

20世紀を代表するエコール・ド・パリの画家。
エジプトやアフリカなどの原始美術と故郷イタリアに息衝くシエナ派など古典芸術の厳格性を融合させ、縦に引き伸ばされたかのような面長の顔とアーモンド形の瞳による独自の人物画を確立。類稀な造形性と抒情的で画家自身と同調するかのような独特な人物表現は以降の現代芸術に多大な影響を与えた。
友人・知人、恋人などを描いた肖像画や裸婦像、少年・少女など子供を描いた作品がとりわけ有名であるが、数点の風景画も残されている。また画家は驚異的な集中力で作品を一気に仕上げる(早描き)ことが知られており、モデルを前に4時間足らずで作品を仕上げたとの逸話も残されている。
1884年、イタリアのリヴォルノでスペイン系ユダヤ人の一家の息子として生まれる。一家は画家が生まれる直前に破産していたものの、裕福な叔父の援助により一家は経済的に安定していた。
幼い頃から絵画に興味を抱いていたモディリアーニは生まれつき病弱体質で、1900年に肺結核により病気療養の為、フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリ、ローマなど気候の良い土地を巡る旅に出る。この芸術都市で触れたシエナ派など古典作品群から多大な芸術的影響を受ける。
1901年、故郷リヴォルノを離れフィレンツェの裸体美術学校で学び始め、1903年から3年間、ヴェネツィアに滞在。同地でマッキア派や後期印象派、グスタフ・クリムト、エドヴァルド・ムンク、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなど象徴主義や分離主義などの作品にも強く惹かれる。1906年、羨望の地パリへと向かう。
当初は、当時若い画家が数多く居住していたモンマルトルで活動するが、1909年からモンパルナスに拠点を移した。この頃、ジャン・コクトー、シャイム・スーティン、モイズ・キスリングなどエコール・ド・パリを代表する芸術家・画家たちや、パブロ・ピカソ、ディエゴ・リベラ、モーリス・ユトリロ、藤田嗣治など同時代を代表する画家と交友するも、キュビスムなど時代の先端をゆく絵画様式とは一線を画す独自の様式であったことや、自堕落な生活・態度であった為にパリの美術界で孤立し、長い間、異端として扱われた。1909年から1914年まで彫刻家ブランクーシの影響を受け、彫刻家として精力的に活動するも、重労働であることから病弱であったモディリアーニは体力的な面で彫刻活動を断念する。また1914年にベアトリス・ヘースティングスと知り合い、その後2年間、恋愛関係となる。
1915年から本格的に絵画の制作活動をおこなう。画家(芸術家)としては依然として異端扱いされるものの、この頃に画家の独創的な肖像様式を確立。1917年、画学生であったジャンヌ・エビュテルヌと出会い、深い恋愛関係に落ちる。
晩年期(1919年頃)にようやく画家として評価され始めたものの、結核性髄膜炎により36歳で夭折。恋人ジャンヌ・エビュテルヌも数日後に画家の後を追うように自殺。なお画家の作品は死後、急速に値段が高騰し、10年経過した1930年に開催されたヴェネツィア・ビエンナーレでの回顧展で、ようやく20世紀を代表する画家としての正当な評価を受けることになった。
アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani, 1884年7月12日 - 1920年1月24日)は、20世紀初頭に活動した画家・彫刻家で、イタリア出身だが、渡仏し、おもにパリで制作活動を行った。
1884年、イタリア・トスカーナ地方のリヴォルノに生まれた、ユダヤ系のイタリア人である。芸術家の集うモンパルナスで活躍し、エコール・ド・パリ(パリ派)の画家の一人に数えられる。
モディリアーニはイタリアベニスアカデミーを卒業後の1906年、パリへ移住した。1907年と1912年にはサロン・ドートンヌ、1908年、1910年、1911年の各年にはアンデパンダン展に出品している。最初は彫刻家を志し、1915年頃まではアフリカの民族美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていた。しかし、資金不足と粉塵による健康の悪化などの理由により断念せざるを得なかった。
1914年、パリでも著名な画商ポール・ギヨームと知り合い、ギヨームや友人のマックス・ジャコブの勧めもあって1915年頃から絵画に専念し画業を始める。シャイム・スーティンや藤田嗣治やモーリス・ユトリロとも交友関係にあった。
絵画の代表作の大部分は1916年から1919年の間に集中して制作されている。モディリアーニの絵画のほとんどは油彩の肖像画であり(風景画はわずか3点)、顔と首が異様に長いプロポーションで目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現をとっているが、これは自身の彫刻の影響が指摘されている。なお、初期にはピカソの「青の時代」やポール・セザンヌの影響を受けた絵を制作している。
1917年にはベルト・ヴァイル画廊にて、生前唯一の個展を開催したが、裸婦画を出展したのが元で一日で打ち切られた。同じ年、後に妻となり、裸婦像などの絵画モデルを務めた画学生ジャンヌ・エビュテルヌと知り合っている。彼女を内妻とし、1918年に一女をもうけるも、貧困と持病の肺結核に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生(ただし飲酒については肺結核による咳を抑えるためしかたなく飲んでいたと言われる)の末、1920年1月24日に結核性髄膜炎により35歳で没した。彼の二人目の子を妊娠していた妻のジャンヌもアメデオの死の2日後、後を追って自殺した。この時妊娠9ヶ月だったという。パリのペール・ラシェーズ墓地に二人で眠っている。
モディリアーニの生涯は半ば伝説化しており、映画化もされている。