 |
|
8月7日、上江洲トシさんが97年の人生を終えられました。
上江洲トシさんは、沖縄戦、そしてわけても久米島の日本軍守備隊による住民虐殺の証人であり、「皇民化教育」の証人であり、そして戦後は、平和運動の先頭に立ち続けてこらた方です。私たちに、人としての生き方を身をもって示し続けてこられた方です。
満州事変の年から40年間教員をされ続け、戦時中の教育「皇民化教育」をご自身が「信念」をもって行われたといいます。戦前、ご自分はよりよい教員になろうと、教科書通り、指示通り教え続けてこられたそうです。何の疑問も抱くことはなかったと言われます。その結果は、悲惨な沖縄戦であり、教え子の凄惨な死でした。教え子がむごたらしく亡くなったことを、自らの教育の結果だと自らを責め、自らを「戦犯教員」だと言われてきました。そして、戦後は沖縄の子どもたちと教育のために、平和を大切にされ、常に平和運動の先頭に立たれてきました。
上江洲トシさんは、自らの体験から、私たちに「自分で情報を集め,自分でよく考えるように」とよく言われていました。それは,時代を超えて、いついかなる時にでもあてまはることだと思います。私たちは上江洲トシさんの体験、悔恨、そして、闘いと生き方そのものを心に刻み、少しでも上江洲トシさんの志を継いでいきたいと思います。
沖縄の戦前・戦中・戦後を駆け抜けられた上江洲トシさんを偲び、ご本人の御了解のもとに文書にさせて頂いた1991年12月27日に行われた講演会でのお話を再掲載し、上江洲トシさんのご冥福をお祈りしたいと思います。 |
|
|
私の恩師で復帰後知事になった屋良さん、あの方は私の運命を変えた方なんだがね、戦争中どこに居られたかたというと、台湾だったんです。そして、外地ではみんな日本人はいじめられたけどこの先生は人格者でね、戦争中よりは優遇されて沖縄に帰った方で、祖国復帰運動の先頭に立たれたけどね、その先生がおっしゃるに「おまえたちあんまり戦争の話をするのはね、死んだ子どもの歳を数えるのと同じだからね、もう戦争の話はやめて、これから日本をどうするのか考えなさい」と。現地であの戦争の苦しみを体験した人と、あの方のように反戦平和運動の先頭に立たれるような方でも体験しない人と、この違いがあるのです。あんな立派な方でもね。私はまた戦争体験というよりももっと自分が殺されそうになって日本軍による住民虐殺から生き残った一人だからね、私はもっと皆さんより、沖縄の別の皆さんよりもね、反戦に対してはね、強いわけです。78になります。子ども6名。孫もたくさんいますがね、それでも沖縄では私が反戦平和の号令をかけるぐらいです。この前も2月には、湾岸戦争、2月10日は寒かったのですがね、ハンストしました。それから沖縄に最初に自衛隊が来るという時にね、自衛隊反対、まだ男も何にもしないときにね、自衛隊反対の大会を開いたの。沖縄の教職員組合を先頭する女性たち。組合よりももっと大きな団体がありますから名前だけはね婦連で、年もあっちが上だし、人数も多いから主催はあっちにしてもらったけれど、本当にやったのは沖縄の女教師たちなのです。なんでそんなに沖縄の女性達が強いのかをこれからお話します。
“命どぅ宝”という言葉がありますが、人間の命いうのはたった一つしかない何ものにも変えがたい、どんな宝よりも命が宝ということですね。そして、“いくさゆん終わてぃミルクゆんやがてぃ”ミルクゆんというのは大変平和ないい世の中もやがて来るんだよ。“嘆くなよしんか”嘆くなよおまえたち、家来たち。“命どぅ宝”。これは王様の歌だということになっていますが、記録は無いけど言い伝えで、尚寧王の歌だということです。“ローマより遠いほど忠誠心は強い”と言われていますが、沖縄戦では、住民の命を守る兵隊よりも住民がたくさん死んだということ、それから、男よりも女の死亡率が高い、それから軍人よりは一般住民の死亡者が多いということ、これは、“ローマより遠いほど忠誠心が強い”に通じるのではないでしょうかね。私たちも日本人だ、そう日本人だということでね、他府県でならこんな犠牲はなかったと思うのです。ところが自分たちも天皇の為にこんなに忠義を尽くすんだよ、これを言いたかったと思うのですよね。
それで、この“命どぅ宝”の言葉の出どころですがね、沖縄は、薩摩の国の属国でもあるし、中国の属国でもある、両方に同じように従っていたわけです。なぜ、薩摩が沖縄をこんなに属国にしたかというと、豊臣秀吉が朝鮮征伐に行くときに、俵糧を出せ、兵隊を出せ、というが、沖縄は力がなかったから出さなかったわけです。これをいい口実と薩摩が沖縄に攻めてきたのです。ところが、沖縄は、沖縄の王様は住民の命を大変大事にして、こんな小さな島で争ってはいけないから廃刀令を出したのです。一番先に日本で廃刀令。それから殉死も禁止したのです。このように沖縄の王様はね、自分の生活が楽になるよりは国民の命を大変大事にしたのです。それから、沖縄は台風銀座といわれるように台風に毎年やられるから、農作物の収穫に頼みにするよりは、生きる道を考えようといって、朝鮮、中国、本土、遠く今の東南アジアの全ての国と貿易をしたのです。そして、その利益がものすごく大きい。東南アジアの珍しいものを中国に売るのです。中国の王様は、自分たちが世界一と思っているから十倍で買ってしまうのです。沖縄から持って行った物を。諺に唐十米という言葉があるぐらいです。本土の皆さんが海を恐がっている時代に、沖縄は海国民族ですから大変儲けがあり、国が栄えたのです。そしたら、薩摩の国は、沖縄のあの貿易の利益が欲しくて欲しくて、いい口実、豊臣秀吉の命令に従わないという口実をもってね、沖縄を占領したのです。沖縄が東南アジアから買ってきたもの、中国から買ってきたもの、その利益を奪い取ってしまうのです。沖縄からどんどん奪い取っていって、それがどうなったかというと、明治維新の一番強い国は、長州、薩摩の二国が幕府を倒したのです、政治的な面は長州が抜きんでているが、お金の面は薩摩が遥かに上だったのです。そのお金で日本全国に君臨して、幕府がまだあるころに一番最初に軍艦をつくったのです。薩摩から江戸に船を回すときに、あのときに、外国の船と間違えられないようにと、日の丸を揚げたという記録があるのです。それが日の丸。何も国が国旗と決めたわけではない。いつの間にかそうなってしまったのです。
兵隊は、22歳から45歳までのはずですがね、沖縄では75歳になるおじいさんも、14歳になるこんな少年たちもみんな動員したわけです。兵隊が足りないから。それでも日本の兵隊は11万6千人。アメリカは、54万8千人。既に兵力から大きな差があるのです。船は、1500隻がアメリカから押し寄せてきたのです。ちょうど竹の節からアリが出て来るように、私の島の前から、二列縦隊とでもいいますか、こんなにも船があるのかと思うぐらいやってきて、沖縄本島と慶良間との間をこの1500隻みんな並んだわけです。
そして、3月26日ですかね、一番先に上陸したのは、あの慶良間という島です。あれは集団自決で有名な所。曾野綾子という人が本を書いていますが、あれは私たちから見ればみんなウソ。島の人はね、半分は軍隊とお付き合いしている人たちはね、あれたちは悪い人ではないという。何の付き合いもない、無関心だった人は、本当にあの人たちは悪いことをした、というふうに二つに分かれる。曾野綾子さんは、絶対にあの隊長は自決せいと命令しなかったという。慶良間という島は食料の少ない島です。日本軍の食料はどこに置いてあったかというと、ちょうどアメリカの軍艦が並んだ所にあったからもう取りにいけない。慶良間の人たちの食料をみんな取り上げないといけない。そういう考えのもとに一ヵ所に人々を集めたのです。そうして、手榴弾をみんなに配るのですが、命令した、しなかったという問答があるが、手榴弾の倉庫の鍵を握っているのは、隊長以外いないのです。隊長しかあの鍵は持っていない。手榴弾が民間に渡ったということは、隊長が許してみんなに勧めなさいと言ったのは間違いがない。伝令して回った人たちもいるのだから。そして、一ヵ所に集めて自決を命じたのだけれど、ちょうど明日死ぬという日に大雨が降って、その手榴弾が湿って爆発しなかった。だから仕方がないから、何個か爆発したが、家にあるだけの鎌とかふたまた鍬とか棍棒、カミソリみんな持ち出してきた。破裂しないところは大抵みな、棍棒で力の強いものが子どもたちからだんだんやる。ある家族は、小さい子をみんな並べて、お母さんが最後で、お父さんが棍棒を振り挙げているが、もう、子どもたちの顔をみたらなかなか打ち降ろせないから、ひるんでいるときに、このお母さん「あんたは、日本男子ではないか」、「あんたは日本男子ではないか」あの当時の言葉です。その一言で小さいものからみんな殺して行く。大抵最後になるものは首を吊る。それから、カミソリでやる人はね、校長先生の例ですが、斬ったつもりで自分は死んだが、奥さんが生き返った例もある。なんでね、小学校出ただけのあのお母さんが「あなたは、日本男子ではないか」と言う。これくらい沖縄では皇民化教育、天皇の為に死ぬという教育、こういう離島のしかも小学校6年しかでていないお母さんにこういう言葉を言わすか、これこそいかに当時の日本中の人たちが天皇の為に死ねという教育が徹底してたか、それの証拠なんです。そして、こんな小さな子どもでも、私たちはね、お昼ご飯の前に「箸とらば雨土御世の御恵み、君と親との御恩忘れず。兵隊さんありがとう」と言った。もう一つは、節つけて言ったりしたあと「いただきます」と言ってご飯を食べたぐらいね、もう日本の隅から隅まで、学校の一年生、わけも分からない一年生に教えたわけです。天皇の為に死ねというのを皇民化教育と言いますね、その先頭にいたのが私だったのです。それで私はね、78になる現在、おそらく生きている間中、反戦平和運動をやろうと思っています。
私、師範学校5ヵ年にまた研究科みたいのを出たのです。兄弟4人とも師範学校を出ています。一番下がひめゆり部隊です。死にましたが。私は思うのです。日本全国どこにでも戦死したのはいるからあきらめろ、妹のことなんかもこれは忘れて平和運動をやろうと思う。ところがね、アメリカの爆弾で死んだ人、栄養失調で死んだ人の家族はね、あきらめて私みたいにあちこちで反戦運動をする。絶対に絶対に人前に出たがらないのはね、日本兵によって銃殺、住民虐殺された家族はね絶対に人前に出ません。南部であった一例ですがね、お父さんは艦砲でやられ、お母さんと弟たちは住民虐殺された。私わからないでね、“戦争への道を許さない女たちの会”で毎年、体験者にお話をさせているのですがこのMさんにお電話をしたらなんて言われたかというと、お嬢さんが電話に出で、「私の母は戦争の話をすると2、3日眠れなくなりますからどうぞ許してください」。私は、受話器をもってなんと心無いことをいたのだろうと受話器を置くのを忘れるぐらい残念に思ったのです。この人だけでなく同じ学校で孤児から先生になった人がいましたが、この人たちも絶対に戦争の話はしません。そして、人前にも出ません。いかに日本兵にやられた人たちの痛み、心の傷はおそらく生きている間中残っているのだと思います。
ひめゆり(資料館)には行かれましたか?あれはね、戦争直後、一時の間は、家族の者は入れたが、ある時期からは絶対に入れないのです。なぜかというとね、壕の中の遺骨もいろんな物を整理しないままだったんです。あれを片付けるのは厚生省、県では援護課がやるべきだがやっていないのです。だから私たち一般住民が入ったときには、あれがばれるということで絶対にいれない。あの資料館をつくる前になってね、私、同窓生を入れたのです。私、初めて壕に入ったとき、もう涙が止まらないの。あれは綱梯子で登り降りしていますが、戦後入ったときは二段の梯子で降りたり登ったりしたのだがね、その生き残りの宮良ルリさんという人がいますがね、「あんたがたあの壕で何を考えていたの」と聞きました。よく観光タクシーの運転手さんが「この中には50畳ぐらいの広間がありまして、そこでひめゆりの乙女たちが折り重なるように死にました」というがね、ご覧のように、畳一畳やっとの所です。「そこであんたがた何を考えていたの」と聞くとね、「ねえ先生、お腹いっぱい水が飲みたい。胸いっぱいおいしい空気を吸ってみたい。一目でいいからさんさんと降り注ぐ太陽の中を歩いて、お母さんに挨拶してから死にたい、毎日それを考えていた」と言うのですね。「どうしてあんたがたこんな尖った岸壁の上で過ごしたの」というと、食料探しに出て行ってから帰った後はね、もう誰のことも、友たちのことも考えずに、今晩自分がどこの石の上に座って夜を明かすか、みんな争って座る場所を取り、何日間か座ってみんな過ごしたのだそうです。そこに「デテコイ、デテコイ」とアメリカ兵が言う。普通ならすぐに出て行くところだが、私たちが受けた教育は、敵に後ろを見せるなということと、捕虜の辱めを受けず、だった。みんなうずくまったまま誰も顔さえあげない。しかたがないから、あのアメリカ兵は、勧告しても出てこないから、毒ガスを投げたのです。その毒ガスというのはね、世界の条約に毒ガスを使ってはいけないという禁止があるのです。その毒ガスを投げたのだから、あとでばれたら大変だと、その毒ガスを消すために火炎瓶を投げたらしいのです。今、その火炎瓶のあとがすすけています。そして、50何人かがガスで死んで、5名だけ生き残った。宮良さんなんか、奥の方にいてそれで生きているのです。荒崎海岸では、9名自決しました。こういふうにして、ひめゆり部隊はなくなった。私の妹は、手榴弾を持っていたというから、あの時に手榴弾を持っていたというのは皆戦車に突っ込むのです。南部をあちこち回っても遺体が見つからないから、たぶんひき殺されたと思うのです。
久米島は、本島から100キロぐらい、飛行機で25分、船で3時間半。私の住む久米島は、字であるように久しい米の島なのです。大変米が多いのです。そして、家畜も多いのです。食料が豊かな所で、もう、輸送船は12月以降途絶えているが、6月までどうして生き延びたかというと、久米島の米があったおかげで、あの日本兵は生きているのですよ。それを私たち最後に殺したんですからね。6月23日には、本島では休戦になっていたのです。米軍は26日に来たのです。そのときに、島の人が野戦病院に3名いて、米軍が久米島に行くという話を聞いて、今、久米島に艦砲しようものならもうひとたまりもないから、これを食い止めさせようと言って、3名で相談したら、アメリカ軍いわく、誰か道案内するものがいたら艦砲をやめよう、その3名の内の一番年下が引き受けて、久米島に行ったのです。この人も殺された。
|
|
 |
|
飛行場の近くに牧場があるのです。ある日潜水艦が浮かんで、牧場から3名の草刈人夫をさらっていたのです。そしたら、山の兵隊たち(日本軍)が「これたちは必ず連れ戻すであろう。そのときには、家にはいれずに軍に連行せよ」と言ってきたのです。ところがその軍は、農夫に変装して、点々としてどこにいるのか分からない。それなのに軍に連行せよと言う。もし、命令に違反するならば家族もろとも重罪に処すという通達を一番近い字の区長さんに出したんです。そしたら、その区長さんはね、この3名の草刈人夫を連れて行こうにも居場所がわからない、それよりも、字民を避難させるのが先だと言って、字民を誘導して、みな避難させた。それから、後行こうと思っているときにね、区長、警防団長、副区長、それからこの牧場の主、奥さん、弟さん、合計9名をね、殺してこいと命令すればいいのに、突いて殺せと言う命令を出したの。そしたら、この9名をね、針金でみんながんじがらめに縛りあげて。牧場主の家に9名を集めたのです。そして、兵隊たちは、命令通りに突いて殺したんです。9名の、女はそのうち2人ですからね、男たちが流れる血で、そこは本当に血の海。さすがの日本兵もね、そのまま引き上げることが出来ずに、火葬するんだといってこの家もろとも焼いて引き上げたの。
隊長と同年兵がいてね、位争いで、仲が悪かったらしいです。アメリカ兵の切込みにこの同年兵に君行け、といって班長にして、切込みにいかした。そしたら、班長になった人は、島のひとのお世話になった人の家に行ってね、お世話になりましたと挨拶にいったら、「犬死だ。絶対に行ってはいけません。私たちが、食料を見つけます」と言って行かせないの。行かないでそこの世話になっていたら、すぐ、使いが来て、「あいつを殺してこい」と。その同年兵を下手な人が首を斬ったのか、首を斬り損ねて、首がだらりとしたまま走って行って、草をむしりながら倒れて逝ったというのです。何でこのひとを殺すかというとね、自分がいろんな悪いことをしているからね、国に帰ってこの同年兵が全部暴露するからといって自分の仲間をまず斬ったんですよ。
今度は、9名殺されたあの区長さんの奥さんの話です。この区長さんあんまり体格がいいのでね、日本兵に間違えられるといって家族とは別々に避難したのです。そこを殺されたんだから。奥さんはね、殺された翌日の朝、長男一年生に「まさかうちのとうちゃんじゃなかっただろうね。」子供は意味がわからないもんだから顔を見上げる。ところが周囲の人はね、あまりの痛ましさに奥さんに告げる事が出来ない。「あんたの御主人もやられました」と言えないの。2、3日してからやっと、奥さんに「あんたの御主人もやられたよ。」それ以後あの奥さん面会にお断り。どんなに偉い作家が来ても、新聞記者が来てもみんなお断り、逃げるんです。私も面会申し込んだら断わられるということで同じ島の人だから、ごめんください、と言ったら全部話して下さいました。私にお話したことは、こういうことです。「一週間目になっても葬ることが出来ない。私の胸は自分が今焼かれているような気持ちでした。一番辛かったのはね、一週間目になって、姑と一緒に殺されてもいいから、あの遺体を見てきましょうとお母さんと一緒に」。あの時の私たちが出るのは5時以降でしたからね。5時から7時までは私の行動、夜は日本兵がうろうろ歩くし、昼はアメリカ兵が歩くからみんな恐いのです。5時からたった2時間で全部の行動をしなければいけない。「薄暗くなっている道、あんまり遠くはないんです。2キロぐらいしか離れていないんです。現場から壕までね。お父さんは背が高かったからすぐわかりました。入口の方に倒れていました。もう一つは、金歯が抜けたからね、いつか役立つからと預けてあるから、口を開ければ抜けた歯がありましたからわかりました。本当にあの、もう夕暮れ時の、お母さんと二人でね、遺体にすがって泣いたあの時の気持ちね、話では言い表せません。もっと辛かったのは、葬ってもやれずにね、葬るのは厳罰に処すという命令がまたあったからね、お盆の時まで誰も葬らない。野ざらしです。あんなに焼かれただけでなく、葬ってもやれずに、あの遺体をあとにして家に帰るときの気持ち、これは誰にも話しても分かって下さらないはず」。口数少ない奥さんの話に私が泣いたの。この区長さん、大変いい方。家庭も円満。ただ一つね、この一家は、本島から居留してきているから土地が一坪もありません。小作。お父さんが一緒にして、やっとだったのに、あと子ども3名とお母さん、その後の生活は大変だったらしいのです。長男が一言私に言ってくれました。PTA会費、あの時は保護者会費だったかな、先生が「Kさんまた納めていませんよ」といわれ、家にお金ありませんと言えない、家にお金が何にも無いことを知っていながらね、家にお金を取りに帰ったそうです。お母さんは畑に行っているから、家に着くと大声をあげて泣いたそうです。あれ以来、何の何の補助もなくてね、この家は自力で立て直しました。一番下の子を畦に寝かせながら仕事をし、牛を買う事は出来ないから、借りてきて、一番目の子牛は主に、次の子牛は養い主にと、沖縄の習慣ですがね、子どもたちがね中学行くまでには何匹かの牛を養い、そうして一坪一坪畑を買いましてね、生活も少し楽になりました。
今も皆さんの間では、近くにあると思うのですが、朝鮮人の大変いやがるのですね。朝鮮と沖縄を。私なんか、沖縄をどんなに軽蔑されても当たりまえ、昔日本人世界の人皆裸足で、何にもつけないで野山を駆け回る、遅れた民族裸足で歩くのは当り前と言ってね、何とも感じない。
その朝鮮人の方ね、奥さんは沖縄の人。当時この奥さんは、村の駐在さんとの間に男の子が出来たの。和夫という。ところが、当時、結婚しないで子どもが出来ると村八分になって、村に居れないの。それで、この朝鮮の人が大変心優しい人で、その人と一緒に久米島に落ち延びて来たのです。そして、あと、和夫さんという人、これは私の生徒です。それから、女の子二人、男の子、また女の子、これだけ、子ども5人出来たんです。畑はないからこの朝鮮一家は、名前は谷川さん、あの時は日本名をつけなさいというから谷川という名前をつけていたのですがね、仕事としては、古鉄を買ったり、ボロを買う、これは座っててはできないから小さいリヤカーを引いて島中歩くんですね。これが、朝鮮人であったということと、仕事がそれであったということで、こいつはスパイだと狙われたのです。そして、殺して来いと命令が出て、この谷川さんは、村の役所に行ってね、私たち狙われているそうです。助けてくださいとお願いに行ったがね、村長さんも、どんなに村長であってもね、軍の前には力が無い。どうすることもできない。お気の毒ですがね。ただ一つあなた方に教えておきたいのは、家族一緒に避難するのではなく、別々に避難しなさいと教えた。大変いい家庭ですから、村民みんなからいい人だと言われている人たちです。それで、一番最初は、朝鮮人のお父さんと、下から2番目の男の子がお友たちの家の台所に潜んでいた。ところが、あの日本軍というのは、全く警察犬と同じ。どんなに隠れていても探して来る。そして、この谷川親子を首に綱をかけて、ヤギを引っ張るように護岸まで、300メートルありますが、ひっぱていくまでに息絶えて、護岸から蹴り落とした。2メートルぐらいあります。それから抱いていた子どもはね、そのまんまやった。またまた降りて行って、その子どもが「おとうさん、おとうさん」といって泣くのを突いて殺した。どうして、これが分かったかというと、ちょうどこれがねお盆の入りの日でね、沖縄はこのころ暑いですから、近くの青年たちが護岸に涼みに来ていたのです。そして、みんな見ているが助けることが出来ない。助ければまた、やられる。あの兵隊たちもそこで青年たちが見ていることを知っていながら、おまえたちこれを片付けろと命令して引き上げるのです。そして、家に帰って今度は妻子を探していたら、その家から50メートルぐらいのところに大きなガジュマロの木があるのですがね、そこの下に日本兵がが待ち受けているのもわからずに、母親と赤ん坊と、それから和夫さんという私の生徒とを連れて逃げるところをぶつかってしまった。そしたらね、このお母さんがね、「私の弟は兵隊です。助けてください」と言っても聞かない。「この和夫は谷川の子どもではありません。これ一人助けてください」と言っても聞かない。すぐ10メトールぐらいのところが民家でね、みんなお盆の入りの頃で涼んでいるところ、声がみんな聞こえるんです。ところが、助けてください、と言えない。悲鳴がみんな聞こえるんです。その後ね、そのガジュマロが枝が3分の1しか残らないの。「なぜ、あのガジュマロ。台風でですか」と聞くと、「いえ、これは縁起が悪いから私が切らせたの。その下で人殺しがあった。」今も3分の1の枝しかないのです。あと、二人。家に行ったら、家に女の子が二人、「おとうさん、おかあさん」と泣いているの。これをね、隣近所いっぱい人家があるのですよ。それをどうして連れて行ったのか。私の避難小屋の所に連れてきて首を締めて殺した。夏の刈りたての藁はよく絞らないんです。藁でね投げかけてやっているが絞らんとみえて突いた痕があるんです。これは、一番最初に見た人の話ですがね。藁をかぶせている。私は、10メートル先の避難小屋にいるのですが分からないんですよ。その二人の足が藁の下から見えるんだそうです。この人はね、自分が結婚して子どもが出来たときに、自分の子どもが足を投げ出して寝ている姿を見たときにすぐあの女の子の姿を思い浮かべるんだそうです。こうやって、あの子どもたちは家族全滅です。私は、なぜ、あんな近くにいてわからなかったか、家の母が、姑が、その時身重だったから、「あれはトシ見せるな」といって私をいかせないように努めた。
こうして、これが第二の犠牲者ね。9名が区長さんと殺された。その次がこれ。それから、道案内したという、本島の病院から抜けて道案内したという人、あの一家も奥さんも子どもも・・・あの人は大変いい人で島の人を命を助けようとして、病院から抜けでてきたのに一家全滅です。谷川さんが8月の16日、中村さんというがね、この本島から来た人、これが20日。終戦が8月15日でしょう。天皇の玉音もね、久米島ではみんな聞いているのですよ。この兵隊も。ところが知っていながら2家族やられたんです。そして、9月9日にはね、今度は私たち一家、1家ではない、9家族40人を殺すことになっていたんです。それはね、なんでかというと、私の家の道を隔てた所が学校だったの。この学校、全滅したからそこにアメリカ兵が500人ぐらいテントを敷いたのです。そしたら、子どもたちは、食べ物、お菓子、チョコレートに飢えているから、兵隊と友達になって、いつの間にか、あっち行ったり、また、家に来たりして、お菓子をもらっているの。そしたら、山の兵隊の言い分は、子どもの監督をしないで、なんでアメリカ兵の所にいかすか。アメリカ兵とつきあってひょっとしたら情報が流れるはず、ということで、この学校の9家族殺す予定だった。9月9日。ところが大変いいことにね、9月7日に本島からアメリカの軍艦がやってきて、これたち日本兵を捕虜しにみんな連れて行きました。たった2日違いで私たちは生きているのです。
中野特務機関学校というスパイ学校がありますね、このスパイ学校の卒業生、島の有力者の娘を妻にせよと、久米島にも2人来ましたがね、これにまつわる話もいっぱいある。この人が引き上げるまで狙われているとは知らなかったのです。たった一人、屠殺する人、この人と山の兵隊は大変仲がいい。互いに物の交換をするので。この人はね、全部分かるのです。何月何日にどの家族を殺すか。私の後ろにいる家族がこの人といとこだっただったから「あんたたち、殺されるよ」といったからね、家には寝ずに、いとこの家で寝ていた。私たちは、知らなかったから家でグーグー寝ていた。殺される予定のこの9家族はほとんどインテリです。郵便局員、校長先生、うちの夫婦も教員だし、みんなインテリだった。戦争がまだ激しくないときにはね、日本兵は大変この家族たちにお世話になっている。「おばさん、お茶が欲しい」と言えばね、お茶だけでないお砂糖も出す、孫にくれるといって買っておいた豆腐も出す、肉も出す。孫にはくれなくて、兵隊さんにあげる。山のてっぺんだから航空兵も不事着して山にはいる。陸軍も入る。どんどん所帯が増えたら、蚊帳が必要になる。蚊帳をだせという。自分はよれよれの蚊帳で、たった一つしかない麻の蚊帳をどうぞ兵隊さん、何でも兵隊さんとあげた。その恩人たちを殺そうとしたんですよ。
|
|
 |
| 日本軍によって虐殺された住民を悼む”痛恨の碑”。大岳をいただく。 |
|
私たちだけが山の兵隊を恨んでいるわけではない。大阪にWさんという写真家がいる。この人はね、沖縄の糸満というところからくり船で久米島に青年二人で逃げたんです。体力の弱い人ですがね、疲労といろいろなのとで倒れるようになっていたのをヤブ医者ですがね助けたんです。そして、あいつは落ち武者だ。あいつを殺すと言って狙われたから、字の少年たちがね「絶対に見つからないように隠れてください、私たちが食べ物をあげます」とお芋をあげたり、おにぎりをあげたりした。このWさんは捕虜第一号、第一号で降参したの。このWさん、文通していますが、かつての少年たちへ3回はご恩がえしだと久米島に渡っています。そのWさんが、山の隊長、鹿山というのですが、その居場所をつきとめたの。毎日新聞の記者たちを連れて、徳島県まで行っているのです。そして、それを連れだして、テレビ対談したの。沖縄からは、記録をまとめた校長先生、道案内をして殺されたNさんの兄さん、区長さんの長男、そして、私と4名でたのです。鹿山という人がなんといったのかというと、私たちは「頭を剃って殺された人たちの冥福を祈る」と聞いていたのに、そうではなくて何と言ったかというと、「私は日本軍人として、当然の事をした。絶対に良心の呵責はない。謝罪しない。」私はこれを聞いて、反戦運動をやりはじめた。本土の皆さん、戦争責任に時効があるのですか。たくさんの投書が行ったので、やっと人間らしい心に戻ったのか、鹿山は「僕の受けた教育が悪かった。」当時の、天皇の為に死ねという教育が悪かった。「僕の短気な性分がそうさせたんだ」とやっと言ったのです。この教育ということこそがね、私たちがこれから大変考えなければならないことだと思うのです。いわゆる皇民化教育ですね。明治の時代にも、それから、1960年代にも、森達夫という人が中央教育審議会の会長になったころ、「教育現場を狙え。」君の為に死ね、天皇の為に死ね、というのはね、一番一番大事なのは「教育現場を狙え」ということですね。学校の先生がたを通して生徒を教育することが戦争への道の第一だという。それで、すぐ、現場を変えたら大変だから、いま教科書がだんだんだんだん変わっていくはずです。そしてね、君が代ですね、あれ、沖縄にも全く意味が似た歌があるんです。しかし、沖縄の王様は、一番最初に話をしたように国民の命を大事にした人。日本の天皇はどうしたと思いますか。今のね、私たち沖縄がねこういふうに生活したのはね、未だに75%の戦争の基地を持っているのは、昭和天皇の一言です。昭和天皇はね、もっと早く日本は降参した方がいいですよと勧めるが、もう一回大きな手柄、戦果をあげてからでいいじゃないかとこれを拒否したがために、広島、長崎に原爆が落とされた。沖縄の激戦もあれが後です。天皇陛下があの時にハイとおっしゃれば、日本の国はこんなに犠牲がなかったのです。天皇が何も悪い人ではないが、一私たち国民と同じに戦果に有頂天に、本当に国民の命を大事にと心からお考えならば、やめようとおっしゃるべき。何もわからない私たちと同じように、あのウソの戦果に、沈みもしない軍艦何隻撃沈、何隻轟沈と嘘。それから、飛行機何機撃墜。みんな嘘だがこれをやったのは、みんな軍ですよね。この軍に踊らされたのは、天皇も、私たち国民も同じ事。そして、天皇はね、国民が何もかもなくなって苦しんでいる時に、「朕の命はどうであってもいいから国民に食料を下さい。」これまでは、いい。ところがね、その後何をしたかというとね、マッカサーは1回も天皇の所に行っていないのに、天皇は11回マッカサー通いしていますよ。そして、ある時はね、「あの沖縄をあんたがたが必要であるならばね、主権は日本に置いたまま、50年でもいや、もっと長くでも沖縄を使って下さい。」この一言で沖縄は今までも基地で苦しめられている。これはね、右側の人はどこを見てもこんな記録は無いという。ところがね、こういう重大な事こそね、記録には残さないそうです。これは、奥さんがアメリカの人、何とか有名な人、侍従がね、いつも天皇のお使いで、マッカサーに行って、こうこういう事情だから沖縄を使って下さい、天皇の命を助けて下さい。これなんです。天皇の命と引き換えで。アメリカ自体も天皇は絶対に殺さないでおこうという考えなんです。それはなぜかというと、日本人の天皇崇拝はね、戦争が終わってからも、天皇を殺したら最後、日本はまとまりがつかない。アメリカは日本人のあの忠義の心をつかんでおかないと戦後日本の政治がやりにくくなると、ちゃんと事前に知っているから、それで、天皇を生かして、その代わり沖縄をいろいろやっています。
私、戦犯教師、うちでは、戦犯教師と言われているの。その理由ね、たくさんありますがね・・・私、卒業するときにね、人より一ヵ年多く学校出たから、研究科でたから大変優秀な教員と思い込んだのかね、私が赴任した学校の一番優秀な学年を持たせた。男20名、女20名の一番優秀組を教えた。その優秀組でどんな教育したか、もう、あの時はみんな教科書にあるんです。教科書に乃木大将なんかね、2回出てきますよ。小学校で。義務教育で、あの時は6年だから、6年で何があるかというとね、一番大事なところはね、みんな普通の文章では書かない。歌にするの、歌に。“水師営の会見”という歌があるがね、あれは、どんなお年寄りでも、どんな学校をでない子供でもすぐ覚えられるようにね、曲も短音階で人の心に食い入るような曲をつけてある。乃木大将の歌は、「二人のわが子のそれぞれに死に場所知りたるよろこべる。これぞ武門の面目と、大将応え・・・」こういう言葉をつけて歌を歌った。乃木大将という人は明治天皇が亡くなって、二重橋から棺が出るときに、奥さんと自決した人。その自決の血が天井に散っているのね。私たちみたいなね、師範学校に入れる人ね、必ず、旅行の時には、乃木大将のその血の痕を見せる。乃木神社にお参りさせる。
教育勅語。あれは、小学校4年から覚えないと残して覚えさせる。あっ、それより、もっと、天皇の御真影、これ日の丸と同じ。天皇の御真影ね、全国の学校に配って、四大節に拝ますんです。それをどこに最初にくれたと思いますか。沖縄県。なんで大阪も京都もあるのにほかの師範学校に送らずに沖縄にくれたか。沖縄県と東京の師範学校にくれた。これこそが皇民化教育です。あんたがた明治天皇の子供です、中国には従うなということでしょうね。それで、沖縄にくれる。東京は、東京の師範学校を出ると、また日本全国に優秀な人が行くからね、一番最初にやる。これこそ、今の日の丸と続くものですよ。大変な事です。それでこの御真影を使って、何にもわからない私たちが皇民化教育をやる。皇民化教育の一番一番やりやすいのは、こんなに小さなときから何でもない天皇陛下の写真をただ拝ませているということ。それから教科書は、今度は東郷大将でしたかね、42人候補者にあがったでしょう。あの42人みんな習って、また、教師として教えた一人です。それが戦犯教師の私です。
そして、小学校一年の時のね、今の道徳、修身の教科書で何が先にあるかというとね、「天皇陛下バンザイ」が第一番目。それから、国語の教科書は「赤い赤いあさひが赤い」「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ。」まず教育現場を狙えと、一年生の時から天皇陛下を崇めるようにと、みんな教育させた。だから、あの指導要領はただではないですよ。なんで、君が代を歌わせ、日の丸を崇めさせるのか。私、あの旗はね、オリンピックや何かの行事であげるのは大目にみるが、あの日の丸の旗を卒業式、その他の儀式の時に会場の正面に飾り、拝ますということに、あれ何か、御真影の代わり。昔は、天皇陛下の写真を拝ましたが、今は日の丸を拝まして、将来は日の丸の元に我死なん。ああいう人つくる第一歩ではないか。日の丸は、三角にたてるぐらいはいい。日本の国旗、国旗という法律は無いそうですが(当時)、外国と区別するためには。なんで、ことごこに日の丸を拝ますか、不思議でならない。私一人の解釈で、あれは御真影拝ます代わりではないかと思うのです。
大変元気のある頭のいい子どもたちをね、私は、あの教科書によって「死ね」と絶対に言わなかったが、「えらかった」と教えたのが悪かったのだと思う。この子どもたちをいかに教育したか。もうこまごましたことは忘れているけれど、とにかくああいう教材を一生懸命教えたのは間違いありません。そして、その子どもたちのね、みんな元気が良かったが、その大半が戦死したんです。一人だけ、お医者さんになって帰ってきたんだが、両親も兄弟もみんな全滅。おかえりなさいという者もいない。その子が医者になって帰った時に、会いに行っても、ただそっけない挨拶するだけ。私の教えた生徒があんなしたの、私の皇民化教育の間違えだったということでね、私の足の続く限りね。私たちの時代は、国がいうことは何でもハイハイ、新聞に大きな見出しで何かあっても新聞も読まない教師だったんです。新聞も読まない、読んでも国策というのは何の批判もしないで、ただただ従うだけ。そういうことで、あんたがたは、細かくお読みになる時間はないと思いますがね、せめて見出しを見て、これは何だろう、これは何だろうと、話し合いの場を持って頂きたい。
|
|
 |