った」というご本を出版されました。レイチェル・カーソンさんの「沈黙の春」の底流をなす人が化学物質で鳥の鳴き声を奪う社会では人も暮らせないというモチーフをアイデアに、ノグチゲラという鳥が暮らせる環境を全世界の人々が守れたからこそ人も村も生きながらえたという結論をテーマにした興味深いルポです。同時に天然記念物のジュゴンが住む名護市の東海岸への新基地建設に反対する闘への教訓の提示とエールを送っておられます。実際、シュワブ沿岸新基地建設問題でも、米国外での米国の事業は当事国の環境条項を遵守しなければならないことを定める米国内法(文化財保護法)を根拠に米国で提訴されたジュゴン訴訟で米国の裁判所は「ジュゴン保護策の提示」を米政府に命令しました。ジュゴンの存在が基地建設を左右するほどに大きな存在であることが示されたものでした。
 戦後施政権返還前の沖縄の軍政は陸軍がおこなってきました。現在沖縄に駐留する最大部隊である海兵隊が沖縄に駐留するようになったのは1957年の第3海兵師団の駐留からのことです。この第3海兵師団は朝鮮戦争に投入されることはありませんでしたが、1954年のジュネーブ協定でベトナムからの仏軍の撤退に替わって米国がベトナムに軍事介入することを念頭に沖縄に配備されたのでした。第3海兵師団の砲兵部隊は第12海兵連隊です。太平洋戦争の終結に伴い予備役になっていたこの連隊も朝鮮戦争勃発後の1952年に再び実動化され、第3師団の沖縄配備ともに沖縄に展開しました。また隷下第1砲兵大隊はキャンプ富士に配備されたそうです。現在、キャンプ・ハンセンに組み込まれている演習場地域の金武連山を含む駐屯地の背後地域は、朝鮮戦争の開戦とともに金武湾の米艦船からの艦砲や航空機による爆撃訓練の爆撃場に指定されましたが、第3海兵師団の駐屯に伴い、1958年に訓練場として新規に接収されました。一方本土でも、戦前、旧日本陸軍が訓練場として用いてきた矢臼別、王城寺、東富士、北富士、日出生台といった大規模な演習場は敗戦とともに演習場指定が解除され、地元や都心部の人々が入植に入っていましたが、米軍の進駐とともに米軍によって再収用され再び演習場として運用されることになりました。1954年に自衛隊が創設されると、キャンプ・富士のある東富士演習場以外は自衛隊の管理下に移管されましたが、米軍による訓練場の使用は続けられました。

 この沖縄に駐屯する第3海兵大隊が満を持してベトナム戦争に投入されたのは、「トンキン湾事件」を口実に1965年2月7日の「北爆」を皮切りにした、特殊戦・局地戦から本格攻撃に舵が切られた時でした。沖縄では一気に戦時色が強まりました。軍用道路1号線(現国道58号線)をはじめとする幹線道路は軍需物資や兵士を乗せて港に向かうトラックや戦車であふれかえっていたといいます。第3海兵師団も4個連隊12個大隊19000人が投入されました。読谷補助飛行場や、伊江島訓練場はパラシュート降下訓練、ヘリコプター投下訓練が連日繰り返され、その最中、65年6月には読谷村でトラックを吊り下げ移動中のヘリコプターがそのトラックを民家に落下させ小学校5年生の女児を圧しさせるなど投下による事故も繰り返えしおきました。北部訓練場では東村高江に対”ベトコン”ゲリラ戦訓練施設が作られ、麻薬密造工場や米兵捕虜監禁家屋への突入訓練が行われ、国頭村安波には”ベトナム村”と呼ばれるベトナム将兵訓練施設が設けられ対ゲリラ戦ベトナム人リーダーの育成がはかられたといいます。「北爆」に向かうB-52は台風避難を口実に沖縄に前方展開し、68年には常駐することになります。66年には空中給油機が離陸に失敗し民間人を巻き込み死亡させ、B-52も68年に爆弾を満載したまま離陸に失敗し爆発炎上する事故を引き起こしました。

 戦死米兵の体洗う仕事が実入りがいいなどと噂が流れ、実際に連日30ほどのドライアイス入りで袋詰めされた戦死者の遺体が送り返されてきたといいます。1967年までの戦死者が約16000人。それが1968年末には30568人と1年で倍増。1970年には40000人を突破。出兵と死の恐怖におびえ、基地周辺のAサインは出兵を目前に控えた兵士による連日連夜の喧噪が耐えることなく、泥酔と自暴自棄の米兵は高額紙幣を惜しげもなく入り口におかれたバケツに投げ捨てて店を後にしたといいます。延べ250万人、平均年齢19歳というおびただしい数の米国の若者の投入は、引き締めなど不可能なまでに士気を衰えさせ、戦場も兵舎もすべてが荒廃のるつぼと化し、殺人、レイプ、強盗など凶悪犯罪はあとを絶たず、米兵の粗暴な振る舞いで地域の人々との衝突など、日常茶飯のとるに足りない出来事になっていました。さらにタグボートなどの日本人基地従業員をベトナムに派遣する命令を下すなど、直接的な戦争参加まで要求したのでした。ベトナム戦争における沖縄の地政学的位置のみではなく、事件や事故、米軍犯罪に対する沖縄の人々の忍耐までをも考慮のうちにしていたのであれば、当時の米太平洋軍司令官のグランド・シャープ海軍大将の「沖縄の基地がなければ米国はベトナム戦争を戦えなかった」という発言は妥当性があるかもしれません。公務・公務外を問わず激発する事故と犯罪の被害を受けてなお、今日、沖縄の人々に「私たちはベトナム戦争に荷担した」といわさなければならない責任は誰にあるのでしょうか。

 1969年北ベトナムと解放戦線の反撃で多大な犠牲を出して第3海兵師団は沖縄に帰還しました。帰還した米兵たちは、ベトナム戦争の敗北から立ち直る呪文のように、現在なお、米軍の口をついて出る「ベトナムの教訓」を実戦に生かそうとしていました。超大国に加えインドシナ半島の周辺国にまで見放され、「クビまで泥まみれ」になって抜け出せなくなった戦況下で、米国はさらにカンボジアでのロン・ノルのクーデターを支援し、北ベトナムと解放戦線の補給路となっていたホーチミン・ルートやシアヌーク・ルートの寸断と兵站拠点の攻撃という、さらなる深みへと進もうとしていました。沖縄では最前線で傷ついた隊伍を整え、本国からの兵力を補充再編して前方に兵力を送り出していました。ベトナムでの経験をもとに、沖縄の前線の演習場で砲兵隊もまたベトナムでの実践的な砲撃訓練を行おうとしていたのでした。

 現在の第12海兵連隊の主要装備はM198Howitzerという155mm榴弾砲で9人で1門を運用します。1分間に最大4発を撃つことができ、着弾地では震度3の揺れを感じるといいます。有効射程は22kmをこえ、その爆発の衝撃音は聞いた人すべてが腹をえぐられるようだと表現し、他の砲との差を強調します。米軍は距離を隔てた攻撃対象に対し、威力ある大口径曲射砲での攻撃を、敵の反撃から安全に行うためにと、陸路の有無にかかわらず移動・設置・撤退の迅速性を最優先において、CH-47、CH-53での輸送やパラシュート降下での輸送を前提に、重量が増大する自走手段を排除しています。米海兵隊はさらに吊下能力が高いMV-22オスプレイとさらに軽量化した次世代榴弾砲M777への戦力更新を進めているそうです。このような海兵隊の空挺作戦やヘリボーン作戦による大砲と人の運搬、設置・砲撃のコンビネーションと、撤収のシナリオのはベトナムのようなジャングルでの運用から編み出されたものでした。海兵隊にとっての「ベトナムの教訓」はこの作戦手順の正確さと迅速さを熟達することにあったのでした。この当時はM102 105mm榴弾砲とM114 155mm榴弾砲が運用されていたものと思われ、パラシュート投下やヘリボーン作戦が実戦で運用されていたと思われます。またしても脱線しますが、一説では155mmの榴弾は一発30万円といわれます。米軍は多いときには一度の演習で3000発を撃つといいますから、数日で10億円ものお金が消えています。現在、自衛隊も連日、1日に数億円の砲弾を撃つ訓練を行っているといいます。ここにも概算要求の”仕分け”の手を入れてほしいものだと思いますが・・・。

 けれども彼らが勇んで沖縄を後にした1965年と、帰還した1969年とでは沖縄を取り巻く環境が大きく変わっていました。米国内では1969年10月15日に全米で1600万人が参加して行われたベトナム反戦集会に象徴されるように、米国の世論はこれ以上のベトナムへの米国の介入を拒否しており、兵士の間にも厭戦気分は蔓延していました。日本でも全世界的に広がったベトナム反戦運動はさらに70年安保改訂に対する反対の運動に引き継がれ、砂川闘争と安保違憲の伊達判決を経て立川基地の横田基地への基地機能移転が決まり、北富士や東富士でのベトナム帰りの海兵隊の訓練に対する着弾地占拠による訓練の阻止などの実力闘争を経て東富士演習場の日本への返還とキャンプ・富士の兵力の沖縄への移管が決まるなどの反基地の闘いは成果を生み出していきました。これらは沖縄の施政権の返還が決まり、ベトナム反戦と安保改訂反対の闘いの沈静化をねらって、本土の基地を削減し、米軍の支配下にある間に沖縄に基地を移設しておこうという二面性があったことも指摘されています。いずれにしろ、本土にいづらくなった米軍は沖縄に砲撃演習場の建設を始めたのでした。

 ところがその沖縄でも時代は大きく進んでいたのでした。1968年のB-52墜落と爆発炎上に抗議する闘いは、翌年、沖縄の労働運動、平和運動、復帰運動の全勢力がゼネスト突入の直前まで突き進みました。最終的にゼネストは中止されましたが、闘いの高揚はくすぶり続けていました。ゼネストに参加しようとした全軍労は米軍による報復を一手に受け大量の解雇が宣告されましたが、70年のはじめには事実上の無期限ストを貫く力強さを示しました。その一方で、二年後には施政権の返還が決まり、もはや米国と米軍に支配されることのない沖縄が展望される時に、米兵による凶悪犯罪はやむことを知らず、交通事故をはじめ住民に被害を加えても罪に問われず、米兵の横暴な振る舞いにも逆に沖縄の人々を牽制する軍政権に、人々の鬱憤と憤懣はもはや押さえがたいところまでふくらんでいました。伊部岳の闘いの10日前、12月20日の「コザ騒動」は沖縄の米軍支配の終焉を象徴する出来事でした。復帰を目前に控えて、復帰すれば自分たちの人生をむちゃくちゃにしてきた米軍も基地もなくなると信じ、復帰をどのように迎えるべきかで議論を弾ませていたそのときに、コザでは米兵が特権を振りかざし、遠く離れたやんばるでは自然を破壊し、そうすることで人々の生活と生命に危害を加えようとしていたのでした。過疎に耐えて我慢してきた鬱憤と憤懣はやはり爆発せざるをえなかったのです。
 自分たちの村を守ろうと取り組んだ伊部岳闘争でしたが、復帰後、米軍は残り、北部演習場は相変わらず維持され、日本政府は土砂降り的な公共事業で”工業化”と”沖縄振興”にあけくれ、”僻地”で生計を維持しながら暮らす施政ではなく、過疎を促進して働き手を第一次産業から引き離す施政が当然のようにまかり通ってきました。生計の糧だった林業も、ついには製材用木材の需要は皆無に等しくなり、パルプ用のチップ材やキノコ栽培用の原材木がわずかに残るだけになってしまいました。無意味な林道建設のために原生林を皆伐しては不毛の地にしていく作業が林業の名の下に行われてきました。生き残りは観光業だとばかりにバブル期にはリゾート開発に期待をかけ、「やんばるの活性化にはそれしかない」と信じ、ホテルやゴルフ場の誘致に奔走したこともあったようです。その誘致に失敗するや、「時代からとりのこされる」という恐怖が人々おそったといいます。やんばるの村々では、林業も、観光も展望が開けず、林道とダムの公共工事でやんばるの自然を破壊し、生活の基盤を食いつぶしながら過疎にたえるという一種の閉塞感に巻き込まれた時代が続いたとききます。

 ところが、またしても、沖縄の人々の闘いと世界的な政治と経済を取り巻く状況の変化が生まれてきます。

 海兵隊の砲撃訓練は日本への施政権復帰後もキャンプ・ハンセンの金武町中川区のガンポジションから金武連山の恩納岳、シャムフ岳、ブート岳などに打ち込む訓練が続きました。けれども県道104号線が砲撃演習のたびに閉鎖される事態に、その不便さのみならず、砲撃の危険と砲撃音被害、そして日本に復帰した沖縄に対する主権侵害への怒りと自尊心から、1974年、喜瀬武原闘争と呼ばれる着弾点占拠の実力闘争が開始され、幾度となく訓練を阻んできました。刑事特別法という治外法権的法律でこの実力闘争の戦術は奪われましたが、地元の人々のねばり強い闘いは続けられました。少女暴行事件をきっかけに再び燃え上がった島ぐるみの闘いは砲撃訓練においても県外移設をもぎ取りました。復帰後24年間で180回、44000発の155mm榴弾砲が撃たれ、着弾点から1kmしか離れていない伊芸区では1日に最高で583発、爆発音107dbを数えたこともあります。しかも現在まで不発弾処理は一切行われておらず、将来には重金属汚染など負の遺産を抱えたままになっています。けれども、沖縄の人々は沖縄から砲兵部隊の演習を県外に移転させたのでした。
 転んでもただ起きない米軍は、矢臼別、王城寺、東富士、北富士、日出生台に移転された演習場で有事法制を意識した民間の運搬手段や民間港湾を利用した移動や、沖縄ではできなかった夜間砲撃訓練、歩兵部隊との連携訓練、あげくにNBC訓練まで実施する始末です。しかも従来の4km程度の射程から一気に性能最大の射程距離の砲撃まで実施しています。一方、砲撃訓練から解き放たれたキャンプ・ハンセンは都市型訓練施設の訓練場に様変わりし、すでに3つの施設が稼働しています。北部訓練場は同様の訓練場があったパナマからの米軍撤退に伴い、1998年「ジャングル訓練戦闘センター」とその名称を改めました。SACOの最終報告では北部演習場地域の北半分を返還する決定を下し、その見返りに東村高江の集落を包囲するように7つのヘリパッド(直径45m、その周囲15mに無干渉地帯設置)を新設することを要求しています。

 けれども、この背景にはいうまでもなく、米軍がその軍事力を投入する主戦場が東南アジアの熱帯ジャングルから、中東の砂漠や大陸的な環境でのゲリラ戦、それら地域の都市戦闘へと変わり、訓練場のあり方の考え方にも変化が出てきたことがあります。

 さらに地球温暖化と温室効果ガス問題は少しの猶予も許されないほどに対策が緊急を要しているもとで、大国が環境を破壊している実態を浮き彫りにしました。大国に環境保全を求める要求は急速に全世界的な広がりをしめしました。

 SACOでの北部演習場返還合意から10年以上経った今年10月7日、環境省は安田、安波地域をこれまでの県の鳥獣保護区から国指定の鳥獣保護区に格上げしました。国はその自然保護の必要性を知りながら、米軍との関係から国としての措置をとってこなかったのでした。沖縄は大陸の東海岸に位置する暖流海域に位置し、比較的高緯度にありながら亜熱帯環境下で珊瑚礁が発達し豊富な降雨量によって、豊富な生物の種を抱えることができる豊かな環境を生み出しています。やんばるの原生林は最上層のイタジイの広葉樹はじめ上層の比較的短寿命の木々の倒木が下層の植生を育み、豊富なフロラを形成し、その多様性を背景に多くの種の動物が育まれ、閉じられた空間の中で独自の進化を遂げるものが現れました。比較的早く固有種であることが確認されたキツツキの仲間のノグチゲラは50年足らずで内部に空洞ができ倒木するイタジイの原生林の申し子のように進化した種だといえます。高温多湿な落ち葉の中で暮らすリュウキュウヤマガメ、空洞ができた老木に住みつくヤンバルテナガコガネ、そしてアガチ、ホントウアカヒゲ、ケナガネズミ、トゲネズミ、イボイモリ、シリケンイモリ・・・・天敵の弱さが多様な動物を育みことになったのです。捕食動物の移入のみならず、帰化植物の持ち込みなどで沖縄では植物相にまで均質化が進み多様性へ悪影響が指摘され始めました。環境全体を問題にするとき、従来の天然記念物や絶滅危惧種指定、あるいはそれらの保護と取引を禁止するワシントン条約、干潟など特定の地域の保護をテーマとするラムサール条約などでは、その保全ができないとの指摘から、生物多様性条約が発効しています。やんばるに限らず沖縄の自然はこのような生物多様性の概念に基づく保全の必要性が昨今強く訴えられるようになってています。このような変化から、国頭村の世論調査では村の将来を何にかけるかの問いに自然を生かしたエコツーリズムによる観光開発だとの回答が80%に達したといいます。地域のリーダーたちは、今は”ヤンバルクイナ”をシンボルに手つかずの自然に触れることができる観光開発を検討していると伝えられます。「やんばるの奥地という地理的不便さが、いつの間にか最大の魅力になった」、開発が立ち後れたことで「今となっては”宝物”を失わずにすんだ」、「ヤンバルクイナを守るという発想ではなく、ヤンバルクイナが暮らせる環境を守る」などの言葉が住民の方々の口をついて出ます。
 さて、伊部岳闘争によって米軍の破壊から守り抜かれた村と暮らしは、40年を経てその後輩たちが”宝”だ、”財産”だといえるものを残したのでした。40年という歳月を経て政治・経済状況が一変しても、人々の意識や考えも変化しても、先輩たちの行動が正しかったと思い返しては、その闘いが語り継がれることになったのでした。

 シュワブ沿岸への新基地建設をめぐっては、少なくともこの12年間、沖縄の政治のリーダーは、”ベストでない”選択や、”苦渋”の選択が沖縄にとっての最良の選択だと、多くの言葉を並べたてなければ説明できない解釈困難な見解に、沖縄の人々の同意を求め続けてきました。そして本当に”最良”の選択が何なのかについては提起されることもなく、まともに議論されたことすらありませんでした。40年を経て時代の変化の風雪に耐えうる選択は、伊部岳闘争同様、米軍と今は日本政府も加わっての自然と共同体の破壊から、体をはって村を守るという、説明のいらない単純な選択なのかもしれません。
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