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国頭村環境教育センター「やんばる学びの森」に, 「鬼太郎ハウス」があります。
これは,映画「ゲゲゲの鬼太郎・千年呪い歌」の沖縄ロケ撮影時に使用されたセットを移築したものです。
鬼太郎ハウスはやんばるの森に覆われていて,鳥や虫の鳴き声,木々が重なり合う音,風の音,せせらぎの音が聞こえてきます。
「見えないものを信じる」気持ちになってしまいそうです。
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ハウスの中で,「鬼太郎さん,今は森にでかけているみたい」と言うと,小さな子どもたちは納得していました。
目玉おやじの部屋,鬼太郎の部屋があります。
食べ残しなのかな,乾燥イモリがありました。
ハウスの中に入ると,鬼太郎や目玉おやじと一緒にすごしている気持ちになります。
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鬼太郎ハウスの周りはやんばるの森。
あまりにもうっそうとしていて独りでいると,迷ったらどうしようと,ちょっと怖さも感じます。
でも,大丈夫。
散策できるよう,自然に近い状態を保ちながら,歩道が整備されています。
いろいろ想像をしながら,鬼太郎の世界を楽しめそうです。
もちろん,沖縄の自然を満喫しながら・・・
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今年度上半期のNHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」がブレークしているようです。視聴率は鰻登りに上昇し、水木しげるさんご夫妻の出身地である境港や安来はこれまでにもまして「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクターが街中にあふれ、訪れる観光客は後を絶たないと聞きます。この物語は世代を超えて支持される「ゲゲゲの鬼太郎」の誕生をめぐる人々の関わりを水木さんの奥様の視点で綴ったものですが、それがこのような支持を得るのも、先の戦争を生きぬき、そこで負った痛手をものともせず、戦後を闘い抜いてきた楽天的なご夫妻の生き様に、視る人の今日の時代の閉塞感を吹き飛ばすような痛快さ与えて下さるからだと思います。
現在、このドラマはクライマックスへと向かっていますが、開始当初からこの物語を引き締めていたのは戦争の痛手を受けた人々の戦後を生きる生命力でした。水木さんが戦場で片腕を失い復員してきた現実をご両親とご本人が互いに戸惑いながらも愛情を持って受け入れる表現、戦場でマラリアに感染し高熱で身動きがとれない状態で空襲を受け左手を吹き飛ばされる不遇に相対する、一日でも長く、一人でも多く生かそうとする軍医の存在、戦争ゆえにまともな治療を受けさせてあげられずに腸チフスでわが子を失った心の傷を、復員しトラウマ状態の夫や周囲の人々を愛することで癒しながら、生活を切りひらこうとしていった女性たちのふんばり、そのすべてに、苦しみながらも明日を切りひらこうとする人々の生命力を表現しているようでした。それとともに、「水木さんの戦記物は暗いんだよ」、「この漫画を描いた人は戦争に行った人だな」といった台詞や、劇中水木さんは「手を失って大変じゃないですか」という問いに常に「大変だと思ったことはありません。悔しかったのは戦場で死んだ者たちですよ」と答え続けることで、あの戦争に対する水木さんの「大変で」「悔しかった」に違いない戦争観をにじませたのでした。
水木さんの所属する部隊はビスマルク諸島ニューブリテン島に配備されました。水木さんはこの南方の戦場での経験をもとに「総員玉砕せよ」という漫画を描いておられます。そして捕虜生活時代や復員後に描いた戦場での出来事のスケッチに当時の思い出と解説を加えた「ラバウル戦記」を出版しておられます。水木さんはこの両著を通じて、出征した現場で繰り広げられた出来事に心からの疑問を提起されておられます。けれどもこの時期の南方の戦況をある程度把握しておかなければこの疑問の意味も、疑問が出てきた理由も理解できないと思います。 |
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日本軍は1942年1月23日、オーストラリア領のビスマルク諸島のニューブリテン島に上陸しラバウルを占領しました。ラバウルはニューギニアとフィージー・サモアへの拡張の拠点となりました。ニューギニア拡張の中心作戦はポートモレスビーの攻略が、フィージー・サモア拡張の中心作戦はガダルカナル攻略でした。6月6日のミッドウェー海戦での連合艦隊の大敗はビスマルク・ソロモン海域での制空・護衛・兵站能力の低下を導きました。
日本軍はガダルカナルに6月16日に上陸し飛行場も建設しましたが、8月7日には米軍が敵前上陸し日本軍を蹴散らし飛行場を奪取します。日本軍は小規模部隊を送り込んでは作戦失敗を繰り返します。投入部隊には食料・兵器の補給がなされず、敗残兵は飢えに苦しみ”ガ(ダルカナル)島”は”餓島”と呼ばれるようになります。米軍はガダルカナル島周辺に艦隊を定着させ、ガダルカナル(ヘンダーセン)飛行場には100機をこえる作戦機を配備し、日本軍が増派したり補給したりしようとするたびに海戦が起こり空襲を受け、思うような補給が全く行えない事態が続きます。補給を得られない兵士たちは餓えだけでなく、マラリアやテング熱、アメーバ赤痢に感染し、戦闘力をそがれていきます。こうして大本営は12月、ガダルカナル島放棄を決めます。2ヶ月をかけ日本軍はブーゲンビル、ラバウルに命がけの撤退を行ったのでした。日本陸軍が投入した兵力33600人中、戦死者は約8200人、病死は約11000人に達したのでした。作戦終了は1943年2月7日でした。
一方、ニューギニアへの拡張作戦の中心だったポートモレスビーの攻略作戦もガダルカナル同様でした。1942年7月18日に作戦が下令されたポートモレスビー攻略作戦は、標高2000mのオーウェン・スタンレー山脈を直線距離で100kmを超えて行軍するものでした。伸びきった兵站線のために補給が滞り将兵は餓え、加えて標高の高さからくる寒さでマラリアが蔓延、9月16日には撤退となります。ところが疲弊しきって下山した将兵を待ちかまえていたのは連合国軍でした。日本軍はポートモレスビー攻略拠点を放棄しニューギニア北岸を西に拠点を移しながら移動することになります。すでにニューギニアでは日本の投入兵力11000人中7600人が戦死または戦病死していました。
1943年3月2日にはラバウルからニューギニアに増派兵力を運搬する船団が空襲を受け輸送予定の7300人中3600人が戦死します。さらに4月18日にはブーゲンビル島で山本五十六連合艦隊長官を乗せた海軍一式陸攻が米軍機の攻撃受け墜落・戦死します。もはやラバウル周辺の制空・制海権は完全に連合国軍側に移っていたということです。
ニューギニア東部の日本軍兵力は連合軍の反撃を受けラエ、サラモア、フィンシュハーフェンを失いマダンさらにはウエワクへと西へ西へと移動します。一方、1943年12月14日にはニューブリテン島西部アラウエ、グロスター岬に連合国軍が上陸します。こうしてラバウルとニューギニアの補給線は完全に断ち切られます。大本営は1944年3月14日、ニューギニアでの作戦をラバウルの第8方面軍からインドネシアの第2方面軍に移管します。ニューギニア戦線での悲劇はさらに続くことになりますが、ラバウルとブーゲンビルの将兵16万7000人は孤立し無力化されることになったのでした。連行国軍は犠牲のみで得るもののないラバウル攻略はスキップし、次の結節点をニューギニア西部とマリアナ諸島において作戦行動に移っていました。
さて再び水木さんの部隊に話しを戻します。水木さんの部隊が日本を出るのが1943年の12月です。ニューブリテン島では連合国軍が上陸を開始しようとしていた時です。ニューブリテン島の近海は連合国軍に制空権も制海権も奪われていました。ニューブリテン島に到達できたのが不思議なくらいの危険な航海でした。実際、前の船団は輸送失敗、後の船団はパラオで攻撃を受け沈没したと言います。水木さんらを運んだ船も、インドネシアを経て日本に戻る際に攻撃を受け沈没したといいます。水木さんはニューブリテン島の陸軍基地が置かれていたココボに上陸後、ラバウル南方のトーマで高地の塹壕掘りの日々を送ります。連合国軍がじわりじわりと東方を窺う状況下で水木さんの部隊はラバウルの真南のワイド湾に面するズンケン岬への展開を命じられます。ワイド湾周辺は海軍陸上部隊の少数兵力が集落ごとに分散配備された状態で、水木さんの分隊はその中のバイエンの応援に出るように命じられます。この時期はガダルカナル・ソロモン戦域とニューギニア戦域を管轄していたラバウルの第8方面軍が無力化された時期に当たります。もはや日本軍は侵略者と見られ、連合国軍と通じた地域の原住民によってバイエンの守備隊強化は敵の知るところとなりました。バイエンで水木さんが不寝番に立ったその時に夜襲を受け、水木さんを除く海軍兵12人と水木さんの部隊10人全員が玉砕することになったのでした。水木さんは連合軍や現地住民から逃れようと、絶壁にしがみついて隠れ、追っ手の集団に囲まれるやのこぎりの歯のようなサンゴの岸壁を走り抜け海に逃げ、いけどもいけども果てのない道なきジャングルをかき分け、マラリア蚊の襲撃を受けながら、5日間走り続け、命からがらミレムの海軍小屋に逃げ帰ったのでした。ところがズンケンの中隊に収容された水木さんに中隊長は開口一番投げかけられた「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだから、お前も死ね」という罵声は、軍隊への不信と怒りを植え付けるものとなったそうです。その後水木さんはマラリアを発症し高熱に苦しみながら空襲を受け腕を失うことになったのでした。満身創痍の水木さんを救ったのは生きることを無上の価値と考える軍医や戦争とは無関係に自然と共に生きる現地の住民の生命力だったように思われます。
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”犬死”を強いられ、戦友の”犬死”を目の当たりにし、”犬死”しなかったことに罵声を浴びせられ、あげくに片腕を失った、この現実を背景に「総員玉砕せよ」は描かれました。したがってそこでの問題提起は必然的に深刻なものとならざるをえません。
最初から玉砕するための兵力投入。常に玉砕ありきの少人数による作戦計画。常に兵士に玉砕を迫る上官。
「かの大楠公が賊と戦い湊川で討死したのも五百であり、我が支隊もまさにその五百である」
「それだけラバウルが、一日でも二日でも守られるということはひいては祖国を守ることではないのか」
玉砕できなかった者は生きていてはならない。
「ラバウル決戦の精神的基盤が崩壊する」
「敵前逃亡だ!!」
「大本営並びに方面軍に発表してしまった現在、ことは重大だ。秘密のうちに抹殺してしまわなければなるまい」
「日本以外の軍隊では戦って捕虜になることを許されていますが、どうして我が軍にはそれがないのです。それがないから無茶苦茶な玉砕ということになるのです」
無意味な戦闘目的。無茶苦茶な作戦計画。戦争は終わっている。
「後方のラバウルには十万の将兵が惰眠をむさぼっている」
「この高地はそうしてまで守る必要のあるものなのですか」
「人情におぼれて作戦が立てられるか」
生きることは無上の価値。軍隊は病的、現地住民は健全。
「軍隊?軍隊というものが、そもそも人類にとって最も病的な存在なのです」
「本来のあるべき人類の姿じゃないのです」
「すみ渡る空やさえずる鳥や島の土人(ママ)のような健全さはどこにもありません」
死に直面した丸山二等兵に死んでいった者たちの無念を語らせながらクライマックスを迎えます。
「みんなこんな気持ちで死んでいったんだなあ」
「誰にも見られることもなく、誰に語ることもできず、ただわすれ去られるだけ」
「いったいこの陣地を、そうまでして、守らねばならぬところだっただろうか」
「ひるはしおれて夜に咲く/いやな敵さんも、きらわれず/鬼の古兵のきげんとり/私はーなーんでこのようーな/つーらいつとめーをせにゃならぬ/これもぜひないくにのため」
「若くして、食うものも食わずに死ぬのは気の毒なことだ。どうしてそんなバカなことがあるのだろうと五十年間考えてきたが頭が悪いせいか、いまだに結論がでない」と水木さんは問題を提起し続けています。
最近、岩波現代文庫で復刊された小沢昭一さんの「わた史発掘」に以下のようなくだりがあります。「そして言わぬが花をいま言ってしまえば、”昭和の長男”であり、”戦争を知っている子供たち”の一人として、その遺留品の中から、『喉元すぎて忘れた熱さ』を見つけ出してむしかえしたいと思っているのである。そう、”昭和の次男””三男”から、またあの話かと、うとまれる例のことだ」と。去る戦争から時間がたつに連れ、戦争での出来事はいくらむしかえしても、むしかえしたりなくなっています。
去る戦争が日本にとってアジア地域での植民地争奪を巡る戦争であったことを前提としながらも、そのような戦争に駆り出された数多くの前途ある若者が、戦争遂行能力のない指導者による無茶苦茶な戦争計画によって死に追いやられていったことも紛れもない事実です。敗戦65年目の夏です。水木さんの作品に触れ、水木さんが提起する問題に触れてみてはいかがでしょうか。 |
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