メイヨ
「はじめに」
この物語は、私が書こうと思って記した物では無い事を初めに申し上げておく。以前から何らかの執筆をしたいという願望は持っていたが、それにしても本物語のジャンルは全く私の志向する分野ではない。本書は、この物語を私に書かせた者の指示に従っただけであり、私は所謂、秘書に過ぎない。この点を予め承知した上で本書を読んで欲しい。
正直、やっと書き終わり、拘束から開放され、この「はじめに」という、本書で唯一の自由意思で書けた事が、今の私の喜びある。
「メイヨ」
「気をつけてね」って、何に気をつけろというのだろう。いや、そもそも この「気をつける」ってどんな意味なのだろう?・・・・帰る時に言われるのであれば、交通事故に遭わないように車に注意してとか、酔っ払いに絡まれないようにとか・・注意しなければいけない諸々に注意しろという事で、ボーッと帰るなよと注意喚起をしている事で、便利な言葉なのかもしれない・・・・・・・。
蒼い空、所々にポコポコっと雲が浮いている。舗装された快適な上り坂。速度上げても一向に追いつく車もなければ追いついてくる車もいない。対向車を走ってくる車もいない。道幅がとても広く感じる。
エンジンを唸らせ、回転数を上げ、登っていると、まるで空に向かって、今にも空へ飛び立ちそうに思える。ハンドルを引いてみる。まるで操縦管の様に。車は、山を切り開らいた見通しの良い峠に出る。頂上で道は、いきなり左に大きく曲がりる。視界が更に開け、空を飛んでいるように感じる。前も左も右も雲、雲、雲、そして青空が広がる。
このカーブの向こう側は、なにも見えない。おそらく崖なのだとは思う。どんな崖なのか常々一度は確かめたいと思うのだが、そのチャンスがなかなか作れない。
なぜなら、この辺りに車を止めたら、後続車の追突はほとんど避けられない。景色の見通しが良い分、道の視界はないと言える。
峠を越えると、道は、山の斜面を下り始める。視界は、ただ切り立った崖に覆われる。カーブが連続し、道幅も狭くなる。意識を運転に集中する。景色を眺める余裕が全くなくなる。そんな、人家がどう考えてもありそうもない道沿いに、一瞬だが、たぶん側道に、表札のような、立て札が一瞬、目に飛び込んで、後ろに消えていく。
・・メ イ ヨ・・・・・・・・・・と読めるような気がする。
その瞬間、いつも心の中で、「今度、確認してみよう」と思うのだが、道幅はさらに狭くなり、カーブも連続しているものだから、意識を更に運転操作へ集中する状況に入っていく。「今度、確認してみよう」などという思いは瞬く間に周りの景色と共に後方へ消え失せる。だがしかし、ここを訪れると、この思いがまた思い浮かぶのだが、この場所に来ないと何が思い浮かぶのか記憶から引っ張り出せないのだ。これもいつもの事。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は、以前に観た夢を 後日また見る事が多い。それは、事象の再演であったり、前回の続編であったりする。しかも、いくつかのシリーズになっていて、まるでテレビの連続番組か再放送みたいで、見るのが少し楽しみでもある。ある夢は、ガンダムのパイロットになって操縦している物で、これはさらに地上版と宇宙版がある。またある夢は、、、
実は自分でも良くわからない夢。、、、、ハイキングの夢。再放送なのだけれども、非常にゆっくりと、話が進んでいて、しかも詳細部分が見る度に鮮明に、詳細になっていく。
かれこれ、数年も継続して視聴している為、内容がしっかりと刻まれて、まるで話が事実だったように、記憶されている。
この夢を徹夜で視聴した朝は、とても疲れている。でも目が覚め、「また夢かぁ」とホッとした瞬間。現実の慌しい朝に戻り、忘れてしまう。後日、特になかなか寝着かれない夜は、この夢の世界をさ迷う事になる。
樹齢がかなり経った針葉樹の高木の根本を、獣道よりは、少し地面が踏み固められ、それなりに人が入っているような道。だが、小川もできない程のそれは緩やかな谷の間を縫って続いている。小漏れ陽は、充分に地面に届いており、明るいのだが、向かっている方向を見通そうと目を凝らしても連なる木々の重なりで、すっかり前方は確認できない。私は、リュックを背負っている。トレッキングシューズは快適で、上半身はじっとりと汗ばんでいたりするが決して辛くはない。
なぜなら、私はこの道を嫌と言う程、良く知っているのだ。何度も何度もこの夢を繰り返し観てきたおかげで、いい加減、すっかり覚えてしまったのだ。ついでにこのハイキングそのものが夢の中である事もハイキングをしながら認識さえしている。ずいぶん長く歩き、体力が落ちて汗を拭い、疲れたなと思った瞬間に、これが夢である事と思い出すと、さっきまでの汗はフッと消え、体力も戻る。夢の中でそれが夢だとわかっているとそれなりに便利だ。
目を足元に向けると木の根元に、様々な地衣類を確認する事ができる。繁殖する種類がところどころで違っていて、異なる種が接するところでは生き残りをかけた競めぎ合いになっているのだ。
が、毎回、その勢力図が微妙に異なっているのが不思議だ。覚えていないから、その場で創造しているからだろうか
そうそう、まもなく山の淵にたどり着けば、いつもの通り、視界に蔦でできた橋が飛び込んで来るはずだ。この橋は、この道よりさらに十数メートル下ったところにあり、ここまで登って来たのに、橋に行く為には、下らないといけない。それが毎回少々億劫に感じる・・・・これもいつもの事だ・・・。夢では、更に毎回この橋がどことなく微妙に変わっているようなのだが、どこが、どの様に違うのかは説明できない。感触とか光の当たり方とか、微妙なものだ。だが、この僅かな違いが、その後の話の展開に様々なバリエーションを生じさせてくる事は覚えている。
そうだ、やがてたどり着くであろう、いつもの集落の名前を思い出した。目が覚めている時には絶対に思い出せない名称なのだが、、
・ ・・・・・・・メイヨ村・・・・人々はそう呼ぶが、どんな漢字を当てるのかは知らない。
自宅でグーグルマップを開き、いろんなところの航空写真を見て、行った事がある地域を見つけると、記憶が蘇り、ちょっとワクワクしたりする。まして、数回行った事がある地域なのに、その近くに一度も行った事がないけれどなにか建造物があったりすると、座標を手帳にメモったりして、「今度、寄ってみよう」などと思いを巡らすのも楽しい。もっとも、その場所に行く事はめったに無い。
山梨や長野、群馬、栃木などの山間部は、ドライブするにはスリリングな道が多い。ドライブの途中で、温泉を見つけて、日帰り入浴で浸かってみたりするのも楽しい。
ただ、こういった温泉は残念な事に、ちょっと期待はずれになる事が多い。観光ガイドに載らないほど、その温泉設備が古く、そもそも露店風呂という発想が欠落していて、ましてや私が好きなサウナなどという設備など考えもしなかった年代物である事が多い。そもそも、そんな期待を持つこちらの気持ちの方が、おかしいというのが事実だろう。
ある日、駅にある本屋の旅行コーナーで、中学とか高校時代に授業で使っていた装丁の地図帳を見つけた。あの頃、友達とワイワイと地名の探しごっこをした事を思い出す。
そんな事を思いながらページをめくっていると、なんと読むのかわからない地名や、とんでもないところに自宅近くの地名と同じ地名があったりする。今日は、そんなノスタルジーに浸って、この地図帳を衝動買いしてしまった。
比較的混雑している電車で、座れたりすると何かを読まないといけないように感じてしまうのだが、いつも絶対に座れっこない時間帯の乗車にも関わらず、座れてしまった。しかも今日に限って読み物は鞄には入れていない。一応、念の為、鞄の中を漁ってみたが間違いはない。やむなく、過日購入した地図帳を開く。ちょっと場違い。
そこで確実に文字が羅列されているであろう最後の頁を開いた。出版日を見て「しまったぁ」と思った。なんと4年前に出版された地図だった。「何でこんな古い地図を販売していたのだろう。棚卸しで数年にわたって見落とししたのだろうか」と訝ってみたりする。ちょっと損した気分になりつつ、パラパラとめくって、全体を捲って見て、学生時代に使っていた地図帳となんら体裁が変わっていない事にホッとしたりする。
適当に開いたページは東北地方のページで、いくつかの地名を拾ってみる。例えば「ふじみ」。「そうそう、ふじみの地名はそこらじゅうにあるんだよね、、でもこんな東北地方からも富士山が見えるのだろうか」などと感動してみたりする。
学生時代の地図帳と異なり、この地図帳には、かなり詳細な地名索引がついている事を発見した。「昔はこんな索引なかったよな。ずいぶん便利になったけど、このページがあると地名の探しごっこは成り立たないな」などと思っていると、索引に「メイヨ」という文字を見つけた。・・・・・メ イ ヨ ?
「なんだっけ」と、思いながら、その記載されている頁と座標を探ってみる。中国地方にその地名があった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
次に行く