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| 〜ご挨拶〜 |
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やっと桜の花が咲き始めたのに氷雨が降り注いでおりました。
二〇〇四年三月 妻 ![]() 梅雨に入り、夫が亡くなった日のような雨が降り続いております。 夫が亡くなって、早三ヶ月になろうとしています。この間、多くの方々から心のこもった弔いの言葉や温かい慰めの言葉などをたくさんいただきました。夫が多くの方々にこんなに思っていただいたことを、大変ありがたくうれしく感謝しております。 彼が亡くなってからというもの、毎日何度も何度も、亡くなる日のことや、小康状態だった日々のこと、発病前の日々のことなど、昨日のことのように思い出しております。彼は亡くなる三日前、「お前さんがいなかったらこんなに長く生きられなかった。ピリピリして生きてきたが、お前さんに会ってのんびりするようになった。ありがとう」と言ってくれましたが、まだまだ生きようと努力していました。「屈強な男を連れて来い。病院を脱走して家に帰るぞ!」と家に帰りたがり、私は荷物をまとめましたが、彼が熱を出してしまったので、とりやめてしまいました。 最期の日の夕方、看護婦さんが痰を吸引した時、痰と血が噴き出てしまいましたが、意識ははっきりしていて話もしておりました。 最期の夜、「背中が痛い、マットとバスタオルを取っぱらってくれ。足も痛い」というので、マットとバスタオルを取りはずし、足をよくもみました。うつらうつらし始めた彼を、私はいつものように容態が安定したと思い込んでしまい、[ああ、これでまた一晩生き延びられる。良かった!少しでも長く眠れますように]と彼の手を握って見守っておりました。彼はあの頃は一・二時間おき位で呼吸困難になり睡眠が途切れてしまう容態になって おりました。看護婦さんが「血圧が下がっています!」と飛び込んで来た時、彼の頬を何度も叩き大声で呼びかけました。私の声が聞こえたかどうかわかりませんが、もう彼からは何の反応も無く、最期の言葉も交わせずに亡くなってしまいました。彼もあの日死んでしまうとは思っていなかったと思います。 歩けなくなって、やっと二度車椅子で外に出た時、煙草を愛しそうに吸っていた彼の姿が浮かんできます。もっと吸わせてあげればよかった。家に連れて帰ればよかったと悔やんでおります。治療についても「お前さんにまかせるよ」と信頼してくれていたのに死なせてしまい、彼に謝っても謝っても謝りきれません。 荼毘に付してしまったことに、こんなにも苦しむことになるとは思いませんでした。「彼がいない」という取り返しのつかない現実を、心も体も受け入れることができず、生きる目標も張り合いも楽しみも消えてしまい、毎日が虚しく苦しくてたまりません。買物に出ても、彼にと買った品々が目に付き買うことができません。彼がいない家に入ると頭も胸もおかしくなり、二ヶ月余り子ども達が交代で付き添ってくれました。今も一人でいると、いつのまにか彼のことで頭が一杯になり、いても立ってもいられなくなります。 彼が遺した膨大な遺品を、大切に守ってゆくという使命感や責任感だけでなんとか呼吸をしている状態です。色々やろうとするのですが気力が萎えてしまい、なかなか手につきません。皆々様にお礼の言葉を申し上げるのもこのように遅れ、お詫び申し上げます。 「法事、埋葬、墓地、墓碑一切無用」という彼の遺言でしたが、彼と一緒に最後に暮した南台の家を、彼のお墓として彼の遺骨や遺品を守っております。 「(伊豆の)川奈の家で二人のんびり漁師をして暮らそう」と言い合っておりましたので、遺骨の一部を、彼が愛した伊豆の海と北アルプスの山々、そして印度のガンジス川に、散骨することに致しました。 生・小説・写真にかける想い、日記、手紙、闘病の記録や資料、彼が書いた詩や小説の数々やその資料、登山の記録、焼付けた写真、ネガなど、種分けを細々と続けておりますが、ホームページへの記入にまでは到っておりません。 彼のことを思い出して頂いた時、ホームページに記入をしていただけるとうれしいです。 皆々様が、六十三年余りの彼の人生に、有意義な時間を与えて下さったことに深く深く感謝致します。ありがとうございました。 末筆になりましたが、時節がら体調を崩しがちになります。くれぐれもお体にお気をつけ下さい。 二〇〇四年六月 山本徹夫の妻 |
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