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SINCE JAN, 01、 2004
邪馬台国への里程は机上論だった
晋(しん)の歴史編纂官である陳寿(ちんじゅ)(233〜297年)が3世紀後半に書いた「三国志」の中の
一部に「倭人伝」(魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条(ぎしょ、うがんせんぴとういでん、わじんのじょう))が記
されている。これは、魏志倭人伝と呼ばれ、1987文字に亘り、倭国について語っている。魏志倭人伝
についての一部を引用すると、次のような一節から始まっている。(原文は中国語なので、すべて漢文
であるが、訳文は以下の通りである)
「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り、山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す。旧(もと)百余
国。漢の時朝見する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所三十国なり。郡より倭に至るには、海岸に循(し
たが)いて水行し、韓国を歴(へ)て、乍(たちま)ち南し、乍(たちま)ち東す。其の北岸狗邪韓国(くやか
んこく)に至るには七千余里なり。始めて一海を渡る千余里、−−−−−−−」
この魏志倭人伝において、帯方郡から邪馬台国への行程はすべて日数で報告されたと考えられるが、
後に、その当時の魏学者が、文献などを参考にして、常識的な行程と里数を机上的に修正しながら、
当てはめていったと考察する。私個人としては、畿内説を採用し、暫定的に末盧国放射行程説を設
定する。
魏志倭人伝による記述の中で、帯方郡から邪馬台国までの道程に関する引用節を抜粋すると次の通
りである。
@ 「郡より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(へ)て、乍(たちま)ち南し、乍(た
ちま)ち東す。其の北岸狗邪韓国(くやかんこく)に至るには七千余里なり」
A 「始めて一海を渡る千余里、対馬(つしま)国に至る」
B 「又、南一海を渡る千余里、名付けて瀚(かん)海と曰う。一大(一支)(いき)国に至る」
C 「又、一海を渡る千余里、末盧(まつら)国に至る」
D 「東南、陸行五百里、伊都(いと)国に至る。郡使(ぐんし)往来するに常に駐(とど)まる所なり」
E 「東南、奴(な)国に至るには、百里」
F 「東行、不弥(ふみ)国に至るには、百里」
G 「南、投馬(とうま)国に至るには、水行二十日」
H 「南、邪馬台国に至るには、女王の都(みやこ)する所、水行十日陸行一月」
I 「郡(ぐん)自(よ)り女王国に至るには万二千余里なり」
上記に関連して、次の引用節がある
J 其の道里を計るに当(まさ)に会稽の東冶(とうや)の東に在るべし
K 女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り、皆倭種(わしゅ)なり
L 又侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里
M 又裸国、黒歯国有り、復(ま)たその東南に在り。船行一年にして至る可(べ)し
N 倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在し、或いは絶え或いは連(つら)なり、周
旋五千余里可(ばか)り
以上より、上記@からHまでを順次、シリ−ズ(直列)に進行する従来説と、A〜Dの表現の仕方は
「〜に至る」であるが、E〜Hは「〜に至るには、」とニュアンスが異なる。これは、@、Iと同じよう
に、ある地点からの距離を示している。すなわち、@〜Dの伊都国までは、シリ−ズ(直線的)な行程
であるが、E〜Hは伊都国からは、放射状にパラレル(並列)に進行するのであるという榎一雄氏の
説があるが、図式にて表すと以下の通りである。これに対して、私は@〜Cの末盧国まで、直線的で
あるが、D〜
Hは末盧国を起点にして、パラレル(平行)に進行する末盧国放射行程説を設定した。
従来の説 榎一雄氏の説(伊都国放射行程説)
帯方郡 帯方郡
↓ ↓
7千余里→ 狗邪韓国 7千余里→ 狗邪韓国
↓1千余里 ↓1千余里
対馬国 対馬国
↓1千余里 ↓1千余里
一支国 一支国
↓1千余里 ↓1千余里
末盧国(4千余戸) 末盧国(4千余戸)
東南陸行5百里\ 東南陸行5百里\ 東行百里
伊都国(千余戸) 伊都国(千余戸)→不弥国(千余家)
東南百里\ 東行百里 \ 東南百里
奴国(2万余戸)→不弥国 奴国(2万余戸)
(千余家)
水行20日↓南 ↓南 水行20日
投馬国 投馬国(5万余戸)
(5万余戸)
↓
水行10日陸行1月↓南 ↓ ↓南
水行10日陸行1月
万2千余里 邪馬台国 万2千余里 邪馬台国(7万余戸)
(7万余戸)
帯方郡→邪馬台国間は1万2千余里(魏志倭人伝)
帯方郡→末盧国間は1万余里
末盧国→邪馬台国間は2千余里である。この2千余里について、下記、従来の説と榎一雄氏説との
比較をすると、次の通りである。
従来の説 榎一雄氏の説(伊都国放射行程説)
2千里=500里+100里+100里+水行20日+ 2千里=500里+水行10日+陸行1月
水行10日+陸行1月⇒2千里−(500里+100里 ⇒2千里−500里/(10日+30日)=
+100里)/(20日+10日+30日)=1,300里 1,500里/(10日+30日)=37.5里
/(20日+10日+30日)=21.66里/日 半端 /日、半端な里程(小数点が付く)を示す
で、1日の里程が少ないので机上的ではない。 これも非机上的である。
末盧国放射行程説 魏志東夷伝⇒韓は方4千里可→南北4千里
▼ 東西4千里
帯方郡(仁川) 帯方郡(仁川)
を意味する
↓ ↑
7千余里→ 狗邪韓国(金海市:釜山)
南北4千里 狗邪韓国(金海市:釜山)
↓1千余里
↓←3千里→
対馬国(千余戸)
←東西4千里→
↓1千余里
一支国(3千許の家) 狗邪韓国→末盧国間3,000里は中国
↓1千余里 東行百里 大陸の慶元路→泉州路間を3,000里
末盧国(4千余戸)→不弥国(千余家)
として、狗邪韓国→末盧国間へ平行移
\ \東南百里 動、対馬国と一支国で3等分する
\ 奴国(2万余戸)
\東南陸行5百里
末盧国から狗奴国(日本国内)のみが
伊都国(千余戸)
方位はいい加減(ファジ的)である
↓南 水行20日
投馬国(5万余戸)(出雲?)
↓ ↓南 水行10日陸行1月
万2千里 邪馬台国(7万余戸)→ 東千余里 →復た国有り皆倭種なり (佐渡?)
(女王卑弥呼)(奈良県桜井市)
(「後漢書」倭伝では、ここも狗奴国の一部、邪馬台国
其の余の傍国21国 より南に位置することになる。つまり倭種は東南方向)
↓南 ↓
狗奴国(中部地方以南)
南
(男子王)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−末盧国からここまで(狗奴国)方位はデタラメ−−−
\
↓南4千余里
東南船行1年にして至るべし
侏儒国 裸国・黒歯国(メラネシア、ソロモン諸島?、首都はガダルカナル島の
(人の長、3、4尺) ホニアラ)
(ミクロネシア、マリアナ諸島?(グァム、サイパン島等))
末盧国放射行程説による里程(末盧国→邪馬台国間)
2千里=水行10日陸行1月⇒2千里/(10日+30日)=50里/日となる、1日の里程、50里は、
小数点も付かない。したがって、里程で表現されている国間は次のように考えることができる。
末盧国→不弥国⇒100里/50里=2日
末盧国→奴国⇒100里/50里=2日
末盧国→伊都国⇒500里/50里=10日
以上のように、倭国はすべて1日当たり50里で計算することができる。いかにも机上的である。
「唐六典」(とうりくてん)」によれば、「諸(およそ)、行程は、馬は日に70里、歩および驢は50里、車は
30里。其の水程は、重船の流れを遡るには河(黄河)は日に30里、江(揚子江)は40里、余水(その
他の河川)は45里。空船にては、河は40里、江は50里、余水は60里。重船、空船の流れに順(した
が)うには、河は日に150里、江は100里、余水は70里」である。この時代は徒歩は40〜50里が標
準とされている。 水行は徒歩とほぼ同じ40〜50里、歳・月、日で表され、陸行は里で示される。
末盧国放射行程説を設定すれば、この水行、陸行50里を採用することができる。また、伊都国、奴国
不弥国の位置関係も通常の方位にて概略正常になる。末盧国→東南陸行5百里伊都国に至る。また
末盧国→東南百里奴国に至る。(ただし、末盧国は佐賀県東松浦半島の呼子(よぶこ)とした場合)
魏志倭人伝の裴松之の註に「倭人は正歳四時を知らず、ただし、春耕秋収を記して年紀となす」とあり
夏至、冬至、春分、秋分、立春、立夏、立秋、立冬の8節を知らなかったと記してある(裴松之(はいし
ょうし)(372〜451年)南北朝(劉宋)時代の南宋にて、陳寿の「三国志」に詳細な注釈を施した人物
「倭人は正歳四時を知らず」の正歳が正月、四時は四季である)。殷代の暦法では、
1.1月は30日の大月と29日の小月からなる
2.1年は12か月からなるが、時には、13月という記載があり、これは閏(うるう)月と推定される
(暦の百科事典、暦の会編、新人物往来社)。以上から考えて、その当時の1か月は30日と推定する
ことができる。この時代は8節であるも、現在では二十四節気が用いられている。春分の日を0°とし
地球が太陽を一回りして360°で1年であるが、360°⇒365日であるから、1°が約1日として計算
することができる。二十四節気の場合、360°/24=15°(約15日)間隔、8節では、360°/8=
45°(約45日)間隔である。理科年表(西暦2,000年)により調べると次の通りである。
(東京)中央標準時
名称 太陽黄経 中央標準時 気温(東京) 日の出 日の入
小寒 285° 1月 6日10時01分 5.4° 6時51分 16時42分
大寒 300° 1月21日 3時23分 5.0° 6時48分 16時56分
立春 315° 2月 4日21時40分 5.0° 6時39分 17時11分
雨水 330° 2月19日17時33分 5.8° 6時25分 17時26分
啓蟄 345° 3月 4日15時43分 6.7° 6時07分 17時39分
春分 0° 3月20日16時35分 8.6° 5時45分 17時53分
清明 15° 4月 4日20時32分 11.8° 5時24分 18時05分
穀雨 30° 4月20日 3時40分 14.4° 5時02分 18時18分
立夏 45° 5月 5日13時50分 17.9° 4時45分 18時31分
小満 60° 5月21日 2時49分 19.3° 4時32分 18時44分
芒種 75° 6月 5日17時59分 21.1° 4時25分 18時54分
夏至 90° 6月21日10時48分 22.1° 4時25分 19時00分
小暑 105° 7月 7日 4時14分 23.9° 4時32分 19時00分
大暑 120° 7月22日21時43分 26.3° 4時41分 18時53分
立秋 135° 8月 7日14時 3分 27.5° 4時53分 18時40分
処暑 150° 8月23日 4時49分 26.7° 5時06分 18時21分
白露 165° 9月 7日16時59分 24.7° 5時17分 18時00分
秋分 180° 9月23日 2時28分 21.6° 5時29分 17時37分
寒路 195° 10月 8日 8時38分 18.8° 5時41分 17時15分
霜降 210° 10月23日11時47分 16.5° 5時54分 16時56分
立冬 225° 11月 7日11時48分 14.2° 6時09分 16時40分
小雪 240° 11月22日 9時19分 11.1° 6時23分 16時31分
大雪 255° 12月 7日 4時37分 8.8° 6時37分 16時28分
冬至 270° 12月21日22時37分 7.0° 6時47分 16時32分
(日の出入は二十四節気の月日とは多少ずれている。気温は1961年〜1990年の平均値)
気温は、一年の中で立春が最低、立秋が最高気温となる。小寒、大寒、立春と温度勾配が下がり(微
分係数マイナス)、雨水、啓蟄と温度勾配が上がる(微分係数プラス)過程の寒さの底(微分係数0の
点)が立春である。また、暑中見舞から残暑見舞に移る過程の暑さの頂点(微分係数0の点)が立秋
であり、立春の逆である。一年の気温は立春から立秋に向かって、ひたすら温度が上がり、逆に、立
秋から立春に向けて温度はひたすら下がる過程を繰り返す。天文学的自然界の暦の上では、立春が
真冬であり、立秋が真夏である。
体感的に、一番寒い立春に体が慣らされていて、温度が少し上がると、暖かく感じることから、立春を
過ぎると暦の上では春という表現が用いられるかもしれないが、まだまだ、三寒四温により寒さは続く
冬真っ只中!。ただし、立春、立夏、立秋、立冬の前日は節分であるから、季節の変わり目である。
だから、理論的には、立春(春の始まり)、立夏(夏の始まり)、立秋(秋の始まり)、立冬(冬の始まり)
でなければならない。夏至(真夏:太陽は北回帰線、北緯23度26分の位置)、冬至(真冬:太陽は:南
回帰線、南緯23度26分の位置)、春分、秋分(仲春、中秋:太陽は赤道上)であることから、
日常の暦の上では、立春(春の始まり)、春分(仲春)、立夏(夏の始まり)、夏至(真夏)、立秋(秋の始
まり)、秋分(中秋)、立冬(冬の始まり)、冬至(真冬)→翌年の立春前日の節分までで1年である。
実際の季節上では、春分(春の始まり)、立夏(仲春)、夏至(夏の始まり)、立秋(真夏)、秋分(秋の始
まり)、立冬(中秋)、冬至(冬の始まり)、翌年の立春(真冬)→春分の前日までで1年である。
以上のように、日常使用している暦と実際の季節(天文学的自然界の暦の上)では角度にして45度、
日数では約45日(1.5か月)ズレていることが解る。これは、北回帰線から南回帰線へ、または、南
回帰線から北回帰線へ太陽が移動する時、周囲が完全に暖まったり、冷えたりするのに、45日(1.5
か月)ほど遅れて効果が現れるためである。天文学的には、春分(春の始まり)が太陽黄経0度となる。
理論的な暦の上において、冬至は真冬であるから、小寒、大寒、冬至の順になれば解るが、冬至(真
冬)を過ぎると温度が徐々に上がらなければならないのに、日常の暦の上では、冬至以後でも、さらに
小寒、大寒、立春と寒さを予想させる名称があることは理解に苦しむ。これは、実際の季節(天文学的
自然界の暦の上)を意識していることになり、日常の暦の上でも、立春が真冬であることが解る。立春
とは、冬から春、夏へ向かう変更点であり、立秋とは、夏から秋、冬へ向かう変更点である。つまり、立
春は「暦の上でも春」ではない。
(天文学的自然界の暦)
理論的な暦の上において立春は春
日常使用している暦の上でも実際の季節も立春は真冬
(微分係数0) (微分係数0)
最高温度 最高温度
(真夏)
(真夏)
夏至 立秋
− \(−) − \(−)
− 冬至へ − 立春へ
立春 春分
小寒 ・ 小寒
啓蟄
大寒(−) ・(+) 大寒(−)
雨水(+)
冬至 立春
(真冬)
(真冬) (−),(+)は温度勾配の
最低温度 最低温度 微分係数マイナス、微分係数
(微分係数0)
(微分係数0) プラスを表す
日の出入にて、夜明が一番遅いのが正月明け1月 6日頃であり、日暮が最も早いのは、12月7日頃
となる(冬至ではない)。逆に、夜明が一番早く、日暮が最も遅いのは夏至である。
以上のように二十四節気を踏まえて考えると、邪馬台国の時代に、当時の日本人が8節も知らなかっ
たとすれば、おそらく、太陽の位置と時刻との関係や星に関する方位(東西南北)も知らなっかたと考
えることができる。ある地域の方位は中国人に教わったと思われるが、それを基にして、感覚的な東
西南北を常識として身につけていたのだろうから、狭い範囲においては正確でも、日本全域ともなれ
ば、確認する手段もなく、方位があやふやではなかったのかと思われる。
魏志倭人伝においても、帯方郡から一支国までは中国人が関わっていたので、方位は正確であるが
末盧国から日本国内へ向かう行程の方位が曖昧なのは、太陽や北極星との関連が解らなかったと
解釈すべきである。その他、南侏儒国、東南裸国・黒歯国も、方向はおおまかに合致していると思わ
れる。日本国内の方位のみがいい加減(ファジ的)である。その上、正月や四季も知らなかったと記
されているところから、自然界の知識は無いと判断しなければならない。しかし、現代においても、世
界の哲学に対して、日本は哲学が無いに等しいのだから、この頃の人々を笑う事はできない。
2004年4月末日、衆院厚生労働委員会で、年金改革関連法案が野党欠席のまま、与党の単独採
決にて可決されたが、この法案に伴い、閣僚および国会議員の国民年金保険料未払い者が発表さ
れた。一国民の年金保険料未払いに対しては、居丈高な態度(鼻息が荒い)であった彼らも、同じ穴
の狢(むじな)であった事は、国民、すべて周知の事実である。この失態は哲学以前の問題であり、こ
の「いい加減(ファジ的)」は、今に始まったことではない。縄文時代、弥生時代の古(いにしえ)から
脈々と受け継がれてきた日本人のル−ツであり、この「鼻息が荒い」《厚顔無恥(きわめて厚かましく、
恥を知らない)または、自己中心的(人に厳しく、自分に優しい)である。だから、他人に対する批判は
凄まじいものがある(本当は間違っているのに、自分は正しいと錯覚している)。例えば、嫁、姑の関
係とか専門分野や現場を知らない一般人の指示、アドバイス、意見などの「思いつき」(法的には、状
況証拠にすぎない)がこれに相当する。これらは典型的な感情論であるので哲学がないといわれる所
以である。ここでいう、専門分野とは学者や研究者をいう。彼らは現場に密着しているので、自然界の
確実な物的証拠を持っている》という性質も、1億の日本人すべてに適用される遺伝子(DNA)である。
後で、もう1回出てくるので、ここでは特に注目していて下さい。「いい加減(ファジ的)」や
「思いつき
」から根拠のない無神経な「噂」を流す。不都合な事はすべて他人のせいにする。常に閉鎖的で他人
の意見は聞かないなどを総称して「自己流素人理論」ともいうべき仕切り屋(「鼻息が荒い」)が主流
を占めている。これが、日本の今日の現状である。邪馬台国の時代では、更に呪術的予言という要素
が加わるので、太平洋戦争時の現人神(あらひとがみ)的軍令思想のようなデタラメがまかり通ってい
たと考えられる。(特に、私も含めて、オジチャン、オバチャンに限らず、日本人は無意識のうちに、人
の批判を繰り返す「1億総評論家的遺伝子(DNA)」を持っているが、これは感情論が成す行動であ
るから、欧米人のような論理的思考ではない。哲学は論理的思考から生まれる。欧米人は社会のシ
ステムを構築する時、徹底的に分析した行動をとるが、日本人は常に中途半端にて詰めが甘い。そ
の為に、納得のいかない住民とのトラブルが多く、その解決されるべき対処法も遅い)
末盧国→投馬国間水行20日および、末盧国→邪馬台国間水行10日陸行1月は、まぎれもない真実
である。奈良県桜井市を邪馬台国とすれば、大阪駅経由(山陽本線)にて、下関まで鉄道距離で約60
0kmである。これを、その当時の1里=434.16mで割ると、600x1000/434.16≒1,382里
である。邪馬台国までの陸行30日は1日の行程を50里とすると、30x50=1,500里となりオーバ
する。1日の行程を40里とすると、30x40=1,200里である。 下関から山陽本線(上り)にて、10
駅目にある防府は奈良県桜井市から、513.3km(1182.3里)であり、ここら当たりが水行から陸
行に移行する上陸地点であると考えられる。この上陸地点に向かって、末盧国から1日40里にて、海
岸に沿って、水行10日かかるが、10x40x434.16/1000=174kmである。この距離であれば
十分上陸地点に到達できると考えられる。実距離においては、1日当たり水行40里、陸行40里でも
よさそうである。投馬国は水行20日だから、20x40x434.16/1000=347km。末盧国から出
雲(鳥取県)(投馬国)まで、海岸に沿って楽々到着できる。
末盧国放射行程説を採用し、中国大陸の1日の里程(陸行、水行)50里をそのまま適用すると、帯方
郡→邪馬台国間は1万2千余里(魏志倭人伝)も、実にうまく説明できるが、これが邪馬台国の行
程の解釈に翻弄される原因の1つである。この説を採用すると、投馬国と邪馬台国は並列であるから、
邪馬台国を奈良県桜井市(瀬戸内海側経由)とすると、投馬国は出雲(日本海側)か、四国側でなけれ
ばならない。
倭人の陸行は、中国大陸の1日の里程をそのまま適用することはできない
魏志倭人伝は、佐賀県の吉野ヶ里遺跡にみられる景観を仔細に記している。これは、北九州に中国
人使者が実際に立ち寄ったことを意味している。しかし、邪馬台国への行程にて、水行10日から陸
行1月への上陸地点の地名がない(仔細ではない)ところから、中国人使者が邪馬台国へ行かなか
ったことが解る。ところが、陸行については、1日当たり30里とか50里というように中国大陸の里程
をそのまま当てはめることは出来ない。なぜならば、中国大陸では、荷物の運搬には必ず、馬、驢馬
(ろば)が利用されるが、日本では、魏志倭人伝にも示される通り、「その地には、牛馬・虎豹(こひ
ょう)・羊鵲(ようじゃく)無し、兵には矛盾(たてほこ)・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭
(せん)は或いは鉄鏃(てつぞく)、或いは骨鏃(こつぞく)なり、有無する所は・耳(たんじ)・朱崖(しゅ
がい)と同じ。」とあり、すべてが人力でありその差は大きいと言わざるを得ない。もしかすると、1日当
たり10里だったかも知れないし5里かも知れない。(・耳・朱崖とはベトナムの東、トンキン湾に浮か
ぶ海南(ハイナン)島)
帯方郡→狗邪韓国、7千余里は、1402年、明の建文4年に朝鮮で刊行された混一疆理歴代国都之
図(こんいちきょうりれきだいこくとのず)を見ると、朝鮮半島の東西南北が日本に較べて異常に大き
い。魏志東夷伝によると、「韓は帯の南にある。東および西は海で限られ、南は倭と接している。方4
千里可(ばかり)」とある。方4千里とは、帯方郡(仁川)以南、現在の韓国(北朝鮮を除く)において、
南北4千里、東西4千里を意味する広大な領域にて、帯方郡(仁川)から海岸に沿って南下4千里地
点を東へ3千里の所が狗邪韓国(釜山)であると魏志倭人伝は記している。

日本の本州が南を向いている明代の混一疆理歴代国都之図(朝鮮 権近作)(右地図では会稽の東
冶
は、赤英字Bの泉州路辺り、赤英字A,B,Cは筆者が付けた。A(慶元路),B(泉州路),C(佐渡))
狗邪韓国→末盧国、3千余里は上記、同地図、混一疆理歴代国都之図によれば、おおよそ、慶元路
(赤英字A)→泉州路(赤英字B)間が3千里ではないかと思われる。魏志倭人伝は、「其の道里を計る
に当(まさ)に会稽の東冶(とうや)の東に在るべし」という引用節がある。日本の位置は会稽の東冶(
地図では泉州路(赤英字B)、実際は会稽郡にある26県の一つで、福建省福州を中心とする地域)の
東方向の大海の中にあると指摘している。其の道里を計るとは、どこの道里を計るかである。
おそらく、上述の大陸の慶元路→泉州路間が3千里であり、それを狗邪韓国→末盧国に平行移動し
て対馬国、一支国にて、3等分したと考えられる。すなわち、大陸間、3千里を基にして、狗邪韓国→
末盧国間の道里を計算していくと、日本は会稽の東冶の東方向の海域辺りに予測することができると
いうことを示唆している。混一疆理歴代国都之図の地図によれば、日本が朝鮮半島から台湾辺りまで
離れていることが示されている。またその地図では日本の本州が南に描かれている。里程および地形
においては、当時は上地図のように考えられていたことが解る。(狗邪韓国(釜山)は北緯35度である
ほぼ同緯度にある中国内陸部の洛陽から北緯28度の長沙まで、略直線的に南下、その当時の距離
にて2,800里である。正確な地図では、会稽の東冶は福建省福州であるが、福州は約北緯26度で
あるから、釜山(狗邪韓国)から福州(会稽の東冶)まで、緯度的に、3,000余里である確度は高い)
日本の情報は当時の倭人に聞いて、この地図を作成したと考えられるので不確かさな情報である。
これに対して、日本の位置が現在の地図の位置とさほど変わらない地図(これも混一疆理歴代国都之
図という)も存在しているが、これは中国人自身が作成した正確な地図であると考える。
なぜ倭国は会稽の東冶の東なのだろうか。奴国または伊都国から中国には、船で九州沿岸を南下し
て、島伝いに琉球、沖縄、石垣島、台湾を経て会稽の東冶に入るル−トで、その昔、金印を授受され
ていた、奴国王の時から続いていると考えられる。そのル−トは実際は湾曲しているが、日本人が直
線的であると錯覚していたので、逆に会稽の東冶から見ると真東から日本人が来ているように見えた
と思われる。
帯方郡→狗邪韓国(7千余里)と狗邪韓国→末盧国(3千余里)、併せて1万里余里は、混一疆理歴代
国都之図の地図からも解るように、当時はこの極東地域はこのように考えられていた常識であったの
である。したがって、この前例を覆すわけにはいかなっかたので、魏志倭人伝による倭国への使者、
武官の梯儁(ていしゅん)、次使の張政(ちょうせい)等の報告をそのまま採用することはできなかった。
北九州から畿内への方角は北東であるが、その当時は南と思われていたので、真実から約135度ず
れていたことになる。常識と言われているものは、現在でも真実と180度ずれていることから、当時と
しては、妥当なところではないかと考える。エントロピ増大の法則から、常識は「情報量が何もない」す
なわち、ガラクタ情報の類である。科学者も研究者も相手にしない常識を逸脱しないとあらゆる問題は
解けないのである。もし正確な情報を知りたければ、一般人ではなく、学者に聞かなければならない。
ただし、一般人を対象とするときは、この常識(うそ)も含めて考えなければならない。
今、魏志倭人伝に記されている北九州の国々を以下のように設定して、距離関係を考えてみる。
末盧国(佐賀県呼子)⇒唐津平野右岸の宇木汲田(うきくんでん)遺跡や左岸の桜馬場(さくらのばば)
遺跡など(上陸地点が佐賀県呼子)。いずれも佐賀県。
伊都国(福岡県、前原地方or深江地方)⇒旧伊都倭国の王都、三雲遺跡群(怡土(いと)郡前原市)
or深江井牟田遺跡
奴国(那珂地方)⇒博多湾に近い「儺(な)」のクニの那珂・比恵遺跡群、博多遺跡群、西新遺跡など、
奴国の中心は、福岡県春日市の須玖(すく)遺跡群
不弥国(新宮町)⇒宗像市の園遺跡や久原滝ヶ下(くはらたきがした)遺跡などの「胸肩(むなかた)」
or新宮町三代遺跡などの「粕屋(かすや)」、いずれも福岡県。
距離関係
末盧国(呼子)→水行(潮の流れが速い)にて、糸島半島西浦まで約30km(1日)→西浦から奴国(博
多湾那珂川河口)まで、水行で約22km(1日)とすると、末盧国(呼子)から奴国(博多湾那珂川河口)
へ至るに東南へ2日(100里)である。(糸島半島西浦は福岡県)
末盧国(呼子)→水行(潮の流れが速い)にて、糸島半島西浦まで約30km(1日)→西浦から不弥国
(新宮町(粕屋))まで水行で25km(1日)とすると、末盧国(呼子)から、東行2日(100里)で不弥国
(新宮町(粕屋))に至る。
末盧国(呼子)→陸行にて東南伊都国(福岡県深江地方)まで約40kmを10日かかったとすれば、1
日当たりの平均行程距離は4kmである。伊都国(福岡県深江地方)から、奴国(博多湾那珂川河口)
まで約30kmを4kmで割ると、7.5日である。伊都国(福岡県深江地方)から、奴国(博多湾那珂川
河口)まで、陸行にて8日かかることになる。すなわち、末盧国→水行(2日)→奴国経由陸行(8日)→
伊都国まで10日かかる。伊都国へは末盧国から全陸行のルートと奴国経由のルートが在るが、どち
らも10日を要する。中国人使者が最初に訪れるのは、伊都国であるので、陸行(10日)にて伊都国
へ迎え入れたと考えられる。魏志倭人伝には、末盧国は「山海に浜いて居て、草木茂盛し、行くに前
人を見ず」という一節があるがごとき、相当のジャングルであったと推測されるので、1日当たり、平均
4kmしか進めなかったのではないのだろうか。また、「唐六典」によれば、重船、空船にて川の流れに
順する場合は、1日当たり70里(約30km)、重船にて、川の流れに遡る場合、1日当たり45里(約2
0km)である。奴国→末盧国と不弥国→末盧国に至る復路は、重船により、潮の流れが逆だから、少
なくとも往路の1.5〜2倍はかかったと考えられる。(わざわざ陸行と明記している伊都国は、使者が
倭を訪問した時は、必ず常駐することになっているので、行きたくなくても行かなければならない)
不弥国(東行2日)
末盧国(佐賀県呼子)→糸島半島西浦(水行約30km(1日))→新宮町(粕屋、水行約25km(1日))
\東南陸行10日(約40km) 東南2日\(水行約22km(1日))
伊都国(糸島郡、筑前深江駅)←陸行8日←奴国(博多湾那珂川河口or博多駅)
(約30km)
上記、末盧国から伊都国まで、陸行の1日当たり平均、4km(10里足らず)しか進行できなかった
とすれば、1か月で30x4=120kmである。これを畿内に当てはめると、山陰経由では、京都府の東
舞鶴(舞鶴線)(上陸地点)→奈良県桜井市(邪馬台国)まで、山陰本線、奈良線、桜井線鉄道距離で
164.0kmである(1.4か月)。瀬戸内海経由では兵庫県の加古川(上陸地点)→奈良県桜井市(邪
馬台国)、大阪駅経由鉄道距離120km(1か月)となる。これらの上陸地点まで、九州の博多湾から
水行10日で到達するのは無理である。すくなくとも、30日はかかると考えられる。すなわち、実距離
においては、水行20日+水行10日は必須不可欠である。そして陸行は約10里以下である。
山陰経由では、九州の博多湾(または末盧国)→水行20日、投馬国(出雲)→水行10日、若狭高浜
(上陸地点)または瀬戸内海経由にて、九州の博多湾(または末盧国)→水行20日、投馬国(吉備地
方、岡山)→水行10日、加古川(上陸地点)とすれば、十分可能である。
「後漢書」の南蛮伝、大将軍従事中郎の李固駮(りこはく)は「軍行は30里を程と為(な)す」と言って
いる。重装備による軍行は、1日30里を標準とすると言うのであるが、大陸(中国)の場合は、馬、驢
馬(ろば)に荷物を負わすのであるが、その当時の日本では馬、驢馬は使用せず、植生もジャングル
状態であったと考えられるので、重装備のすべてが人海戦術(人力)の編隊ではなかったかと思う。
末盧国、伊都国間は10日分の食料とか献上品、その他諸々の荷物などの運搬が主であったと思わ
れるが、1日当たり平均、約10里である。30日分の食料を含む荷物を運搬する場合はどうだろうか
例えば米俵、1俵(60kg)〜1.5俵(90kg)を背負って、1日当たり平均どのくらい歩けるだろうか。
もしかすると、約4.6里(2km)または約3.5里(1.5km)だったかも知れない。すると、1か月の行
程は1.5km(2km)X30=45km(60km)である。3世紀頃の大阪湾は難波から生駒山の西、日
下(くさか)の辺りまで河内湖(入り江)が在ったと推定されているが、その日下の津から、国道170号
線を南下、途中大和川に合流して、その大和川に沿って、更に大和川から初瀬川に分岐されるも、そ
のル−トを辿って奈良県桜井市(邪馬台国)まで行ったとすると概略50kmである。この河内を上陸し
て奈良県桜井線朝倉駅(邪馬台国)まで、約1か月を要したとも考えられる(現在地形による)。
弥生時代の食べ物は、米、麦、粟(あわ)、稗(ひえ)などの穀類が中心であったと考えられるが、これ
らの穀類を米に換算して表した場合、すなわち、米(玄米)を主食とした時の、1人当たり1年間で食べ
る量は1石(いっこく)(150kg)である。
1日当たりでは、150kg/365日=0.41kgであるから、0.41kg/0.15kg(1合)≒2.7合とな
る。10日では0.41kgx10=4.1kg、1か月では、3x4.1kg=12.3kgである。
米だけを考えれば、各人がそれぞれ荷物を運ぶとすると、それほどでもないと思われるが、献上品や
その他諸々の公私の荷物があり、おそらく生口(奴隷)に運搬させていたと仮定すれば、牛馬と同様
に過酷な荷物が背負わされているので、荷物全体を米の重量に換算させた場合、米俵、1俵(60kg)
〜1.5俵(90kg)を背負って歩くのと同じではないかと推測するのである。そして、道路は整備されて
いないので、「禽鹿(きんろく)の径(こみち)の如し」、すなわち獣道で、アップダウンが激しく、ジャング
ルであるので登山道に等しい。雨が降った時はどうするか、山小屋が在ったかどうか、おそらく存在し
ていたと思われるが、末盧国から伊都国間は約4km毎に、河内港津から邪馬台国までは宿場が、約
1.5km〜2km間隔に配置されていたと推測する。末盧国から伊都国間は、海岸沿いを進行するの
で、海岸には必ず川が流れているゆえ水の心配はないが、大阪河内港津から内陸部に進む場合は、
水をいかに調達するかが問題である。上記では、大和川沿いを歩行することで解決はできるが、他
のル−トにおいても、宿場にて完全に水の調達ができれば、河内潟入り口の港津を難波として、国道
26号線を南下、堺市戎島町経由、@ 堺大和高田線、国道25号線(奈良街道、龍田道含む)、国道
24号線(中街道)のル−トにて、奈良県桜井
線朝倉駅(邪馬台国)まで約60kmである。また、A 竹
内峠経由の場合、難波→堺大和高田線、国道166号線(竹内峠越え含む)国道24号線ル−トによる
奈良県桜井線朝倉駅(邪馬台国)まで約54kmとなる。(現在地形)
米俵、1俵(60kg)〜1.5俵(90kg)を背負って100m歩くにも、極めて重労働である。1日の移動時
間は、現在の時刻で午前9:00〜午後3.00の6時間にて、その内、昼食2時間、休憩時間2時間と
考える。1日の歩行時間を2kmとして、1分間に歩く距離は、2km/2時間=16.666m/分である
から、100mを6分(100m/16.666m=6分)かかることが解る。したがって、例えば、100mを
平均6分歩いたら、平均6分休憩をするという方法で歩行して行ったと推測する(この100mの道路条
件は極めて悪い)。当初は、荷物の重量条件にて宿場間隔が決まったのがだんだん習慣化されて荷
物の重量には関係なく、その場所にて宿泊するため宿場が設けられたと考えられる。
水行については、1日当たりの行程は、40里〜50里がそのまま適用できると考える。50里を用いた
場合、水行20日は、20x50x434.16/1,000=434kmである。10日は434/2=217kmと
なる。九州の博多湾から、大阪湾の河内港津まで、水行30日(434km+217km=651km)にて
到達できると推測する。したがって、不弥国(粕屋)→投馬国(岡山県吉備)間、水行20日。投馬国
(岡山県吉備)→上陸地点(河内港津)間、水行10日。上陸地点(河内港津)→邪馬台国(奈良
県桜井市)間、陸行1月の行程が順当となる。
中国宋代の類書、太平御覧(たいへいぎょらん)には、倭人伝について、後漢書、魏志、唐書が示され
ているが、この中で、魏志倭人伝による帯方郡から邪馬台国までの道程に関する引用節を抜粋する
と次の通りである。
@ 「帯方より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(へ)て、乍(たちま)ち南し、乍
(たちま)ち東す。其の北岸狗邪韓国(くやかんこく)に至るには七千余里なり」
A 「対馬(つしま)国に至るには、戸千余里」⇒「千余里」にして、「千余戸有り」の誤り
B 「又、南一海を渡る一千里、名付けて瀚(かん)海と曰う。一支(いき)国に至る」
C 「又、海を渡ること千余里、末盧(まつら)国に至る」
D 「東南、陸行五百里、伊都(いと)国に至る。帯方使、往来するに常に駐(とど)まる所なり」
E 「又、東南、奴(な)国に至るには、百里」
F 「又、東行百里、不弥(ふみ)国に至る」
G 「又、南水行二十日、投馬(とうま)国に至る」
H 「又、南水行十日陸行一月、邪馬台国に至る。戸七万、女王の都(みやこ)する所なり」
I 「帯方より女国に至るには万二千余里なり」
A 「対馬(つしま)国に至るには、戸千余里」の戸千余里は戸千余の誤り、魏志倭人伝の千余戸で
あり、また、始めて一海を渡る千余里の意味である。しがって、Aは「始めて一海を渡る千余里
対馬(つしま)国に至る」である。
E 「又、東南、奴(な)国に至るには、百里」のみが「〜に至るには」とニュアンスが異なる引用であ
るから、末盧国→伊都国と末盧国→奴国のみがパラレル(平行)行程である。太平御覧による
行程を図示すると下記の如くである。
太平御覧の行程
帯方郡
↓
7千余里→ 狗邪韓国
↓1千余里
対馬国
↓1千余里
一支国
↓1千余里
末盧国(4千余戸)→
東南陸行5百里\ 東南百里\ 東行百里
伊都国(千余戸) 奴国(2万余戸)→不弥国
(千余家)
水行20日↓南
投馬国
(5万余戸)
水行10日陸行1月↓南
邪馬台国
↓
(7万余戸)
万2千余里
太平御覧による行程(末盧国→邪馬台国間)
2千里=100里+100里+水行20日+水行10日+陸行1月⇒2千里−(100里+100里)/(20
日+10日+30日)=1,800里/(20日+10日+30日)=30里/日である。
実際の末盧国から邪馬台国までは、下記の通りに考える。
末盧国(佐賀県呼子)→糸島半島西浦(水行約30km(1日))
\東南陸行10日(約40km) 東南2日\(水行約22km(1日))
伊都国(糸島郡、筑前深江駅)陸行8日← 奴国 →東陸行2日不弥国(粕屋町、門松駅)
(博多湾那珂川河口or博多駅) ↓
多々良川を下り博多湾へ
↓水行20日
投馬国(岡山県、吉備)
↓水行10日
日下津
河内港津(上陸地点、難波津)
↓陸行1月
邪馬台国(奈良県桜井市)
太平御覧に記載されている魏志倭人伝の道程は、1か所だけがパラレル(並列)で、その他はシリ−
ズ(直列)行程であるが、これは3世紀の魏志倭人伝(4か所パラレル(並列))を参考にした結果であ
ることから、文面のニュア
ンスの違いによる「〜至る」と「〜に至るには」は同様と解釈できる。したが
って、3世紀の魏志倭人伝は、すべてが直線状行程と考えて差し支えないと判断する。ここで、伊都国
の到着点を筑前深江駅
から筑前前原(まえばる)駅へ変更するので、末盧国(佐賀県呼子)→伊都国
(筑前前原(まえばる)
は約50Kmとなる。また、不弥国を粕屋から穂波町と飯塚市へ変更する。すな
わち、末盧国からの
直線状行程を次のように設定する。
末盧国(佐賀県呼子)
\東南陸行10日(約50km)
伊都国(福岡県糸島郡、筑前前原(まえばる)駅)
\東南2日(約20km)
奴国(博多駅)→東行2日不弥国(博多駅→篠栗(ささぐり)線桂川(けいせん)駅、穂波町約
27Km、立岩遺跡(飯塚市)より遠賀(おんが)川を下
り玄界灘(げんかいなだ)へ)
↓水行20日
投馬国(岡山県、吉備)
↓水行10日
河内港津(上陸地点、日下津or難波津)
↓陸行1月(約50〜60km)
邪馬台国(奈良県桜井市)
食料は、その当時、危機管理があったかどうかは定かではないが、予備食も含めて10日の場合は
10日分、30日の場合は、30日分という表現を用いた。単純に考えると、10日分が5km/日(11.
5里/日)であると仮定すると、30日分は5kmx10/30≒1.66km/日(4里/日)である。また、
2日分の場合は、5kmx10/2=25km/日(58里/日)とはならない。最高が50里/日だから、
2日分は50里/日(21.7km)である。
以上より、道路条件も加味して、陸行を次のように設定した。(隊列一行の人数を同じとした場合、又
移動時間は、6時間(時刻、9.00〜15.00)、その内、昼食2時間休憩(時刻、11.00〜13.00)
とする。危機管理は充分あったとして、行程日数の倍の食料を持ち運び、5人1組、役人または来客
人3人に対して生口(せいこう)(奴隷)2人の割合である。1人1日当たり食料の米(玄米)の重さは、
0.4kg(約2.7合)として、隊列合計の人数は、食料以外の荷物が如何ほどかによって定まる。役人
または来客人は何も運ばない。食料30日分については、昼食2時間+その他2時間の休憩あり)
☆食料10日分⇒平均5km/日(11.5里/日)(10日で50km歩行)
(生口、1人当たり初日運搬負荷、食料20kg(2.5人分)+荷物20kg=40kgと仮
定、1日移動時間4時間、平均速度、100m当たり、4.8分)
☆食料30日分⇒平均1.66〜2.0km/日(3.8里〜4.6里/日)(30日で、50〜60km歩行)
(生口、1人当たり初日運搬負荷、食料60kg(2.5人分)+荷物20kg=80kgと仮
定、1日移動時間2時間(午前と午後各1時間休憩あり)、平均速度、100m当たり、
7.2〜6.0分)
☆食料 2日分⇒平均10〜15km/日(23里〜34.5里/日)(2日で20〜30km歩行)
(生口、1人当たり初日運搬負荷、食料4kg(2.5人分)+荷物20kg=24kgと仮
定、1日移動時間4時間、平均速度、100m当たり、2.4〜1.6分)
(これらの行程において、警備上の理由により、目的地に到達するまで食料の補給は一切ない)
末盧国(佐賀県呼子)→伊都国(筑前前原(まえばる)約50kmと畿内の上陸地点である河内港津、
日下津→邪馬台国間(奈良県桜井市)は略50kmであるが、前者(九州)と後者(畿内)の場合の条
件が全く同じであれば、後者(畿内)でも10日で完歩できるはずである。また、上陸地点、難波津→
邪馬台国間も略60kmであるから、60km/5km=12日、すなわち半月もあれば、邪馬台国へ到
達できていることになる。しかし、実際は30日かかると言うことは、その条件が著しく異なっているこ
とを示唆している。それは、地形的か、気象条件か、政治、宗教上(神聖)の理由なのか、地形とか気
象条件の場合は、その当時2世紀後半から3世紀(邪馬台国時代)にかけて、気象は寒冷時期であっ
たとされていて、特に畿内では、干ばつや大洪水による遺跡の放置が見られるとの見解もあるが、地
形や気象条件は全国的共通要因であり、それほど著しい差は無いと思われるので、政治、宗教上に
よるものではないか考えるのである。
(古事記は太陰暦(1か月→30日)を採用しているが、日本書紀は太陰暦と日本の古代暦が併用さ
れていたらしい。古代暦とは、1か月が15日の暦である。これは新月→満月→新月の1か月→15日
の月の満ち欠けの周期によるもので、1年は24か月と日の端数がある。1年の中に前のトシと後のト
シがあり、前のトシは冬至から夏至まで、後のトシは夏至から冬至までである。だから、寒い6月と暑
い6月があらわれる。古代暦の1トシは太陰暦の半年である。推古時代には、まだ太陰暦に統合され
ていなかった(魏志倭人伝の虚構と真実 李家正文著 泰流社)。邪馬台国の時代に、この古代暦が
使用されていたかどうかであるが、もし、そうであれば、難波津→邪馬台国間、60km/5km=12
日と生駒山地か金剛山地の峠越えを考えると、2、3日多くかかることを加味すれば、15日前後とな
り1か月である。ただし、魏志倭人伝の裴松之の註に、「倭人は正歳四時を知らず、ただし、春耕秋
収を記して年紀となす」とあり、四季も8節(冬至や夏至)も知らないのである。したがって、春耕秋収
を如何に解釈するかである。前のトシの春に種まきをして、後のトシの秋に収穫をすることによって1
年としたのか、日本独自の古代暦を用いたかに関しては非常に微妙である。何故ならば、水行20日
は、1月と5日を中国人が日数に換算した結果なのか、それに、1月は15日であるという説明を忘れ
たのか定かではないからである)
「其の国、本(もと)亦(また)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相(
あい)功伐(こうばつ)して年を歴(ふ)。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて、
卑弥呼(ひみこ)と曰(い)う。鬼道(きどう)を事とし能(よ)く衆を惑わす。年(とし)已(すで)に長
大なるも夫婿(ふせい)為し。男弟有りて佐(たす)けて国を治(おさ)む。王と為りしより以来見る
有る者少なく、婢(ひ)千人を以(もっ)て自ら侍(じ)せしむ。唯(ただ)男子一人有りて飲食を給し、
辞を伝えて出入す。居処は宮室・楼観(ろうかん)・城柵(じょうさく)厳(おごそ)かに設(もう)け、常
に人有りて兵を持して守衛す」
という魏志倭人伝の一節より、女王卑弥呼は、「鬼道(きどう)を事とし能(よ)く衆を惑わす」、シャ
−マン
であることから、「男弟有りて佐(たす)けて国を治(おさ)む」、男王(男弟)の政治の決定も
呪術的占いにより予言していたと考えられる。すなわち、卑弥呼(女王)は呪術的予言を、男王(男弟)
は祭と政(まつりごと)を担当していた政教分離の体制を確立していたと仮定すると、日下(くさか)の津
または、難波津から邪馬台国までの道路は、特別な時、魏からの贈り物や親魏倭王の金印紫綬を仮
授された場合に発生する行程である。ここは神聖な道筋であると同時に、非常に祝福すべき道のりで
もある。政治を司る男王(男弟)にとっても、この祭典(Festival)を主催する義務がる。沿道両側には
民衆の観客者が、その中央を政府側関係者と軍隊、それに巫女(みこ)との合同による隊列の編成に
て、時々、歌舞などの振る舞いもあったと思われるが、1日当たり、1.66〜2kmを30日かけて、邪
馬台国まで歩行して行ったと推測するのである(江戸時代の参勤交代による格式に則った大名行列
のように)。
そして、この河内港津→邪馬台国間の道路は、ゴル−デン・フェスティバル・ロ−ド(The
Golden
Festival Road)として整備されていて、食量は、大人数分であるが、各宿場にて用意され
ていたか、
あるいは、警備上の理由により、上記に述べた通りに30日分を持ち運んだと考えられる。
祭祀の日時も占いにより決定し、その日が晴れ着を装う晴れの日とすれば、晴れ事以外の日、褻(け
)(普段の日)においても、このル−トを通る時は、神聖であるので、30日をかけて邪馬台国まで行く
義務があったか、習慣的に30日だったかである。そして、この行程は、祭祀と通行による安全祈願
を担う銅鐸が、宿場や遺跡、または、この道路沿いの特定個所(占いで決められた場所)に埋めてあ
ったと思われる。銅鐸は家内、部落、地域の安全と豊穣祈願の役割を果たしていたと考えられる。
(巫女(女性)が晴れ着を装って歩く距離が1日当たり、1.66〜2kmにて、これに歩調を合わせた)
(蛇足)
投馬国を島根県の出雲とした場合は、京都府舞鶴湾の東舞鶴(舞鶴線)(上陸地点)→奈良県桜井
市(邪馬台国)まで、山陰本線、奈良線、桜井線鉄道距離で、164.0kmであるから、164.0km÷
50km=3.28であり、末盧国(佐賀県呼子)→伊都国(筑前前原(まえばる)約50kmの10日を基
準にすれば、3.28x10=32.8日(約1か月)である。(ただし、10日毎に食料を要補給)
帯方郡→邪馬台国間は1万2千余里(魏志倭人伝)の根拠
帯方郡→末盧国間は既に、この魏志倭人伝に示される通り、1万余里である(帯方郡→狗邪韓国
間、7千余里と狗邪韓国→末盧国間、3千余里も机上的に求めている)。末盧国→邪馬台国間2千
余里の根拠が無いのである。「隋書」巻81、東夷伝の倭国伝(656年)は、日本について、次のよう
に記している。
「倭国は百済、新羅の東南に在り、水陸三千里、大海の中に於いて、山島に依りて居る。−−−夷人
は里数を知らず、但だ計るに日を以てす。其の国境は東西五月行、南北三月行にして、各おの海に
至る」。あるいは、16世紀頃に刊行された専門的日本研究書、「日本考」では、
「日本、古の倭奴国なり、山島に依りて城邑を為す。百済、新羅の東南に在り、地形は琵琶に類し、
東高くして西下る。東西数千里にして、南北数百里なり」とあるように、中国人は、古より日本は東西
が長く、南北は短いと認識されていた。魏志倭人伝に記されている次の一節、「倭の地を参問するに、
海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なり、周旋五千里可(ばか)り」とは、東西を意味し、周遊の
旅、往路、最大2,500余里、復路、最大2,500余里と考えるべきであろう。そして、狗奴国が邪馬
台国より遠いことを加味して、遠絶な邪馬台国を最大限2,000余里としたのではなかろうか。また、
仮に、倭の地を南北に周旋五千里可とした場合でも、この法則は適用できる。「この2千余里が机
上論である所以である」。末盧国→邪馬台国の内、実際に中国人が訪問した、伊都国、奴国、不
弥国までの距離は1日当たり50里を適用しているが、それ以降、邪馬台国に至るのに日数で示して
いるのは、1日当たり50里を適用すると、最大2,000余里をオ−バするのと、邪馬台国への日数は
1日の里数が少ないと考えたので、(下記に示すように、22里/日とすると、中国の前例に合わない)
日数を使う以外に方法はなかった。とにかく、末盧国→邪馬台国間は、最大2,000余里としたので
ある。すなわち、末盧国→伊都国(陸行500里)+奴国(100里)+不弥国(100里)+投馬国(水
行20日)→邪馬台国(水行10日+陸行1月)≦2,000余里である。(上記、東夷伝の倭国伝(656
年)による、水陸三千里、「日本考」による「東西数千里にして、南北数百里なり」から推測すると、日
本は、東西2,500里〜3,000里と考えられていたのではないだろうか)
末盧国→不弥国(700里)は700里/14日=50里/日であるが、不弥国→邪馬台国が1,300
里/60日≒22里/日となるのである。通算では、2,000里/74日≒27里である。
上記、「日本考」に於いては、「−−−、南北数百里なり」だから、邪馬台国が南2,000余里に位置
することは、甚だおかしいと言わざるを得ない。中国人は、古の時代から、上記東西の方が南北より
長いと考えていたので、中国人が作った日本地図(混一疆理歴代国都之図)の位置は、現代とさほど
変わらない正確な地図ができあがったのであろう。魏志倭人伝にも、「倭人は、帯方の東南、大海の
中に在り、山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す。−−−−−」とはっきり記している。上地図
の混一疆理歴代国都之図(日本の本州が南を向いている地図)では、日本の位置は、「倭人は、帯
方の南、大海の中に在り、山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す。−−−−−」とすべきである
したがって、中国人は当初から、日本の本州が南を向いている混一疆理歴代国都之図などは信用し
ていなかった。しかし、日本人が邪馬台国は南であり、また、日本(奴国王時代の博多湾)から中国
本土の会稽の東冶へは真東より直線的にやって来ているのだと、机を叩いて頑固に主張するから、
仕方なく、机上論によるこの地図を作成したと考えられるのである。間違っている人ほど鼻息が荒
い、「無知なる者は強し」というところでしょう(例えば、銀行強盗がピストルを構えたとき、そのピスト
ルをおもちゃと感じた者は、高圧的に銀行強盗に迫って行くが、軍隊経験があり、ピストルを本物と悟
った者は、おとなしくしているはずである。知識が豊富な者は騒がず、無知なる者は、強く、鼻息が荒
いというのが世の常である。上述の年金保険料未払いの時にも、この己の無知という原因が関係して
いる)。真東かどうかは、日本人は解らなかったが、日本(博多湾)から島伝いに琉球、沖縄、石垣島、
台湾を経て直線的に会稽の東冶に入っているということを、日本人から聞いて、中国人が真東と判断
したのであろう。日本人は、とにかく、科学的根拠(東西南北)がなくとも直感(感情論)で行動する民
族であることを忘れてはならない。
(混一疆理歴代国都之図には、日本の本州が南を向いている地図と現代とさほど変わらない正確な
日本地図の2種類がある。前者は日本人に聞いて作成した地図で、後者が中国人が作った地図で
あると考える。前者では、北九州が韓国側を向いていようと、東方向であろうと、日本人にとっては、
もともと東西南北は解らないので、どうでも良いことである)
以上のように、魏志倭人伝の記述は、上地図、混一疆理歴代国都之図(日本の本州が南を向
いている地図)に類似していて、日本の正確な位置は示しながらも、倭人の主張を重んじ、中国
人が考えている、日本の本当の地図(混一疆理歴代国都之図)を用いなかったことが解る。もし
邪馬台国が九州説のように北部九州の南にあると仮定した場合、上記の日本の本州が南を向
いている地図がなぜ存在していたのかの理由が解らない。また、そのような地図を作る必要も
ないはずである。少なくとも、このような地図が現存していたということは、それなりの理屈、すな
わち、哲学があったはずである。誰にも想像して描くことのできない、この地図が現存することは
非常に確率が小さく(エントロピは小さい)、情報量は極めて大きいと言わざるを得ない。
情報量が大きいとは、確率が小さい(エントロピ小)ことであり、逆に、情報量が小さいとは、確率が大
きい(エントロピ大)ことをいうのである。ジャンボ宝くじ1等(2億円)に当たる確率は非常に小さいが、
情報量は最も大きく、300円が当たる確率は最大で、情報量は最低(カス)である(1等の当確番号
の情報は、のどから手が出るほど欲しいが、300円が当たった番号の情報はどうでも良い)。下記に
示すような日常の状態の場合は、左側が情報量が大きく、右側は情報量が小さい。
情報量大 情報量小
(あ!と驚く時) (きわめて当たり前(常識的)で、努力の跡が見られない時)
1.ガスレンジ上のやかんが沸騰している部屋 ガスレンジ上のやかんが冷めている部屋
2.勉強(努力)している(一日一善など)
テレビゲームなど、一般に遊びをしている
3.整理整頓され部屋がきれいである 部屋が汚い(ガラクタだらけである)
4.特ダネのニュ−ス
ありふれたニュ−ス
5.笑いを誘うギャグ
寒いギャグ
6.事件が起きたが犯人の目撃者あり 事件の犯人の目撃者なし(予測が不確実)
(でっち上げ、イカサマ(うそ)含む)
7.日本の本州が南を向いている地図 現代とさほど変わらない正確な日本地図
(でっち上げ) (混一疆理歴代国都之図)
混一疆理歴代国都之図にて、日本の本州が南を向いている地図(上図)を見られた方は、このような
地図が存在していることに、「あ!と驚かれた」と思う。これは、エントロピ増大の法則による情報論に
よれば、情報量が非常に大きいことを意味しているのである。したがって、情報量の大きいこの地図
(上図)をなぜ採用したかについて充分に解って頂けたかと思う。
でっち上げとは、小説、ドラマ、映画、演劇、漫才、落語、絵画、音楽などのように人が創作したもので
あるが、最大のイカサマ師(トリック)はマジシャンである。しかし、彼らは人々に感動を与えてくれる。
それに対して、同じく情報量が大きい詐欺師は人を奈落の底へ突き落とすという違いがある。詐欺師
はマジシャンか創作物を会得すべきである。そうすれば、自由に嘘が述べられ、人の役に立つ。人は
多かれ少なかれ嘘をついている。それは本音より立て前で行動していることが多いからである。
ところで、自由とは、日本国憲法で次のように制限されているので注意を要する。
第3章 国民の権利及び義務
第12条 [自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止] この憲法が国民に保障する自由及び権利
は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはな
らないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
という条文により、個人は自由と権利の濫用を慎まなければならない。ただし、他人のためであるなら
ば、いくらでも、自由を行使しても良いことを意味している。すなわち、一日一善である。この一日一善
を心がけることによって、ガンや糖尿病など、あらゆる病気を防止するDNAの健康遺伝子が働くこと
が、最近の研究で明らかにされた(詳しくは、日本テレビ、おもいっきりテレビへ)。殺人罪や詐欺罪は
自由濫用罪(自己中心的)であり憲法違反である。人は、他人のため生きることによって、健康で長生
きできるようにDNAが設計されているらしい。国民すべて、一日一善のように公共の福祉のため(他
人のため)に働くことによって、寝たきりにならず、健康に生きる義務を負う。これが、国民の不断の
努力目標である。「人に優しく自分に厳しい」という自覚をもって自由と権利を保持しなければならな
い。絶え間ない努力により(不断の努力によって)、2004年度、最多安打新記録(262)を樹立した、
米大リ−グ、シアトル・マリナ−ズのイチロ外野手こそが、この憲法が掲げる自由と権利の真の意味
に他ならない。エントロピは最も小さく、情報量は最も大きい、人々に最高の注目を浴びる。
社会に迷惑をかける者は、十把一絡げ(じっぱひとからげ)であり、1人1人とりあげるほどの価値の
ないものとしてひとまとめに扱われ、10人集まっても1人前にも満たない。ジャンボ宝くじでは、300
円が当たる価値にしか相当しない。エントロピは最大、情報量は最低−カスである。人々に「馬鹿者
!」とか「あほたれ!」、または「ちくしょう(畜生:けだもの)」とののしられ、一生後ろ指差される。
通常、人はこのように社会に迷惑をかけたりはしない。何故ならば、教養(理性)があるからである。
この教養を身につけさせるために、小学生の頃から徹底的な缶詰教育を実施しなければ、小さい子
供には理解できない。理解力のない小学生に対して自主性を重んじるような教育では、自己中心的
な自由(動物的欲望のみ)と勘違いをすること必至である。最近、青少年や家庭内幼児虐待による
犯罪(自由と権利の濫用)が多発しているのは、このような理由によるものと考えられる。
魏志倭人伝による「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国あり、皆倭種(わしゅ)
なり」は佐渡では?
「後漢書」倭伝では「女王国自(よ)り、東に海を渡ること千余里、狗奴国に到る。皆、倭の種なりと雖
(いえど)も、女王に属さず」とあり、ここも狗奴国の領域の一部であることを暗示している。狗奴国は
邪馬台国より南にあるので、この倭種も邪馬台国より南になければばらない。東側にあって、南に位
置することから東南方向である。倭種が女王に属せば、以北であり、否の場合は、以南である。
邪馬台国を奈良県桜井市とすれば、そこから、佐渡まで直線距離で、約430km(略1,000里)であ
る。日本の本州が南を向いている混一疆理歴代国都之図によれば、邪馬台国(奈良県桜井市)から
東側にあって、南に位置するところ、すなわち、東南方向は佐渡(赤英字C)である。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国あり。皆倭種(わしゅ)なり。又侏儒(しゅじゅ)国
有り、其の南に在り人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里」のように「女王」と、わざわざ
断っている表現の仕方は、邪馬台国を意味し、倭国と同等ではないと考える。倭国には、狗奴国王
も存在し、国を2分していて、もし、狗奴国王が魏に朝献していれば、親魏倭王卑弥弓呼(ひみきゅう
こ)という称号を与えられたはずだから、「倭人は帯方の東南、大海の中に在り」、「倭の地は温暖に
して冬夏生菜を食す」、「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なり、周旋
五千里可(ばか)り」というように、倭国とは、2国王が存在する日本を漠然とした表現方法であり、女
王国=倭国ではない。
魏志倭人伝が示す侏儒国、裸国・黒歯国は、一体どこにあるのだろうか?
狗邪韓国(釜山)を基準にすると、
狗邪韓国→末盧国=南3,000余里(1,302km)(緯度11.72°)(1里=434.16m)
末盧国→邪馬台国=南2,000余里(868km)(7.81°)
邪馬台国→侏儒国=南4,000余里(1,737km)(15.63°)
侏儒国→裸国・黒歯国=東南船行1年にして至るべし=50里x365日=18,250里(7,923km
)(71.31°)(1日の行程=50里)である。侏儒国から角度にして30°東南に裸国・黒歯国が位置
していると仮定すると、18,250里xcos30°=18,250x√3/2≒15,805里(6.862km)
(61.75°)となり、これが南方向の距離となる。以上を合計すると、24,805里(10,769km)
である。
地球上の距離は、ユ−クリッド幾何学(平面)ではなく、リ−マン幾何学であるので、極めて複雑である
が、邪馬台国のみにアクセスしている人もいるので、三角関数もユ−クリッド幾何により求め、日本の
明石、東経135°(ほぼ 邪馬台国の位置(奈良県桜井市は略東経136°)へ狗邪韓国を緯度を固
定して平行移動する。
地球の子午線の全周が40,008.006kmであり、赤道の全周は40,075.161kmである。地球
を完全な球体と考え、全周を40,000kmとして緯度を計算する(1度当たりの距離は、40,000km
/360°≒111.111km、1分当たりの距離は、40,000km/(60x360°)≒1,852m(1ノッ
ト)である。1ノットとは、地球上を角度にして1分移動したことを意味する)。ここで、地球と地図との関
係が出て来たので、ついでに、前の相対性理論との関連を述べる。邪馬台国のみにアクセスしている
人は次の【 】内の相対性理論は無視して先に進んでください。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【特殊相対性理論(慣性系)では、準ユ−クリッド幾何学であることから、地図はメルカトル図法(平面)
を、一般相対性理論(加速度系、重力)では、地球儀によるリ−マン幾何学の曲がった表面を用い
なければならない。東経135°に沿って南下し、子午線上を360°ぐるっと回って元にもどると、必
ず最大距離40,000kmの大円を描く(球を真っ二つに切ったときの最大半径で描く切り口の大円)。
これを一般相対性理論の場合の測地線という。子午線に対しては無数の測地線が存在するが緯度
方向に対しては、赤道が最大距離40,000kmであるから、赤道のみが測地線でその他は測地線
ではない。また侏儒国から角度にして30°東南へ向かう場合も、360°ぐるっと回って元に戻った
時、最大距離40,000kmであれば、測地線であるが、そうでないル−トにて40,000kmにならな
ければ測地線ではない。光はこの測地線に沿って進む。曲がった時空では、ユ−クリッド幾何学(平
面)での最短距離の直線に相当するような測地線という概念がある。一般相対性理論、ブラックホ−
ルのシュワルツシルトの外部解で述べたように、測地線とは、曲がった時空での最大の4次元距離
を表す。そして、測地線に沿った運動が自由落下である。したがって、曲がった空間の個々の局所
慣性系のみを次々に結び、地球では最大半径で描く線を測地線という。
次に、メルカトル図法(平面)上において、直線直交座標であるデカルト座標系(大文字X1、X2を用
いる)から曲線座標系(直線直交しない任意の座標、χ1、χ2を用いる)へ変換した場合、どのよう
になるか考えてみよう。2次元平面上の2点P(X1,X2)、Q((X1+dX1),(X2+dX2))のように非
常に微少区間を設定した時、2点間P,Qの距離(線素)dsの2乗を求めると、ピタゴラスの定理より、
ds2=(dX1)2+(dX2)2である。そこで、デカルト座標系(慣性系)と曲線座標系(加速度系)との変
換による関数関係を、
X1=X1(χ1、χ2)
X2=X2(χ1、χ2)
に与えて、これらを次の通り微分する。(ヤコビアン(関数行列式)≠0という条件を満たすため)
dX1=∂X1dχ1/∂χ1+∂X1dχ2/∂χ2
dX2=∂X2dχ1/∂χ1+∂X2dχ2/∂χ2
(一般式は、dXi=∂Xidχj/∂χj (i=1,2、j=1,2))で表され、∂Xi/∂χjはXiの関数で、座
標変換の変換行列、またはヤコビアン行列という)
となる。この関係を、上式、ds2=(dX1)2+(dX2)2に代入する。
ds2=(dX1)2+(dX2)2=(∂X1・dχ1/∂χ1+∂X1・dχ2/∂χ2)2+(∂X2・dχ1/∂χ1+
∂X2・dχ2/∂χ2)2
である。この式を展開して、整理する。
ds2=((∂X1/∂χ1)2+(∂X2/∂χ1)2)(dχ1)2+
2((∂X1/∂χ1)(∂X1/∂χ2)+(∂X2/∂χ1)(∂X2/∂χ2))dχ1dχ2+
((∂X1/∂χ2)2+(∂X2/∂χ2)2)(dχ2)2
ここで、
g11=(∂X1/∂χ1)2+(∂X2/∂χ1)2
g12=g21=(∂X1/∂χ1)(∂X1/∂χ2)+(∂X2/∂χ1)(∂X2/∂χ2)
g22=(∂X1/∂χ2)2+(∂X2/∂χ2)2
と置くと、曲線座標系においての2点、PQ間の距離(線素)dsは次のように表される。
ds2=g11(dχ1)2+g12dχ1dχ2+g21dχ2dχ1+g22(dχ2)2
これは、アインシュタインの縮約では、ds2=gijdχidχj で示される。
gij=g11 g12
g21 g22 という行列(マトリックス(matrix))を、計量テンソル(メトリック・テンソル(metric
tensor))といい関数である。計量とは、時空のある場所における尺度(目盛付き秤、計量カップ、
メジャ(ものさし)に相当する)
これは、平面におけるデカルト座標系(慣性系)と曲線座標系(加速度系)との関係であるが、地
球のように球面の場合は、P(χ1、χ2)とQ(χ1+dχ1、χ2+dχ2)とが微少である距離にて、
緯度角θ、経度角φとして、χ1=θ、χ2=φ、地球中心からの曲率半径をrとする時、これを極
座標を用いて表すと、ds2=(rdθ)2+(rsinθdφ)2で与えられる。
計量テンソルは、g11=r2、g12=g21=0、g22=r2sin2θであるから、
gij=g11 g12 =r2 0
g21 g22 0 r2sin2θ という行列で示される。
球面の場合、デカルト座標系はごく狭い範囲にしか設定出来ない(局所慣性系)が、この球面座標
系も曲線座標系の一種であるので、一般式は、ds2=gijdχidχjとして表すことができる。
このds2=gijdχidχjという式が成立する空間をリ−マン空間という。
以上のように、平面(メルカトル図法)(特殊相対性理論)(慣性系)では、ds2=(dX1)2+(dX2)2
であったが、曲線座標系(地球儀によるリ−マン幾何学の曲がった表面)(一般相対性理論)(重力
・加速度系)は、上記のように複雑な式、
ds2=g11(dχ1)2+g12dχ1dχ2+g21dχ2dχ1+g22(dχ2)2=gijdχidχj になる。
慣性系(局所慣性系)をds2=(dX1)2+(dX2)2=ηijdXidXjというアインシュタインの縮約を用い
る時は、計量テンソルは、η11=1、η12=η21=0、η22=1の特別の場合だけである。
ηij=η11 η12 =1 0
η21 η22
0
1 という対角行列である。
以上の関係を、一般的な説明では、4次元時空の表現にて示すと下記の通りである。
ある座標系(χ0、χ1、χ2、χ3)と他の座標系(χ0′、χ1′、χ2′、χ3′)との間の一般座標
変換は、
χi=fi(χ0′、χ1′、χ2′、χ3′)または、簡単に、χi=fi(χ′)、(i=0,1,2,3)−−−(1)
で表される(上述2次元では、X1=X1(χ1、χ2)、X2=X2(χ1、χ2)に相当)。fi は関数である。
今、二つの座標系の微少な距離を
ds2=gijdχidχj
ds2′=gij′dχi′dχj ′
とすると、各々2点間の微少な距離は、どのような座標系で表しても同じ(不変)であるから、2つの
座標系(χ)、(χ′)の計量テンソルの成分の添え字を少し変えて、gij、gkl′とすれば、
ds2=gijdχidχj =gkl′dχk′dχl′−−−−−−−−−−−−−−(2)
である。(1)式よる座標変換にて、座標の微分dχi は、次のような変換を示す。
dχi=∂χidχj′/∂χj′
(上述、dX1=∂X1dχ1/∂χ1+∂X1dχ2/∂χ2、dX2=∂X2dχ1/∂χ1+∂X2dχ2/
∂χ2に相当する一般式である。∂χi/∂χj′はχi の関数で、座標変換の変換行列、または
ヤコビアン行列という)
この微分変換dχi を用いて、(2)式から、この2つ座標系の関係を示すと、
ds2=gkl′dχk′dχl′=gij(∂χi/∂χk′)(∂χj/∂χl′)dχk′dχl′−−−(3)
と表される。ここに、(2)式が等しくなるためには、(3)式のように計量テンソルの成分は、
gkl′=gij(∂χi/∂χk′)(∂χj/∂χl′)
という変換則が与えられる(2階の共変テンソルの変換則である)。また、逆に、gijは、
gij=gkl′(∂χk′/∂χi)(∂χl′/∂χj)
ds2=gijdχidχj =gkl′(∂χk′/∂χi)(∂χl′/∂χj)dχidχj
という変換則が適用される。】
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
上記合計、24,805里は10,769km/40,000km≒0.269となる。40,000kmが360°
であるから、24,805里(10,769km)は、360°x0.269≒96.8°である。
狗邪韓国(釜山)は、ほぼ北緯35°として。96.8°−35°=南緯61.8°を示す、この緯度を東
南へ30°振らす(東経135°+30°=東経165°)地点には、南極大陸に近い海上にあり、陸地
は無いので裸国・黒歯国は存在しない(範囲は±5°、南緯61.8°±5°、東経165°±5°とす
る)。
次に邪馬台国(奈良県桜井市は約北緯34.5°)を基準にして、現在の正確な日本地図を用いる。
邪馬台国→侏儒国=南4,000余里(1,737km)は、上記地球緯度線の計算、(1,737km/
40,000km)x360°−34.5°=−18.9°(北緯18.9°)であるから、東経135°の地点で
は、沖の鳥島辺りであるが、ミクロネシア、マリアナ諸島ではないかと考える。(グァム、サイパン島等)
侏儒国→裸国・黒歯国=上記と同様の計算により、15,805里(6.862km)である。
合計は、南4,000余里(1,737km)+15,805里(6.862km)=19,805里(8,599km)
(8,599km/40,000km)x360°−34.5°=南緯42.9°となり、東南へ30°振らすした東
経165°地点(範囲、南緯42. 9°±5°、東経165°±5°とする)は、ニュージランドがある。
南アフリカのケ−プタウンが南緯33度59分であるから、それよりも南に位置するニュージランドは、
北緯35度40分の東京より寒いはずである。年間を通して裸国であるのだろうか。この地では、ニュ
−ジランド亜麻という繊維を用いて、レインコ−トに匹敵するパラという外套を作っている。亜麻の繊
維が水をはじくらしい。
最後に、邪馬台国から裸国・黒歯国へ東南船行1年にして至るべし=50里x365日=18,250里
(7,923km)と仮定する。上記と同様の計算により、15,805里(6.862km)である。
(6,862km/40,000km)x360°−34.5°=南緯27.3°である(範囲、南緯27.3°±5°
東経165°±5°とする)。南緯22.3°近辺(南緯27.3°−5°)とすると、南緯22度16分、東経
166度27分にニュ−・カレドニア島がある。
黒歯国とは、江戸時代の日本の女性は、結婚すると歯を黒く染める、お歯黒さんという風習があった
が、その風習がある国が南洋の島に存在していたことが魏志倭人伝に記されているわけである。そ
の風習があるのは東南アジアの一部(上記、・耳・朱崖のハイナン島も含む)とインドネシアである。
インドネシアはの源流はスンダランドに住んでいたモンゴロイド(黄色人種)が先祖であるらしい。日本
の縄文時代は、この南方系の住民であったとされている(耳あかが湿型)。弥生時代から北方系民族
(耳あかが乾型)が移住したと考えられている。一方、インドネシア人はパプアニュ−ギニとその東の
メラネシアの島々へ多少なりとも継続的に移住したことにより、島嶼(とうしょ)住民との混血を深める
こととなったという説がある。したがって、ソロモン諸島辺りが黒歯国の限界域であると考えられる。こ
の諸島へ行くのに侏儒国(マリアナ諸島)から更に船行1年も経過するのは考え難い。そこで、女王国
からソロモン諸島まで、東南船行1年にして至るべしとした。(上記計算では、ニュ−・カレドニア島)
黒歯国の確認手段としては、現地の日本大使館へ連絡して、メラネシア圏にて、過去に歯を黒く染め
ていた風習があった国を特定してもらうという方法があるが、興味のある方は試みては如何でしょうか。
侏儒国は人の丈(たけ)が小さい国にて、身長は3、4尺であるという。3世紀の魏時代における1尺は
24.12cmである。3尺は24.12x3=72.36cm、4尺は24.12x4=96.48cmとなる。
2004年3月20日(土)フジTVにて放映されていた。サイエンスミステリにて、ミャンマと中国の国境近
くで発見された、タロン族の身長が110〜130cmであり、世界で最も小さい種族であるらしい。また、
ザイ−ル北東部のムブティ族のようなピグミ−が、150cm未満であるから、いくら食料事情が悪いと
いっても、このような背丈の低い人種が住んでいたのだろうか。それとも誇張なのか。南洋諸島では種
まきが終ったら、後の半年しゃ寝て暮らすというように、何もしないでも自然界が勝手に食物を育ててく
れるので、種まきと収穫時に働けば食料は手に入るはずであるから、食量不足はあり得ない。しかし、
これは、あくまでインドネシアや南太平洋西側の熱帯雨林での話であって楽園といわれる所以である
が、ミクロネシアでは、少し事情が異なる。この地には、東アジアからの人口勢力により、主にインドネ
シア人、メラネシア人が押しだされるようにして移住したと考えられるが、島自体が小さいので十分な
る食料を生産するすべがなかったので、食料不足による、低身長も考えられないこともない。インドネ
シア人などのモンゴロイド(黄色人種)は世界の中でも背が低いと言われているが、それに食料不足と
いう事情が絡むと、タロン族以下になる可能性も考えられる。あるいは、タロン族のような低身長人種
が住む着いたかであるが、いづれにしても、太平洋圏にて無理に当てはめれば、このミクロネシア(小
さい島々の意)島嶼(とうしょ)群であるマリアナ諸島が低身長(72.36〜96.48cm)の侏儒国では
ないかと思われる。
以上のように考えるが、南であろうが、東南であろうが、いずれにしても、裸国は、日本に対して現在
でも、南方方面に在るのは間違いない。したがって、侏儒国も裸国・黒歯国も、方位は、概(おおむね)
合致していると思っても良い。
戸数と人口
小山修三氏がコンピュ−タにインプットした弥生時代の人口集計によれば、以下の通りである。(S.
Koyama:Jomon Subsistene and Population,Senri Ethnological Studies、2,1978)
近畿地方 109,400人
中国地方 59,400人
四国地方 30,500人
九州地方 106,300人
「漢書」地理志による東夷と関係のある遼東郡、玄菟郡、楽浪郡の戸数と人口は以下の通りである。
遼東郡 55,972戸 272.539人
玄菟郡 45,006戸 221,845人
楽浪郡 62,812戸 406,748人
合 計
163,790戸 901,132人
1戸数当たりの人数は、901,132人/163,790戸=5.5人/戸
当時の倭国の1戸数当たりの平均人数を5人として計算すると、以下のとおりである。
国名 戸数 人 国名 戸数 人
対馬国 千余戸 5、000 奴国 2万余戸 100,000
一支国 三千許家 15,000 不弥国 千余家 5,000
末盧国 4千余戸 20,000 投馬国 5万余戸 250,000
伊都国 千余戸 5,000 邪馬台国
7万余戸 350,000
九州地方(対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国)の人口合計は、150,000人
中国地方(投馬国)の人口は、250,000人
近畿地方(邪馬台国)の人口は、350,000人
小山修三氏のコンピュ−タ資料と比較すると、特に、中国地方(投馬国)、近畿地方(邪馬台国)の人
口が大きくかけ離れていることが解る。九州地方については、中国人が実際に訪問して、その国々の
スポ−クスマンに直接問いかけて、聞いた結果、控え目に答える者があれば、大げさに答える者もあ
り、奴国の2万余戸は、奴国のみならず佐賀平野ル−ト、基肄(きい)、養父(やぶ)、三根(みね)、神
崎(かんざき(吉野ヶ里))、佐賀(さが)、小城(おぎ)、杵島(きしま)のクニ、国まで含むほどの戸数で
ある。推計資料106,300人に対して、対馬国〜不弥国の人口合計150,000人であるが、奴国の
100,000人は多すぎる。九州全域に匹敵する。これに対して、中国地方と近畿地方の人口の誤差
は生半可ではない。
それでは、対馬国〜不弥国の戸数合計は、30,000戸、投馬国50,000戸、邪馬台国70,000戸
であるが、1戸数当たりの平均人数を2人と仮定して計算すると、対馬国〜不弥国の人口合計は、60,
000人、投馬国100,000人、邪馬台国140,000人であるから、小山氏コンピュ−タ資料との比較
をすれば、対馬国〜不弥国の人口合計では誤差範囲にて妥当かも知れないが、投馬国、邪馬台国は
まだ多すぎる。
中国東北、朝鮮の騎馬民族(放牧や運搬も含めて牛馬による農耕民族)の場合、国(領地)の規模を
表す手段として、家屋の数である「戸数」を用いていたものと考えられるが、日本のような人海戦術的
農耕民族(効率が悪い)の場合は、「戸数」で表すほど余裕は無かったと思われる。むしろ「人口」の
方が重要である。如何ほど米(玄米)の生産量が必要かである。例えば江戸時代にでさえ、加賀百万
石とは、1年間、100万人に供給する食糧に匹敵する年貢の石高(こくだか)を表すように、「人」と米
(玄米)との関連性を示す表現方法を用いている。これは、天災も加えて、非常に農業が厳しかったこ
とを物語っている。以上のことから日本の国(領地)の規模を表す概念は、「戸」では無く「人」である。
おそらく、対馬国〜邪馬台国までの国々の規模を中国人から尋ねられた時、日本人は「人口」の積も
りで、3万、5万、7万というように数字のみを伝えたと思われるが、中国人は、この数字を騎馬民族の
表記概念である「戸」として捉えたのではないだろうか。
また、別の考え方をすれば、日本人には「戸」という概念が無く、中国人が戸数を尋ねたのに対して、
日本人は人口を答えたのではなかろうか。この場合、通訳が間違ったか、日本人自身が勘違いをし
たかである。
日本の場合「人口」として考えれば、対馬国〜不弥国の人口合計は、30,000人、投馬国50,000
人、邪馬台国70,000人である。これを、小山氏コンピュ−タ資料と比較すれば次の通りである。
小山氏コンピュ−タ資料 魏志倭人伝よる人口(戸の場合は5人/戸にて算出)
近畿地方 109,400人 邪馬台国 70,000人(戸の場合350,000人)
中国地方 59,400人 投馬国 50,000人(戸の場合250,000人)
四国地方 30,500人
九州地方 106,300人 対馬国〜不弥国の人口合計は、30,000人(戸の場合150,000人)
九州では九州全域が106,300人であるから、対馬国〜不弥国の人口合計は、30,000人は妥当
ではないかと考える。また、伊都国は、唐の張楚金が編纂した「翰苑」では、次の通りである。
「東南して5百里、伊都国に到る。戸、万余なり、官を置きて爾支と曰い、副を泄渓觚・柄渠觚と曰う。
其の国王、皆女王に属す」であり、伊都国は1,000戸ではなく、10,000戸である。人口だとすると、
10,000人(戸の場合50,000人)であり、対馬国〜不弥国の人口合計は、39,000人(戸の場合
195,000人)である。
以上より、対馬国〜不弥国の人口合計39,000人であるが、誤差範囲として、30,000人〜40,0
00人。また、投馬国、邪馬台国は大げさに伝えた可能性もあるので、投馬国30,000人〜50,00
0人、邪馬台国50,000人〜70,000人と見るべきだろうと考える。
九州説の場合、対馬国〜不弥国の人口合計39,000人、投馬国50,000人、邪馬台国70,000
人であり、この合計は、159,000人となる。少なく見積もっても、対馬国〜不弥国の人口合計30,0
00人、投馬国30,000人、邪馬台国50,000人にて、合計は、110,000人である。これに、其の
余の傍国21国と狗奴国と狗奴国に属する国々の人口が加算されることになる。
狗奴国については、其の余の傍国21国を含めて、魏志倭人伝の一節、「此れ女王の境界の尽くる所
なり」を近畿地方と中部地方の境界線とするならば、邪馬台国勢力は近畿地方以北であり、狗奴国勢
力は中部地方以南にて、佐渡は狗奴国の属国であると考える。もし、狗奴国が小国であれば女王国
に潰されているから、女王国の属国になっているはずである。
しかし、対立しているとなれば、狗奴国は邪馬台国と同じくらいの権力を有していると思われるのだか
ら、当然、邪馬台国と同等の勢力、すなわち、2大勢力であったことになる。だから、必然的に、狗奴
国には属国が存在していてしかるべきである。また、人口も女王国勢力に匹敵するだろうと推測する。
そこで、小山修三氏がコンピュ−タにインプットした弥生時代の人口集計により、女王国勢力と狗奴国
勢力を分けると、以下の通りである。
地 域 別 女王国勢力人口 地 域 別
狗奴国勢力人口
九州地方 106,300人
中部 85,100人
四国地方 30,500人
北陸 21,000人
中国地方 59,400人
東海 55,900人
近畿地方 109,400人
関東地方 100,100人
東北地方 33,800人
―――――――――――――――――― ―――――――――――――――――
女王境界以北人口合計
305,600人 女王境界以南人口合計 295,900人
女王国勢力人口の九州地方は、上述、対馬国〜不弥国の人口合計39,000人を採用するので、
女王境界以北の人口合計は、305,600−(106,300−39,000)=238,300人である。
以上より、女王国勢力人口約24万人と狗奴国勢力人口約30万人と対立することになる。
一方、狗奴国が何処に在るのかを推測するに、狗奴国は邪馬台国と同等の人口、50,000人〜
70,000人と仮定すると、上記、狗奴国勢力人口の中部地方(中部)と関東地方に限られる。もし、
狗奴国が関東地方だとすると、女王の境界の尽くる所である近畿地方と中部地方の境界線での情報
や狗奴国からの指令が遅くて、有利に事が進まない。しかし、中部地方(中部)であれば、境界線の
際にあるので、相手に対して直(じか)に脅威を与えられる。したがって、中部地方の濃尾平野とする
のが適当である。濃尾平野は美濃(みの)(中部)と尾張(東海)の一部を占めていて、上記人口密度
からも矛盾は生じない(85,100人+55,900人=141,000人の内の狗奴国、50,000人〜
70,000人と仮定)ので狗奴国としては最もふさわしい。
邪馬台国と纏向(まきむく)遺跡
約2万年前、南方のスンダランド(ジャワ島)当たりから、南西諸島(沖縄)、薩南諸島を渡って南九州
へ到着した旧石器時代の港川(みなとがわ)人は縄文人の直系の祖先ではないかと考えられている。
以後、縄文人は10,000年の長きに亘って日本列島に繁栄を築いてきた。紀元前約600年までは日
本全国、ほぼ縄文人が占めていて、狩猟採集生活(原始共産主義)を送っていたが、以後、朝鮮半島
から農耕栽培(畑、水田耕作)の技術と共に、渡来人が日本へやって来て、弥生文化という繁栄を普
及させて行った。(国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の研究グル−プが2003年5月に発表した
弥生時代の始まりは、土器などの放射性炭素法年代測定から、従来より500年も古い紀元前約1,0
00年であるという)
彼らは、最初北九州の地域に小さな拠点を設定し、その勢力は、南九州のごく一部を除き、北九州か
ら近畿地方まで拡大した。そのピ−クは古墳時代である。しかし、稲作のみは全国に伝来して行った。
弥生人の性格は、極悪非道(鬼という名は、縄文人が、渡来人に名付けた代名詞だったのではないか
と思わせる程の状況であった)にて、原始共産主義という家族主義を営んでいた縄文人を、いとも簡単
に殺傷したり、魏志倭人伝にも見られる生口という奴隷化を実施するのである。また、彼らは、リ−ダ
に成ることを欲し好戦的であった。しかし、縄文人は、この劣悪な環境の中にあって、その戦いを強い
られることになるが、次第にその戦術を身につけていくことになる。
ここで、縄文人を南方系民族とし、朝鮮半島からの渡来人を北方系民族として考えれば、北方系民族
は北九州、中国地方、四国地方、近畿地方までで、南九州、中部地方(東海、北陸含む)、関東地方、
東北地方は南方系民族である。上述、「此れ女王の境界の尽くる所なり」を近畿地方と中部地方の境
界線に取ったのは、このためである。現在では、この境界線以東は北方系民族と南方系民族の混血
による中間型であり、沖縄、南九州、北海道は南方系民族となっている(頭骨の計測値から日本人の
地域差を分析した資料による。ニュ−トン別冊、古代遺跡と伝説の謎(幻の古代ミステリを探る)竹内
均編集 教育社)。以上、上記を踏まえて、縄文人(南方系民族)側から考えると、次の通り、3つの要
点が見えてくる。
@ 南方系民族の日本本土における人類発祥の地は南九州(港川人)である
(約2万年前から伝承されていた縄文人の常識であったのではないだろうか)
A 紀元前約600年頃までは、日本全国の先祖は、ほぼ南方系民族であり、北方系民族の影響は
非常に少なかった
B 北方系民族の影響が現れてからは、生活環境が劣悪となり一変する。この仕打ちに対する「恨み
」は以後1,000年以上に亘り続く
である。以後、この上記3つの口承伝承が後世に引き継がれて行くことになる。
魏志倭人伝の一節、「其の国、本(もと)亦(また)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年
にして倭国乱れ、相(あい)功伐(こうばつ)して年を歴(ふ)。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為
し、名づけて卑弥呼と曰(い)う」
より、卑弥呼の擁立に対して国が定まるが、これは、北方系民族に対して効果があることが解る。何
故ならば、南方系民族である狗奴国(濃尾平野)は反応を示さず、上記、口承伝承のBによる「恨み」
を持ち続けているから、女王国には、常に反発を繰り返しているのである。ところがこの狗奴国はどの
くらい手強(てごわ)かったかというと、それは、戦国時代の武将である織田信長、豊臣秀吉、徳川家
康、今川義元、武田信玄、上杉謙信が率いる軍勢に匹敵するほどの強さである。彼らは、いずれも、
中部・東海・北陸の出身者(南方系民族)である。卑弥呼(北方系民族)は鬼道による霊媒師的儀式、
「神のお告げ」という手法であるが、南方系民族は太陽崇拝のような自然信仰(神宮、八幡宮、神社)
系に属していると考える。
3世紀の始めに突如として出現した纏向(まきむく)遺跡は卑弥呼の古代の都市国家ではないかと言
われているが、日本の中心にて卑弥呼はここで擁立され、女王国での政治の中心がここで行われて
いたと考えられる。また、狗奴国(濃尾平野)も日本の中心に位置していて、狗奴国陣営の政治を司っ
ていた。纏向遺跡で建てられた独特の纏向前方後円墳は女王国を象徴するかのように、女王国陣営
の各地で建てられるようになるが、3世紀前半においてさえ、関東、北陸にも進出している。これは海
路を迂回して、狗奴国陣営である関東、北陸への懐柔を意味している。この進出、「此れ女王の境界
の尽くる所なり」の柵越えに対して、狗奴国王の逆鱗(げきりん)に触れ、女王国へ宣戦布告を敢行す
る。その狗奴国との戦争状況が、倭の使者により正始8年(西暦247年)、魏志倭人伝の一節に、下
記の通り報告されている。
「其の6年(正始6年)、詔して倭の難升米(なんしょうべい)に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。其
の8年(正始8年)、太守の王斤頁 (おうき)、官に至る。倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼
(ひみきゅうこ)と素(もと)より和せず、倭の載斯(さいし)、鳥越等(うえつら)を遣わして、郡に詣(いた
)り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史(さいそうえんし)の張政等(ちょうせいら)を遣わし、因(よ)りて詔
書、黄幢(こうどう)を齎(もた)らし、難升米に拝仮し、檄(げき)を為(つく)りて之に告喩(こくゆ)せし
む」
正始6年(西暦245年)には、倭の難升米に黄幢を賜る詔が下され、正始8年(西暦247年)に帯方
郡の塞曹掾史の張政等が倭に遣わされた時、詔書と黄幢を難升米に拝仮すると共に、檄を以て、難
升米に告喩している(檄とは、自分の考えや主張を述べて大衆に行動を促す文書、古代では木簡を
用いている。告喩は言い聞かせること)。なぜ、卑弥呼ではなく指揮官である難升米に檄を以て、告喩
したのか。この期間に、戦争で卑弥呼は殺されたのか、あるいは、何らかの原因にて死んだのかは解
らない。また、魏志倭人伝は次のように続く。
「卑弥呼、以(すで)に死す。大いに冢(ちょう)を作る。径(けい)百余歩。葬(そう)に徇(じゅん)ずる者、
奴婢百余人。更に男王を立てしも国中服さず。更に相誅殺(ちゅうさつ)す。時に当りて千余人を殺す。
復(ま)た卑弥呼の宗女の壱與(いよ)、年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。政等(せいら)、
檄(げき)を以て壱與(いよ)を告喩(こくゆ)す。壱與(いよ)、倭の大夫率善中郎将(たいふそつぜんち
ゅうろうしょう)の掖邪狗等(ややこら)二十人を遣わし、政等(せいら)の還(かえ)るを送らしむ。因(よ)
りて臺(だい:落陽)に詣(いた)り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文(い
もん)の雑錦(ざっきん)二十四匹を貢す」
以上の一節で、魏志倭人伝は終了するが、卑弥呼が死んで墓を作るも、これは従来から言われてい
る箸墓(はしはか)古墳(全長278m、高さ29m、後円部の直径が156mの定型化した前方後円墳)
ではなく、径百余歩(歩は6尺である。魏時代の1尺は24.12cmであるので、歩=6尺=24.12x6
=144.72cm=1.4472m)は1.4472x100=144.72mであることから、前方後円墳の全長
が約145m程(仮定)の纏向前方後円墳でなければならない。壱與が張政等に告諭されたのが、西暦
248年とされていて、卑弥呼の死も西暦247か西暦248であり、古墳の建造が西暦248年頃から始
まったとすれば、箸墓古墳のように定型化した前方後円墳は西暦266年以降と考えられているので、
また、前方後円墳は日本のオリジナルのもので、中国、朝鮮では見かけない古墳であるから、魏志倭
人伝の径百余歩は古墳の全長と勘違いした可能性と誇張もあり、全長が100メ−トル前後の纏向前
方後円墳の範囲内である。卑弥呼の後、男王立てしも、国中服さず、混乱状態であるが、卑弥呼の宗
女の壱與を王にすることにより、国中治まる。これは卑弥呼擁立の時と同じである。しかし、その後張
政等が檄を以て壱與を告喩しているのは何故か、これは狗奴国軍の進入による防備に関する告諭で
あると考えられている。正始8年(西暦247年)に倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史の張政等が帯方
郡へ還るのを、倭の大夫率善中郎将の掖邪狗等に送らせて後、掖邪狗等が落陽へ行って男女生口
30人等を献じているのが正始9年(西暦248年)頃と見られている。
上述のように、女王国と狗奴国が常に対立し、不安定状態であれば日本統一は不可能である。そこ
で、考えられたのが女王国陣営と狗奴国陣営が協力するという和解が成立したのではないだろうか。
すなわち、北方系民族と南方系民族が対立したまま、権力の中枢に参画することになる。それが3世
紀半ばであり、これを、ヤマト立国と呼ぶことにしよう。もし、狗奴国が女王国を破り、壱與が退位した
場合国中が服さず、大混乱となるのだから、狗奴国王とて、このような馬鹿な振る舞いはしないが、こ
の和解を提案したのは狗奴国王である。壱與は少なくとも西暦266年頃までは在位していた。
女王壱與は名目的存在にて、武力による実権は狗奴国王が握っていたが、国中の混乱を避けるた
め、あくまで壱與が表舞台にあって、狗奴国王は秘密裏に計画を遂行しなければならなかった。その
ために、壱與が君臨する纏向遺跡には住まわず、もしかすると、畝傍山(うねびやま)の東南にある
橿原(かしはら)に、ひっそりと居を構えていたかも知れない。日本統一に向けて、ヤマト立国の建国
に際し、次のような協定を両陣営が結んだ。
女王国側要求 狗奴国側要求
1.狗奴国陣営に所属する各豪族の「国譲り」 女王国陣営に所属する各豪族の「国譲り」
2.「国譲り」の交渉失敗に対し、狗奴国軍派遣 日本民族発祥の地である南九州に古墳建造
3.各地の古墳建造において、前方後円墳と前方後方墳、またはその他古墳は各豪族達の好みによ
り選択させること
2.の日本民族発祥の地である南九州に古墳建造とは、上述、口承伝承@に基づく日本民族の先祖
の構築、すなわち、南九州は日本本土での南方系民族の発祥の地である。ここに、北方系民族では
無く、南方系民族が日本の先祖である証拠を築かなければならない(南方系民族は北方系民族に対
して「恨み」を持ち続けているので、このように優位性を誇示する。「恨み」、対立がなければ、南九州
という発想は起こり得なかった)。そこで、南方系民族の事はさておき、日本の先祖発祥に関する重要
性と根拠を壱與に得々と話して説得させ、南九州に古墳建造を勅令(神のお告げ)により実行させた。
これは、「国譲り」の交渉失敗に対する狗奴国軍派遣と引き替えに実施する(狗奴国軍は女王国陣営
では女王国軍として派遣され、狗奴国陣営においては狗奴国軍として働く)。このような一連の行動が
始まったのが3世紀半ば、西暦249〜250年頃であり、後に、天孫降臨や神武天皇の東征などの神
話のモチ−フになったと考える。
宮崎県西都(さいと)市の西都原(さいとばる)古墳群のように、ここは、約330基におよぶ3世紀半ば
から7世紀半ばにかけて、古墳群(31基が前方後円墳、その他、円墳(えんぷん)、方墳(ほうふん)、
地下式横穴墓(ちかしきおうけつぼ)、横穴墓といった様々な形式の墳墓が揃っている)が密集してい
る。西都原古墳群のなかでもっとも古い前方後円墳は、81号墓で、これは、纏向遺跡の発生期の前
方後円墳として名高い「石塚古墳」と形がよく似ている。また、纏向遺跡でもっとも有名で秀麗な箸墓
古墳とそっくりなもの(天孫降臨の謎 関 祐二著 P H P研究所)等々、まるで、古墳群の博覧会の
如きである。
また、西暦250年頃以降は、纏向遺跡の纏向前方後円墳に狗奴国陣営側の埋葬文化が存在したり
纏向に纏向前方後円墳規格の纏向前方後方墳(メクリ1号墳)が建造されていても、あるいは、纏向
前方後方墳が狗奴国陣営側にあったとしても上記協定により不思議ではない。
2.と並行して、1.の女王国陣営(北方系民族)、狗奴国陣営(南方系民族)にかかわらず、各豪族の
私有財産を認めない、統一レベルの共産主義体制を組むべく、ヤマト立国管理の「国譲り」を敢行し
たことである。これは、南方系民族が過去、原始共産主義的家族主義を営んでいた時とはスケ−ル
が違う。共産主義(現在の共産主義は唯物論であるが、この頃は唯神論である)は全体主義であるか
ら、帝(みかど)、すなわち、皇帝や天皇を中心とした王権である帝国主義へ発展する可能性を秘めて
いる。この建設過程において、古墳を通じて、南九州へ肩入れをしているのが、神話では、まるで天皇
と同族であるかのような、傍若無人な態度にて、ヤマト立国に反発する無知なる熊襲(くまそ)・隼人(
はやと)(南方系民族)も征伐される運命にあった(日本書紀は景行(けいこう)天皇、景行(けいこう)
天皇の皇子である日本武尊(やまとたけるのみこと)、仲哀(ちゅうあい)天皇、神功(じんぐう)皇后が
繰り返し平定を敢行している)。近代においても、薩長にて徳川幕府を打倒し明治維新を樹立した西
郷
隆盛率いる薩摩隼人は、政府に反抗して西南戦争で政府軍に鎮圧されるている。したがって、神
話の中では、天皇と関係があるように設定するも、現実的にはヤマト立国とは関係がないのであるか
ら、協力をしないので排除する方向にある。隼人は明治政府からも嫌悪されていたように、何かと因
縁を付ける「天の邪鬼(あまのじゃく)」的存在に扱われていたのだろう。神話では常に矛盾的立場に
ある。
また、この「国譲り」は女王国陣営や句奴国陣営に関係なく各地に相当な軋轢を生じさせ、当然、反対
する豪族も多かったと考えられる。特に、北部九州は北方系民族の拠点であるから、流血をも見る抵
抗を強いられたのである。ヤマト立国側から見れば、まさに「平定」と言うにふさわしい。平定された領
地は、例えば、出雲では渡来人の中で出雲族の一番上の君主である、大国主命(おおくにぬしのみこ
と)の邸宅であった出雲大社にしめ縄を施し、神社としての機能を持たせ農業の神様として、大和政権
では、出雲の国造(くにのみやっこ)という称号を与えるような方法で、国譲りによる平定が終わった所
から、次々に神社化、または神社を建てながら拡大して行ったと考えられる。これは、壱與が在位して
いた西暦266年頃まで続く。ここで、壱與に替わって男王が表舞台に立っても、90%以上平定されて
いれば混乱は起こらない。北部九州では承服しかねない豪族がいたかも知れないが、最後の九州征
伐は相当数の年月がかかったと思われる。九州地域の一部(大分県宇佐、福岡県穂波や宗像)を平
定したところで、女王壱與が亡くなった(北方系民族の暗殺ではない。暗殺だとすると90%以上平定
されていないのだから、南九州の古墳建造の計画やその後の九州征伐は頓挫する。最も重要なこと
は、神がかり的な女王を殺すということは、如何なる災いが身に降りかかる知れないという恐怖から
絶対にあり得ない。女王国側大混乱となるのだから、卑弥呼の場合でもそうであるが、壱與は暗殺や
事故等の急死ではなく、事前に流布されていた病気による死でなければならない)とすれば、西暦26
6年〜267年頃には、男王(狗奴国王)が即
位したと考えられる。
男王は居を纏向に移し、王権としての地位を獲得する。その後、壱與の墓を纏向前方後円墳ではな
く定型化した前方後円墳へと変更させた。箸墓古墳(定型化した前方後円墳)こそが女王壱與に最も
ふさわしい。これ以後から、女王としての「神のお告げ」という役目も武力による制圧には通用しなくな
り、歴史の表舞台からは永遠に消え去ることになる。箸墓古墳の建造には、平定された九州地域の
一部が関わっていたが、その後の奴国、伊都国を含む九州以西の征伐でも、狗奴国軍はあくまでも
女王国軍として活躍することになるので、この地域に対しては、女王壱與は影武者ならぬ影女王でな
ければならなかった。箸墓古墳建造が如何ほどの歳月だったかは解らないが、九州以西にて平定さ
れた所は順次、この箸墓古墳に携わって行ったと考えられる。纏向遺跡は3世紀前半が1キロ四方で
3世紀後半にて1.5キロ四方に拡大した。定型化した前方後円墳の頃の3世紀後半が最盛期で4世
紀前半まで繁栄していたとされている。
女王壱與と狗奴国王の協定による西暦250年頃以降、日本各地より大量の土器が纏向に流入する
が、これは、この共産主義体制に賛同した領地から、ヤマト立国に忠誠を誓う証として、纏向に纏向
独自の壱與時代の纏向前方後円墳や纏向前方後方墳と卑弥呼・壱與時代の纏向前方後円墳を発
展規格化した定型化した前方後円墳の建造と纏向都市の建設を負わせた。
そのための労働者や技術者、または豪族の代理人を各領地から纏向に派遣するが、生活するため
の土器が各地(日本全国)より集中した。また纏向でも、その土器が造られるようになるが、しかし、纏
向ブランドの纏向前方後方墳や定型化した前方後円墳が各地に建造されるようになると、纏向でつく
られた土器も各地に拡散して行った。以上のような共有化は、まさに共産主義体制である。
纏向にて古墳を建造する労働者や技術者は、以後、この近畿地方にとどまり、彼らの子孫は後の古
墳時代に活躍することになる。この纏向ブランドの纏向前方後方墳や定型化した前方後円墳、また
は、後の大古墳時代の建造に関わる貢献度によって各豪族の身分の地位が決定されたのだろう。
考古学では、纏向に建造された埋葬文化と土器流入の順位としては、吉備、出雲、東海、北陸が比
較的早く、最後の最後に北部九州がやってきたらしい(天孫降臨の謎 関 祐二著 P H P研究所)
(日本書紀では、神功皇后の九州征伐で重い腰をあげてしぶしぶ賛同したのではないだろうか)。また
その後、北部九州では定型化した前方後円墳をその地域に多く建造している。その中には、九州征
伐で亡くなった豪族達の墓もあったのだろう。(北部九州は、3世紀前半の卑弥呼時代では、協力的
に纏向前方後円墳を築造していた)
古墳は何のため造られたのであろう。北方系移民族は「好戦的リ−ダ的人間」だから、墓には、それ
程執着は無く、形式的、象徴的だと思われるが(古墳時代では近畿近辺から以東に大型古墳が多く建
造されている)、南方系民族は自然崇拝であり、不老長寿を絶望視する、病気や死に対する畏れ、葬
礼、墓に対する「こだわり」が一層強烈だったのではないだろうか。これは、過去にも、北方系民族に受
けた仕打ちに対する「無念」による鎮魂も含めて、古墳に力を入れたと考えられる。特に、殉死や殺生
(せっしょう)に対する嫌悪感は著しいものがある。ここで、古墳に対する私なりの考え方を次の通りまと
めてみた。
1) 卑弥呼が亡くなった時は、纏向前方後円墳で魏志倭人伝にも記されていた「葬に徇ずる者、奴婢
百余人」とは、殉死と考えられるが、これは、卑弥呼の大王のみに適用され、その他に建造され
た纏向前方後円墳では行われなかった。考古学的には殉死の証拠が無いからである。ただし「
日本書紀」では、垂仁(すいにん)天皇二十八年、倭彦命(やまとひこのみこと)の墓を造り、その
まわりに近習の人々が生き埋めされて殉死した。また、垂仁天皇三十二年、野見宿禰(のみの
すくね)が埴輪(はにわ)を発明して献上したので、これを墓のまわりにたてて殉死の蛮風を禁じ
た(古代天皇のすべて 前之園亮一・武光 誠 編 新人物往来社)というように、ここに、記述さ
れているとすれば、殉死という風習は少なくとも1回はあったとしなければならない。この奴婢百
余人の殉死に対しては、南方系民族は嫌悪感を持っているので、後に、彼らが権力の中枢に参
加した時、奴婢の遺骨を掘り返して集め、別の墓にまとめて丁寧に葬ったかも知れない。だから、
纏向前方後円墳の周囲、殉死を埋める個所に残骨のかけらが一片でも発見されれば、殉死の
証拠となる。
上記、北方系民族の殉死については、匈奴(きょうど)の単于(ぜんう)(王の呼称)の死の場合に
は、「史記」匈奴伝、および「漢書」匈奴伝上に、「其(単于)の死を送るに、棺槨(かんかく)、金銀
衣裘(いきゅう)(着物と皮衣(かわごろも)。「漢書」は「衣裳」に作る)有るも、而して封樹(ほうじゅ
)(墓に土盛りし、植木を植える」こと)、喪服(もふく)無し、近幸(きんこう)(近づけ寵愛(ちょうあ
い)すること)の臣妾(しんしょう)(主君に従属する者)、死に従う者、多きは数十、百人(「史記」は
「数千百人」に作る)を数(かぞ)う(「漢書」は「に至(およ)ぶ」に作る)」(魏志倭人伝を読む下 佐
伯有清著 吉川弘文館)というように、王の墓には、近習の人々が数十、百人殉死されていること
から、渡来人には、一応、その風習があったと見るべきである。
2) 女王壱與に替わって男王が表舞台に立って、纏向ブランドの纏向前方後方墳や定型化した前方
後円墳が建造されるが、この時は殉死が禁止されていた。何故ならば、墓が大きくなれば、殉死
者の数も多くしなければならないからである。殉死の替わりに埴輪を埋めるという画期的なアイデ
ィアが考案されることにより以後、大型の古墳が建造される、いわゆる古墳時代に突入するので
ある。卑弥呼時代に、纏向前方後円墳が各地に建造されたのは、女王国との緊密をアピ−ルす
るためのものであったが、纏向ブランドの纏向前方後方墳や定型化した前方後円墳の場合は、
自然死やヤマト立国に反抗して亡くなった各豪族達の墓である。上述3.により、前方後方墳と
前方後円墳のいずれかを選ぶかは豪族の好みによる。特にヤマト立国に反対していた北部九
州は定型化した前方後円墳を多く建造している。ただし、南九州の場合は、目的が異なるので
ヤマト立国の管轄により、日本を代表する古墳が地元の労働者にて建造された。定型化した前
方後円墳である箸墓古墳の発掘に際し、大王の棺と遺骨が一体分しかない場合は、男性か女
性か、女性であれば若かった(13歳+18年=31歳から壱與である可能性大)か、年巳(すで)
に長大(卑弥呼)だったかが分析できれば非常に特定し易い。
3) 狗奴国(濃尾平野)は、前方後方墳が中心で、卑弥呼時代から4世紀に至り狗奴国を発信源とし
て、中部、東海、北陸、関東、東北へ拡散している。このことから、狗奴国は中部地方以東を属
国として支配していることが解る。だから狗奴国王がヤマト立国の男王として表舞台に立った後、
中部地方以東の前方後方墳と土器が纏向に流入し、纏向前方後方墳のブランドとして近畿近辺
にも広まった。この「国譲り」の平定は、例えば、戦国時代の武将、豊臣秀吉が実施したと仮定し
た場合、スム−ズに事が運ぶだろうと納得するするように、狗奴国王は相当な知恵者の人物で
あったに違いない。狗奴国は狗奴国軍を女王壱與の勅令により、ヤマト立国に派遣していたが
同時に、狗奴国は、ほとんどヤマト立国として活躍していたことになる。したがって、狗奴国(濃尾
平野)に古墳を建造する暇は無かったと考えられる。狗奴国軍による指揮官の死者は近畿地方
に古墳(前方後円墳というわけにはいかないので、円墳か方墳)が建てられて葬られたかも知れ
ない。
4) 女王卑弥呼時代が3世紀初めから、西暦248年までとすると、少なく見積もっても30年〜40年
間、卑弥呼は女王に君臨していたことになるが、同時に、世界でも類を見ない、纏向遺跡独特の
纏向前方後円墳が建造されている。一方、女王壱與は西暦248年から西暦266年までとすると
在位18年間である。その間は、纏向前方後円墳がそのまま引き継がれている。もし、西暦267
年に男王が即位の場合、再び国中が大混乱となることは間違いない。したがって、壱與在位18
年の間に北方系民族に対して、何らかの手を打ってなければならない。西暦266年以後も壱與
が在位していた場合、纏向前方後円墳と殉死という「しきたり」は、例えば、垂仁天皇7年条に、
当麻蹶速(たぎまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)との相撲の起源に関する物語が載って
いるが相撲は死者の霊魂を鎮めるために葬式の場で演じられた儀式(古代天皇のすべて 前之
園亮一・武光 誠 編 新人物往来社)であったが、目的は違っても相撲は今日まで現存するよ
うに、そう簡単には変えられないはずである。纏向独自に半世紀以上に亘って確立された纏向
前方後円墳が定型化した前方後円墳へ、殉死を蛮風とけなし、殉死が埴輪へ簡単に変更できる
のは、その「しきたり」が無かった南方系民族のみである。もし、北方系民族から男王が立った場
合でも、女王壱與と同じ「しきたり」、纏向前方後円墳と殉死が継続されているにすぎない。したが
って、以後の大型古墳時代も到来しなかったと考えざるを得ないのである。実際は、北方系民族
の男王は、即位できない。何故ならば、壱與在位18年間、狗奴国陣営の南方系民族を吸収した
かも知れないが北方系民族に対しては何もしていないからである。おそらく、古墳は、纏向前方
後円墳全盛時代になっていたはずである。南方系民族が男王として君臨したことにより、上述の
ように、多種多様な巨大古墳が次々に林立し、特に、当初はヤマト立国(狗奴国王)との関係に
より、前方後方墳が近畿近辺から以東に拡大し、最終的には、巨大前方後円墳へと人気が集中
していったと考えることができる。狗奴国王の即位式は、壱與が眠っている定型化した前方後円
墳の基礎工事と前方部のスロ−プ部を除いた先の祭壇がまず造られ(約1年間)、そこで実施さ
れたに違いない。それ以後円丘(後円部)と前方部のスロ−プ部とが時間をかけて建造されてい
ったと推測する。(もし、定型化した前方後円墳が西暦250年頃から始まったとすると、壱與と狗
奴国王の協定時に卑弥呼の墓を定型化した前方後円墳へ変更したと考えることができるが、壱
與もこの墓に眠ることになる)
記紀編纂当局の思惑
一方、渡来人(北方系民族)とて、この事態を黙って見過ごしていたわけではない。大和時代(6世紀
頃)では、大和朝廷の重臣である蘇我氏(そがし)を利用して渡来文化と仏教を普及させ、繁栄を謳歌
するが、当然宗教対立により、南方系民族の文化を引き継いだ大和朝廷の軍事、警察を司る物部氏
(もののべし)と対立することになる。その後、西暦645年6月12日には、蘇我氏の子孫である蘇我
入鹿(そがのいるか)が、南方系民族の文化を引き継ぐ大和朝廷の神事、祭祀を司る中臣鎌足(なか
とみのかまたり)(藤原鎌足)と、後の天智天皇(てんじてんのう)である中大兄皇子(なかのおおえの
おうじ)の協力により、騙し討ちにより倒される。その事件を知った父の蘇我蝦夷(そがのえみし)も自
分の屋敷に火を放って自殺した。ここに、蘇我氏一族は滅亡し、西暦645年の大化の改新をもって、
北方系民族と南方系民族の対立は終焉を迎える。以後は、藤原一族と天皇との関係へと発展する。
ところで、神殿を司る神様は、人が生きている時にお願いをするのであり、仏閣を司る仏教は、人が
死んでから極楽浄土へ導いて頂くようにお願いするのである。極楽浄土へ行けない者も中には居るが
この神社仏閣は神様と仏様が宗教対立ではないことが解る。これを悟ったのが廐戸皇子(うまやどの
おうじ)と呼ばれていた聖徳太子(西暦574〜622年)ではあるまいか。彼は仏教を盛んに取り入れ
たが、天皇を中心とした政治を推奨して国力を強めていった。だから、渡来人と南方系民族との間に
一見、矛盾を生じるような政策を講じているように見える。実際、西暦645年の大化の改新以前では
この渡来人と南方系民族の対立は、羞恥的な醜い激しい争いがあったと思われ、南方系民族にとっ
ては、不名誉な時代でもある。そこで、ここに豊聡耳皇子(とよとみみのおうじ)(十人の訴えを同時に
聞いて、各々に指図をしたという言い伝えがある。このようなス−パマンは、人類史上いまだかって聞
いたことがないところから嘘である可能性大)と人民に慕われていた聖徳太子を登場させ、渡来人と
南方系民族を融合するような仲介者の役目を演じている。この頃は、蘇我氏一族が絶大な権力を有
し、法隆寺の建立にも関わっていたのではないかと勘ぐりたくなるが、これらの功績も聖徳太子にすり
替えられているのではないだろうか。はたして、聖徳太子という人物が実在していたのかどうかは疑問
が残る。蘇我稲目(そがのいなめ)の孫、3人は天皇となり、用明(ようめい)天皇、崇峻(すしゅん)天
皇、推古(すいこ)天皇である。稲目の子が蘇我馬子(そがのうまこ)である。聖徳太子は、稲目の孫
の用明天皇が父で、同じく稲目の孫である母(馬子の姪)との間に生まれた第二皇子である。
父用明天皇が病死により亡くなって数年の後に、物部氏が滅ぼされ、崇峻天皇(馬子の甥)らおじた
ちも殺される。この事件に関わっていたのは馬子である。また、聖徳太子の后(きさき)は馬子の娘で、
上述、蘇我蝦夷と兄弟である。蝦夷の子は、上述、蘇我入鹿となる。聖徳太子は蘇我氏の血を濃く受
け継いでいる。
この聖徳太子は、女帝、推古天皇(馬子の姪)に替わって摂政(せっしょう)として、実際に政治を行い
朝廷の政治を改革すべき、家柄に関係なく、実力のある者は高い位につけるような冠位十二階や十
七条の憲法を制定し、ここに、理想政治と理想憲法を成立させるが、これがどのような意味を持つの
であるかを考えてみる。
話は飛んで、現在の日本国憲法は理想憲法といわれているが、その成立過程は、暗黒な時代である
太平洋戦争の敗戦により、過去の反省から生まれた憲法であるが、国民はこれをしっかりと守ってい
るのかどうか疑問である。上述したように、憲法第12条、[自由・権利の保持の責任とその濫用の禁
止]は守っていますか。公共の福祉(人のため)に尽くしていますか。一日一善は実行していますか。
憲法第9条、「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」は守っていますか。軍隊はありませんか。今後
は憲法を改定しようという動きもある。戦後60年間、この理想的な日本国憲法の基、理想的な政治
は行われてきましたか。介護、年金、サラリ−マン増税など、将来に向けて不安は一切ありませんか。
また、日本国憲法では事足りず、十七条の憲法の「和をもって貴しとする」が今や独占禁止法違反の
橋梁談合の温床にもなっているという驚くべき事実は一体どのようになっているのだろうか。
以上の事をもう少し日常的な例で表現すると、あなたがある会社を訪問した時、掲示板に「挨拶をしよ
う」という標語が貼ってあったとすると、どのように考えますか。まず第一に頭に思い浮かべるのは、こ
のビラが貼られた以前は挨拶がほとんど交わされていなかったのだなという情景である。訪問した今
は半々くらいという事実を知る。何年か経って、再度その会社を訪問した時、すべての者が挨拶を交
わしていた場合、もう、ここには、あの「挨拶をしよう」という掲示は無い。すなわち、標語や交通安全
週間キャンぺ−ンとは、目的が達成されていないので実施するのであって、普段為されていれば、何
もそのような運動(キャンぺ−ン)をしなくても良い。すなわち、理想憲法や理想政治が提示されている
のは裏を返せば、その事実が為されていないことを意味するのである。したがって、聖徳太子の摂政
の前、崇峻天皇の頃は、相当乱れた政治だったということが解る。その反省の結果、理想政治と理想
憲法、または、聖徳太子という理想人物を設定しているが、理想政治も理想憲法も守られているはず
もなく、理想人物である聖徳太子もいないと考えざるを得ない。だから、推古天皇の時も、南方系民族
にとっては、屈辱的な事件があったと推測するのである。
もし、聖徳太子の理想政治や理想憲法が行われていたのなら(十七条の憲法の、例えば、「和をもっ
て貴しとする」、「詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必ず謹(つつし)め」(天皇の命令には必ず従
う)という条項を豪族が守っていれば)、後の蘇我入鹿と中大兄皇子の事件や大化の改新はあり得な
かった。
その後、中大兄皇子(天智天皇)(大化の改新後、斉明(さいめい)天皇の時、朝鮮半島の白村江(は
くすきのえ)(西暦663年)の戦い(唐と新羅(しらぎ)の水軍)に大敗、百済(くだら)滅亡、日本は朝鮮
半島進出断念)、近江国(おうみのくに)の大津宮(おおつのみや)へ遷都した翌年(西暦668年)、天
智天皇として即位)、天武天皇(てんむてんのう)(壬申の乱(じんしんのらん)(天智天皇崩御の翌年、
西暦672年、天智天皇の子、大友皇子(おおとものおうじ)と天智天皇の弟、大海人皇子(おおあまの
おうじ)との激戦にて大海人皇子勝利、西暦673、天武天皇として即位)、稗田阿礼(ひえだのあれ)
や天智天皇の子、川島皇子(かわしまのおうじ)らに古事記や日本書紀の基になる教育を施す、その
他、飛鳥浄御原律令(あすかのきよみはらりつりょう)の編纂の指示(西暦681年)、西暦689年、持
統(じとう)天皇の時、この飛鳥浄御原令の法令を施行)、文武天皇(もんむてんのう)(大宝律令(たい
ほうりつりょう))を経て、天皇を中心とした政治がいっそう強固となっていくが、大陸文化(外来文化)
や仏教への感心がますます高まってきた(私達が太平洋戦争敗戦後、アメリカ文化に憧れたように)。
奈良時代では、先の稗田阿礼の仕事を基に、元明天皇(げんめいてんのう)の命で太安万侶(おおの
やすまろ)が文章をまとめた古事記(神代から推古天皇(西暦628年)までの日本最古の歴史書、音・
訓読みの混在した文章)が西暦712年に、太安万侶や舎人親王(とねりしんのう)らが編纂した日本
書紀(神代から持統(じとう)天皇(西暦697年)までの日本最古の勅撰による歴史書、漢文による文
章)は西暦720年に成立する(元正天皇(げんしょうてんのう))。この頃は仏教全盛時代に入るも、西
暦794年に桓武天皇(かんむてんのう)によって奈良の平城京から京都の平安京へ遷都され、仏教
の勢力を退けて、これから約400年間、天皇や貴族を中心とした政治、平安時代へと移り変わる。
以上で、北方系民族(渡来人)と南方系民族(縄文人)との関係、蘇我氏一族と藤原一族との関わり
を終了するが、記紀編纂の思惑を以下の通りまとめていきたい。
西 暦 代 天皇名 帝紀 物語 在位年数 推定平均在位 皇后出身
御陵所在地
前667年 神武東征開始 (7年)
(17年)(古事記は17年くらい)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
前660年 01 神武 有り 有り 76年 103年 日向吾田邑
橿原市(
じんむ)
前581年 02 綏靖 有り 無し 33年 103年 磯城県主 橿原市(すいぜい)
前549年 03 安寧 有り 無し 38年 103年 磯城県主 橿原市(あんねい)
前510年 04 懿徳 有り 無し 34年 103年 磯城県主 橿原市(いとく)
前475年 05 孝昭 有り 無し 83年 103年 磯城県主 御所市(こうしょう)
前392年 06 孝安 有り 無し 102年 103年 磯城県主 御所市(こうあん)
前290年 07 孝霊 有り 無し 76年 103年 磯城県主 大和高田市(こうれい)
前214年 08 孝元 有り 無し 57年 103年 穂積臣
橿原市(こうげん)
前157年 09 開化 有り 無し 60年 103年 物部連
奈良市(かいか)
和珥臣(わにのおみ)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
計559年
計927年
前 97年 10 崇神 有り 有り 68年 西暦267年即位と仮定(すじん)
前 29年 11 垂仁 有り 有り 99年(すいにん)
71年 12 景行 有り 有り 60年(けいこう)
131年 13 成務 有り 有り 60年(せいむ)
192年 14 仲哀 有り 有り 9年(ちゅうあい)
201年 神功皇后 有り 有り 69年
神功皇后摂政元年(じんぐうこうごう)
239年 神功39年 「魏志」、「明帝景初三年六月、倭の女王、大夫難斗(升)米等を−−」を引用
240年 神功40年 「魏志」、「正始元年、建忠校尉梯携(儁)等を遣わして、詔書・−−」を引用
243年 神功43年 「魏志」、「正始4年、倭王、また使大夫伊声者(耆)・掖邪約(狗)−−」を引用
270年 15 応神 有り 有り 41年(おうじん)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
在位年数と神功39年、40年、43年は日本書紀によるが、「魏志記事」引用の大夫難斗(升)米は「た
いふなんしょうべい」、建忠校尉梯携(儁)は「けんちゅうこういていしゅん」、大夫伊声者(耆)・掖邪約
(狗)は「たいふいせいき・えきやく」である。( )内の漢字が魏志倭人伝によるもので正しい。綏靖から
開化までの天皇にて、古事記、日本書紀いずれも物語は無い。物語とは、「旧辞(くじ)」と呼ばれるも
ので、神話や伝説または氏族の伝承が歌などを混えて編纂された物であり、また、「帝紀(ていき)」と
は天皇に関わる王位継承や諸事情を伝えた資料ということになる。
さて、上表の神武天皇と崇神天皇以降は帝紀と物語が有るも、綏靖から開化までの天皇は帝紀のみ
で物語が無い。口承伝承によるものかは解らないが、神武天皇では詳しく物語があるにも関わらず、
綏靖から開化までの天皇では何も無かったとは考えられない。何故ならば、神武天皇即位が紀元前
660年にて、崇神天皇即位を狗奴国王と仮定して、西暦267年とすれば、660+267=927年で
ある。これを9天皇で割る(927÷9=103年)と平均103年であり、綏靖から開化までの8天皇は約
800年に亘り平和で平穏無事だったという事になるが、これは極めて不自然である。神武天皇東征を
崇神天皇の前、西暦267年−17年(女王壱與在位期間、陰で狗奴国王「国譲り」実施)=250年か
ら始まったとすれば、ここから、神武、崇神、垂仁と物語は続いて行くのだから経過経緯としては自然
である。ただし、神武天皇即位後の物語はこの17年の間に凝縮されていると考えなければならない。
だから、狗奴国王=神武天皇=崇神天皇である。すなわち、初代天皇は神武天皇と崇神天皇がハツ
クニシラススメラミコトとして同一人物であることを意味する。神武記は南方系民族の発祥の地である
南九州の宮崎県日向(渡来人と対立しているので優位性を誇示するために、ここは絶対に欠かすこと
ができない必須条件)からの東征というフィクションの物語とした神(女王壱與と狗奴国王が共に「国譲
り」敢行期間)であり、狗奴国王即位後、現人神(あらひとがみ)的物語である崇神天皇へバトンタッチ
される。年代的から考えても、西暦250年から267年への流れは、2人を同一人物としなければ説明
が付かない。日本書紀によると神武東征は紀元前667年であるが、天武天皇(即位西暦673年)期、
西暦681年、稗田阿礼(ひえだのあれ)等の記紀編纂準備段階から計算すると、667+681=1,3
48年前の神武天皇物語を克明に覚えているだろうか、はなはだ疑問である。ここまでの経緯を図示
すると下記の通りである。
(神武天皇東征開始) (記紀準備開始)
前667年 (狗奴国王即位) 後681年
西暦 前930年 前660年 前600年 後250年 後267年 後673年
|
| | | | | | |
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
縄文期→ | 神武天皇即位 崇神天皇即位 天武天皇即位
(縄文人)→|←渡来人影響小→|← 渡来人影響大 →|←縄文人(南方系民族)復活
縄文時代→|←弥生時代 |←歴史が抜け落ちている→|
全縄文人→|←ほぼ縄文人先祖|←過去へトンネルを掘る←
|
ここで考えられることは、渡来人との関わりが何も無いことである。神功39年、40年、43年に魏志倭
人伝を引用しているのが解るが、神功皇后を女王卑弥呼に比定しているように見える。しかし、実際
は、神功皇后摂政元年、西暦201年から崩御年269年の間は、女王卑弥呼と壱與の在位期間であ
り、この間を神功皇后がカバ−していることである。もし、渡来人が日本の主導権を獲得したと仮定し、
神武天皇の即位を紀元前660年とすると、紀元前600年から西暦250年の間は卑弥呼も含めて歴
史が語られたはずである。にもかかわらず、歴史の史実がスッポリ抜け落ちているのは合点がいかな
い。記紀編纂の編集局長と当局は、南方系民族を支持しているのであり、歴史の抜け落ちから考えて
も、いかに渡来人がきらいだったかが解る。したがって、西暦250年から紀元前600年の間の長いト
ンネルを過去に向かって堀り、そのトンネルを抜けると、そこは縄文人の先祖だったと言うことになる。
しかし、トンネルの外側は、世の中、渡来文化花盛りであった。記紀編纂の日本の物語は西暦250
年から始まったと言っても過言ではない。ただし、天孫降臨は邪馬台国時代の卑弥呼または壱與に
比定していて、神話として登場させることによって、歴史の表舞台からは完全に抹消しているのである。
それでは、大和時代(6世紀頃)の蘇我氏と渡来人との関係による物語も、日本書紀では削除すれば
良いと思われるかも知れないが、蘇我氏は仏教との関わりもあり、朝廷内では広く知れ渡っていたた
め無視することは出来なかったと考えられる。渡来人主導権説であれば、蘇我氏を功労者として、最
大限に褒めたたえるはずであるが、極悪者として日本書紀に登場させているのは、記紀編纂の編集
局長と当局が南方系民族の文化を受け継ぐ藤原氏主導によるものと考察しなければならない。
次に天皇御陵であるが、神武から開化までの天皇を神代とした神であるなら天皇御陵は無くても良い。
しかし、天皇御陵を指定しているところから神武から開化までの天皇は現人神として記紀に登場して
いることになる。古代天皇の御陵は中世末にはすべて忘れ去られていたらしく、江戸中期、元禄時代
(113代東山(ひがしやま)天皇、西暦1,688年〜1,704年)に歴代陵墓の調査、治定、修理など
の事業が開始され、江戸末期、文久3年(121代孝明(こうめい)天皇、西暦1863年)から明治初期
にかけて、天皇御陵の本格治定と神武陵をはじめ百以上の天皇御陵の改修が行われていることにな
っている。ところが、記紀編纂当時(西暦681年〜720年)の天皇御陵はどうだったのであろうか。被
葬者のリストが存在したのかしなかったのか、存在しなっかたとは思いたくはないが、渡来人も相当数
入国し、漢字も伝来していて、字音(じおん)表記も可能だったとれば、歌などを混えた漢字表記の天
皇御陵リストが西暦250年以降には在ったとしても不思議ではない(漢字については、魏志倭人伝の
一節、「女王国自(よ)り以北には特に一大卒(だいそつ)を置きて諸国を検察せしむ、−−中略−−
郡の倭国に使(つかい)するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺(しい)の物を捜露(そうろ)し、女
王に詣(いた)るに差錯(ささく)あるを得ざらしむ」というように、伝送の文書の如く木簡と思われるが
魏帝からの漢文が卑弥呼に届いていたはずであるから、倭人は漢文を充分に理解し、また、「正始
元年、−−中略−−倭王、使い因(よ)りて上表(じょうひょう)し、詔恩(しょうおん)を答謝(とうしゃ)す
」のような上表(感謝文)を漢文にて魏帝へ送っていたことが解っている。または、漢文から日本語へ
あるいは、日本語より漢文への翻訳文を一大卒(伊都国)が文書にて変換する任務を受け持ってい
たとすれば、日本語の発音を文字で表す必要がある。この時、古事記のように日本語を音・訓読みの
混在した漢字表記にするのが便利であるので、このような方法が用いられたのだと解釈できる)。とこ
ろで、日本民族は戦後60年経ってからでも、太平洋戦争時の遺骨を収集するなど、遺骨や先祖に対
する墓には特別な執着を持っているところから察するに、天皇御陵やその他豪族の墓に対する被葬
者リストは在ったと仮定すべきである。
それならば、神武から開化までの天皇御陵は一体誰の墓を比定したのか。西暦249年以前において
は、不明墓が多数存在し、大半は渡来人の墓だったと思われるが、その墓を比定するわけにもいか
ないのであるから、私が考えるに、確実に南方系民族であり、御国(みくに)(国譲り)のために、後の
天皇のために、果敢に戦って命を落とした狗奴国軍の指揮官達の墓ではないのだろうか。上表の神
武から開化まででの天皇御陵は、開化を除いて橿原宮の周囲に位置し、また、皇后の出身は神武、
孝元、開化を除いて身分の低い磯城県主(しきあがたぬし)である。崇神天皇は磯城(しき)(奈良県
磯城郡)の瑞籬宮(みずかきのみや)という奈良県桜井市金屋付近の磯城郡に居を構えているところ
から、綏靖から孝霊までは、狗奴国軍の指揮官達の墓と名を天皇名らしくアレンジして、記紀に登場
させているのである。崇神天皇は狗奴国王の時、磯城郡出身の娘と狗奴国軍の指揮官を結婚させて
出兵させたのだろう。
神武、孝元、開化に比定された指揮官は、もう少し上級のクラスにて、戦死ではなく病死か自然死など
で亡くなったと考えられる。また、開化に至っては、その指揮官は狗奴国王(崇神天皇)即位後に亡く
なり磯城郡奈良市に葬られた。これら指揮官達の墓は上述したように円墳か方墳であるが、もちろん
西暦712年の古事記成立時には指揮官の被葬者リストは処分されていた。
以上をもって、神武から開化までの九天皇においては、天皇に関する神話などの物語が何も無く、神
武では必ず架空話を作成しなければならないのに対し、続く八天皇に至っての作為は極めて難儀であ
ったところから、記紀に書けなかった事が解る。これが「欠史八代」と謂(いわ)れる所以(ゆえん)であ
る。もし、これらの天皇が実在しているならば、八代の内、いずれかの天皇においては、何らかの神話
や物語が存在するはずである。それとも、渡来人とは、良い関わりが無かったので黙秘したのかは解
らないが、ここで、魏志倭人伝に戻って、対馬国から狗奴国までの官と副官などの名前を提示すると、
以下
の通りである。
国 名 王 大官・官
次官以下 その他
対馬国 卑狗 卑奴母離
(ヒク→ヒコ(彦))
(ヒナ モリ)
一大国(壱岐国) 卑狗
卑奴母離
(ヒク→ヒコ(彦))
(ヒナ モリ)
末盧国 無し
伊都国 爾支
泄謨觚
(ニキ)
(エイモコ)
柄渠觚
. 凹 (ヘイキョコ)
奴 国 儿馬觚 卑奴母離
(ジマコ)
(ヒナモリ)
不弥国 多模
卑奴母離
(タマ) (ヒナモリ)
投馬国 彌彌
彌彌那利
(ミミ) (ミミナリ)
邪馬壹(臺)国 卑弥呼 伊支馬
彌馬升
難升米(大夫) 都市牛利(次使)
(邪馬台国) (ヒミコ)
(イキマ) (ミマショウ)
(ナンショウベイ)(トシギュウリ)
彌馬獲支
伊声耆(大夫) 掖邪狗(大夫)
(ミマカキ) (イセイキ)
(エキヤク)
奴佳革是
載斯 烏越
(ナカテ) (サイシ) (ウエツ)
狗奴国 卑弥弓呼 狗古智卑狗(クコチヒク→クコチヒコ)
(ヒミキュウコ→ヒミクコ→卑弓弥呼(ヒクミコ)→ヒコミコ(彦尊)?)
註); これらの呼び名は一般的な漢字読みによる
対馬国と壱岐国の官はどちらも卑狗(ヒコ)であるが、南方系民族でも要領がいい者は、渡来人の陣
営でも充分に役目を果たすことができるも、辺鄙(へんぴ)なところでしか任務は与えられない。それ
に、狗奴国の官が狗古智卑狗(クコチヒコ)と名乗り、また、狗奴国王はヒコミコ(彦尊)と発音すれば
天皇の息子であり、しかも、正真正銘の南方系民族である。すなわち、名の一部にヒコ(彦→男子の
美称)と発音するのが当時の南方系民族の男子の特徴だったのではないだろうか。以上の4人を除
けば、その他の北方系民族(対馬国〜邪馬台国)では、上表のようにヒコ(彦)と名の付く者はいない。
歴代の主な天皇について、漢風諡号(かんふうしごう)と和風諡号(わふうしごう)を下記の通り列挙す
る。これらの諡(おくりな)は一般的には死後に付けられるが、和風諡号の成立時期は6世紀半ば頃、
安閑死後、宣化、欽明朝ではないかと考えられている。
(A)安閑以後の和風諡号を参考に、後から付けられたと考えられる
代 漢風諡号 和風諡号
01 神 武 カムヤマトイワレヒコ(ヒコ系)
02 綏 靖 カムヌナカワミミ
03 安 寧 シキツヒコタマテミ(ヒコ系)
04 懿 徳 オオヤマトヒコスキトモ(ヤマトネコ系)
05 孝 昭 ミマツヒコカエシネ(ヒコ系)
06 孝 安 ヤマトタラシヒコクニオシヒト(タラシヒコ系)
07 孝 霊 オオヤマトネコヒコフトニ(ヤマトネコ・ヒコ系)
08 孝 元 オオヤマトネコヒコクニクル(ヤマトネコ・ヒコ系)
09 開 化 ワカヤマトネコヒコオオヒビ(ヤマトネコ・ヒコ系)
10 崇 神 ミマキイリヒコイニエ
11 垂 仁 イクメイリヒコイサチ
12 景 行 オオタラシヒコオシロワケ(タラシヒコ・ワケ系)
13 成 務 ワカタラシヒコ(タラシヒコ系)
14 仲 哀 タラシナカツヒコ(タラシヒコ系)
神 功 オキナガタラシヒメ(タラシヒコ系)
15 応 神 ホムタワケ(ワケ系)
−− − − −
−− − − −
26 継 体 オオド
(B)実際に和風諡号が付けられたと考えられる
代 漢風諡号 和風諡号
27 安 閑 ヒロクニオシタケカナヒ
28 宣 化 タケオヒロクニオシタテ
29 欽 明 アメクニオシハルキヒロニウ
30 敏 達 オサダヌナクラノフトタマシキ
31 用 明 タチバナノトヨヒ
32 崇 峻 ハツセベノワカササギ
33 推 古 トヨミケカシキヤヒメ
34 舒 明 オキナガタラシヒヒロヌカ(タラシヒコ系)
35 皇 極 アメトヨタカライカシヒタラシヒメ(タラシヒコ系)
37 斉 明 同 上
(タラシヒコ系)
36 孝 徳 アメヨロズトヨヒ
38 天 智 アメミコトヒラカスワケ(ワケ系)
40 天 武 アマノヌナハラオキノマヒト
41 持 統 オオヤマトネコアメノヒロノヒメ(ヤマトネコ系)
42 文 武 ヤマトネコトヨオオジ(ヤマトネコ系)
43 元 明 ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ(ヤマトネコ系)
44 元 正 ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ(タラシヒコ系)
45 聖 武 アメシルシクニオシハルキトヨサクラヒコ(ヒコ系)
和風諡号は当初、(B)の安閑天皇以後に付けられたとすれば、「タラシヒコ」という和風諡号の天皇は
舒明天皇が最初であることが解る。(A)の成立は、記紀編纂準備段階から記紀編纂時までで、(B)
と狗奴国軍の指揮官名を参考にして、和風諡号は、地名や自然現象などの普通名詞を適当に組み
合わせたものと思われるが、神武から仲哀天皇までは、やたらと、ヒコを連発しているのは、その当時
は、狗奴国軍の指揮官を含めて南方系民族の男子が、いかに、「彦」であったかが伺える。その中で、
綏靖天皇の和風諡号がカムヌナカワミミでありヒコでは無いのは、魏志倭人伝の投馬国の官・次官が
彌彌(ミミ)であるので、もしかすると、渡来人が南方系民族に同調して参加した指揮官だったかも知
れない。神武、綏靖、安寧のように漢字2文字で表示する中国風の諡(おくりな)を漢風諡号というが、
この成立は、奈良時代の後半、淡海三船(おうみのみふね)(西暦722年〜785年、奈良時代の漢
学者)によって神武から元正(げんしょう)天皇までの歴代天皇の諡号が選定されたことに始まると考
えられている。
漢字伝来に関する記述を下記に示し考察を試みる。
西 暦 天皇年号 主要略記
239年 神功39年 「魏志」、景初三年十二月、詔書(しょうしょ)して倭の女王に報じて曰く、「親魏
倭王卑弥呼(しんぎわおうひみこ)に制詔(せいしょう)す。−−中略−−−今、
汝(なんじ)を以(もっ)て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮す。−−中略−−」と
(魏帝より「親魏倭王卑弥呼」を命ずる旨の詔書(公文書)を卑弥呼へ送る)
240年 神功40年 「魏志」、正始元年、建忠校尉梯携(儁)等を遣わして、詔書・印綬を奉じて倭
国に詣り、倭王に拝仮し、−−中略−−倭王、使に因(よ)りて上表(じょうひょ
う)し、詔恩(しょうおん)を答謝(とうしゃ)す
(金印仮綬に対する上表(感謝文)を魏帝へ送る。墨、筆、木簡ありとすべし)
247年 神功47年 「魏志」、正始8年、倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼と素(もと)よ
り和せず、−−中略−−檄(げき)を為(つく)り之を告諭(こくゆ)せしむ
(狗奴国との対立による檄文届く)
248年 神功48年 「魏志」、卑弥呼以て死す。卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三なるを立てて
王と為す。政等、檄を以て壱与を告諭す
(壱与に檄文にて狗奴国との関係を諭(さと)す)
(邪馬台国時代では、漢字は倭王とその権力中枢の最高機密にて門外不出であったと考えられる)
250年 神功50年 女王壱與と狗奴国王の和解による協定成立
266年 神功66年 女王壱与崩御
267年 神功67年 狗奴国王(崇神天皇)即位(漢字の扱いは邪馬台国時代と同じ)
284年 応神15年 百済(くだら)の王、阿直岐(あちき)を遣わして良馬2匹を天皇に献上する
285年 応神16年 百済より王仁(わに)が阿直岐の推薦にて来日し、皇太子の菟道稚郎子(うじ
のわきのいらっこ)の師となる。この時王仁が論語十巻と文字習得のための
教材である千字文(せんじもん)一巻を天皇に献上する(古事記、日本書紀、
続日本紀のみの記述のため疑問視されている)
(漢字は外交上極めて重要であることから、朝廷内で解放され、皇太子や豪族が学習したのでは、
その解放を機に、漢字の伝来を明確(神功皇后ではなく応神天皇期)にするため王仁なる人物を
設定してインパクトを与える。漢字は朝廷内にて最高機密で門外不出)
538年 宣化03年 百済から仏教と経論がもたらされる(仏教伝来、日本書紀では552年)。隋書
倭国伝では、「文字無し、ただ木を刻(きざ)み縄を結ぶ。仏教を敬(うやま)う。
百済において仏教を求得し始めて文字あり」
(漢字は民衆(坊さん希望)までは解放されていなかったが、百済より仏教伝来と同時に文字解放)
魏志倭人伝による邪馬台国時代では、魏帝から詔書(公文書)が卑弥呼に届けられたり、その上表
(感謝文)が魏帝に送られたりして、漢字は外交文書として成り立っていることが解る。だから、その当
時は中国から輸入された墨、筆、木簡などがすでに存在していたと考えるべきである。一番重要なこ
とは、渡来人が政(まつりごと)を実施していたことである。他国との関係を口約束で済ますのはあまり
にも無謀と言わざるを得ない。インカ帝国や北海道のアイヌは外交が無かったので「文字なし」でも通
用したのではないだろうか。邪馬台国時代での漢字の扱いは、倭王とそのごく一部の権力中枢でのト
ップシ−クレットであり、完全に門外不出であったと考えられる。
ところで、日本語を漢字表記にすると非常に便利であるが、そのような方法が適用されていたかどう
かであるが、人類は、猿人→原人→旧人→新人(ホモ・サピエンス)と進化した過程で、20万年前に
出現した新人(ホモ・サピエンス)が言語を獲得してから以後脳の発達は無いとされている。しからば、
邪馬台国人の子供に現代教育を適応させた場合、現代人と同様に一流企業や国家公務員にりっぱ
に就職する実力は身に付くはずである。よって、現代人が便利だと思うことは、過去にも既に実施さ
れていることになる。例えば、古代に建立された五重塔(西暦607年)や唐招提寺(西暦759年)は
組物という免震技術により地震対策が講じられていたように、現代地震対策でも感心するような方法
がとられていたなどである。明治維新以後、アルファベット(ABC−−)の外国語が日本に入って来た
ときも、ロ−マ字(西暦1885年(明治18年)、物理学者、田中館愛橘(たなかだて・あいきつ)が日本
式ロ−マ字考案)という表音文字にて日本語を表記していることから考えても、古事記のような音・訓
混じりの漢字表記が考案されていても不思議ではない。漢字は邪馬台国時代には、もう既に伝来して
いたと認識すべきである。そこで、日本書紀には、神功皇后を卑弥呼に比定するような、「神功39年」
「神功40年」、「神功43年」において、魏志倭人伝を引用しているところから、漢字の伝来は神功期
ではなく応神16年であると、わざわざ、王仁なる人物を登場させて強調していることである。これは漢
字の伝来が邪馬台国時代ではなく、南方系民族の応神天皇以降である旨を主張していることを意味
する。応神16年(西暦285年)は漢字伝来ではなく、漢字は外交上重要な伝達手段であるから、朝
廷内で解放され、皇太子や豪族が学習を始めたのではないかと考える。学習によって、いろいろな出
来事を記述したくなるのが人間の本望であるが、西暦250年の頃、または、それ以前の事件などを
参考に資料が作成されたと考えれば、西暦250年の頃は、西暦285年から35年前である。現在で
も、戦後60年前の太平洋戦争の事とか、その頃の先祖の墓がどこに在ったかは克明に覚えている
だろう。ただし、戦後60年前から現在までの国家の史実を時系列に並べるとあやふやで前後するか
も知れないが、印象的な出来事は鮮明に蘇ってくるはずである。このような事が古代でも実施されて
いたとすれば、狗奴国軍が活躍していた時期も鮮明であったと考えられ、かなり正確な資料が作成さ
れていたことになる。その結果、狗奴国軍の指揮官の墓、天皇陵(皇后含む)、豪族やその家族の墓
などの所在地が確実に解っていたということが伺える。
「隋書倭国伝」の「文字無し」は 西暦
538年(宣化03年)まで、民衆に解放されていなかったが、百
済より仏教伝来と同時に解放され、まず坊さん希望者が学習し、その他の民衆へは、極めてゆっくり
と浸透していったと考えられる(江戸時代の寺子屋、西暦1872年(明治5年)の学制・教育勅語・複
線学校教育(普通教育と職業教育)体系、西暦1947年(昭和22年)の学校教育法を経て、現在では
識字率ほぼ100%に達している)。
それでは、次に聖徳太子の話題に移る。聖徳太子の存在の有無を問う記録、「隋書倭国伝」には、次
のように記されている。
開皇(かいこう)二十年(西暦600年(推古天皇8年))、倭王、姓(せい)「阿毎(あめ)」、字(あざ)「多
利思比孤(たりしひこ)」、「阿輩雞彌(おほきみ)」と号す。使いを遣わして闕(けつ)(長安)に詣(いた)
る。−(中略)−王の妻「雞彌(きみ)」と号す。後宮に女六、七百人有り。太子の名「利歌彌多弗利(り
かみたふり)」と為す。(日本書紀には記録がない)
倭王を天皇とすると、姓は無い。中国皇帝を意識して、無理に姓を付けようとすると次の通り。
倭王の姓名は、「天(あめ)の帶日子(たらしひこ)」、「大王または大君(おおきみ)」と称する。(中略)
王の妻は「后(きみ)」と呼ぶ。後宮に女六、七百人有り。太子の名は「裏皇(りかみ)の田村」である。
天皇という意味で、姓は「天(あめ)」、字は「帶日子(たらしひこ)」、太子の名は田村皇子にて、名目
的には摂政をしていることにした意味の姓は、「裏皇(りかみ)」、字は「田村」とした。(帶日子(たらし
ひこ)は古事記による。実権は推古天皇に代わって蘇我馬子が実施しているが、実際は、田村皇子
が摂政をしているかのように見せかける「リカミタフリ」という名の太子役を蘇我入鹿が扮し、裏で真
の摂政を執っていると仮定する。以後、この二人の蘇我コンビで隋の使者に接見する。ただし、隋国
に対しては摂政は無し
とする)
安閑(あんかん)天皇以後にて、初のタラシヒコ系の天皇は舒明(じょめい)天皇しかいない。すなわち、
タラシヒコは舒明天皇の名で、太子(リカミタフリ)は舒明天皇の皇子時の名前(田村皇子)を示してい
ると解釈できる。とにかく、聖徳太子(廐戸皇子、豊聡耳皇子または聖徳太子の息子の山背大兄皇子
(やましろのおおえのおうじ))ではないことは確かである。この頃は女帝の推古天皇であるが、大王を
偽装するため男王を演じたと考えられる。
西暦607年(推古天皇15年)、小野妹子が遣隋使として隋へ渡った翌年の西暦608年(推古天皇1
6年)、煬帝(ようだい)の使者として小野妹子と一緒に日本を訪れた裴世清(はいせいせい)に、あぐ
ら姿をした、この大王(多利思比孤)が接見をしている。大王は誰だか定かではないが、舒明天皇の
和風尊号名を借りた蘇我馬子、太子は田村皇子の名を借りて詐称した「裏皇(りかみ)田振り(たふり)
」を演じる蘇我入鹿ではないかと思われるが田村皇子本人ではない。后(きさき)が居て、あぐら姿か
ら推古天皇でもない。
この当時は、天皇の実名を口にするのは御法度であったが、タラシヒコという天皇名を言えたのは蘇
我氏以外には存在しない。隋帝に対して対等関係を保持するため、天皇名に姓を付けて、日本を代
表する国家君主である大王であることを付け加えている。大王の妻は普通名詞なので、一般に、后(
きさき)を后(きみ)と呼んだのだろう。
また、蘇我入鹿が田村皇子の振りをするので「田振り」としたのか、あるいは、タムラをタムリ、タフリと
変化させた造語を適用したのかは解らないが、「リカミタフリ」とすることで、田村皇子を悟らせないよう
にする(西暦600年は、田村皇子は8歳である。蘇我馬子、入鹿が田村皇子を口にすることは、田村
皇子を推薦する誤解を生む。ここは、絶対に隠す必要があることからタムラのタしかヒントを与えない)
タラシヒコという和風名は、蘇我馬子が舒明天皇を意識して、田村皇子には内緒に、日本で始めて勝
手に決めた尊号であるが、天皇の死後にも付けるべき諡(おくりな)なので、蘇我氏(馬子、蝦夷、入
鹿)以外は、田村皇子本人でさえ誰のことだか
解らなかった。故に、アメタラシヒコは「固有名詞」にて
タラシヒコは天皇のデフォルト名(空白名)(普通名詞)では無い。
舒明天皇即位時、和風尊号として用いられたかは解らないが、舒明天皇=タラシヒコという噂は流れ
ていたと考えられる(どんなに秘密にしていても、長い時が経てば、人は必ず周囲の誰かにポロリと漏
らさずにはいられない)。その後、あるいは、天武・持統天皇以後、諡が付けられた際、タラシヒコに因
(ちな)んで舒明天皇と舒明天皇の皇后である皇極(斉明)天皇にタラシヒコ系の和風名が下記の通り
宛(あて)がわれたのだろう。また、蘇我氏血統最後の天皇(女帝)、元正(げんしょう)天皇もタラシヒコ
系であり、在位、西暦715年〜724年後、蘇我氏とタラシヒコの関係は完全に消滅し締めくくられる。
西 暦 天皇年号 主要略記
629年 舒明01年 舒明天皇即位 和風諡号名 オキナガタラシヒヒロヌカ(タラシヒコ系)
641年 舒明13年 舒明天皇崩御(皇胤紹運緑では49歳)
642年 皇極01年 皇極天皇即位(舒明天皇の皇后) 和風諡号名 アメトヨタカライカシヒタラシ
ヒメ(タラシヒコ系)。蘇我入鹿執政
645年 大化01年(孝徳) 6月12日 中大兄皇子、大極殿で入鹿を殺す。蘇我氏滅亡
−− − − −
715年 霊亀(れいき)01年 元正天皇即位 和風諡号名 ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ(タラ
シヒコ系)
724年 神亀(じんき)01年 聖武天皇即位 和風諡号名 アメシルシクニオシハルキトヨサクラヒ
コ(ヒコ系)
また、「隋書倭国伝」に記されている太子については、隋国に合わせるために使用したもので、日本
での立太子は、早くても、西暦681年(天武10年)の飛鳥浄御原律令編纂開始時に、天武天皇の皇
子である草壁(くさかべの)皇子が最初ではないかと思われるが、天皇には即位せず死去している。
だから、「日本書紀」の推古元年(西暦593年)「廐戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を皇
太子(ひつぎのみこ)にお立てになって、政務を総裁させ、国政執行の権限をことごとくおまかせになっ
た」というのは極めておかしい。もし、立太子制度があるならば、下記に示すように西暦622年に聖徳
太子崩去後、蘇我馬子大臣が崩去するまで4年間経過しているが、蘇我馬子のことだから、例え病気
を患っていようと、這いつくばってでも、この間、とっくに次皇太子を定めていたはずであるが、目の黒
いうちに、何故、適任の田村皇子を決めなかったのか、また、推古天皇が崩御するまで、更に2年間も
延長できたのに、ほったらかしにするとは如何なものか?。確かに、前にも申したように、日本人が施
行するすべてのシステム(法律含む)には、耐震偽装のように欠陥があることは重々解っている。ここ
まで、ファジ(いい加減)とは、あきれるばかりである。
西 暦 天皇年号 主要略記
622年 推古30年 聖徳太子崩去(49歳)
626年 推古34年 蘇我馬子大臣崩去
628年 推古36年 推古天皇崩御(日本書紀では75歳)
しかも、推古天皇が崩御されてから、ご丁寧に、蘇我氏内紛(聖徳太子の子、山背大兄皇子を押す境
部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)(蘇我摩理勢)と田村皇子を押す蘇我蝦夷臣(そがのえみしのお
み)(蘇我毛人)との対立)による天皇の後継者争いまで勃発している。推古天皇の崩御の問題がある
から、あるいは後継者争いを無くすために立太子制度があるのになんたる失態!。
日本国憲法では、第一章 天皇
第一条 【天皇の地位・国民主権】 天皇は日本国の象徴であり−−−−−
第二条 【皇位の継承】 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところに
より、これを継承する
というように、皇位継承は重要な条項であることが解るが、何故、聖徳太子はわざわざ十七条憲法を
制定したのに、この立太子制度の成文化追加による十八条憲法ではないのか納得がいかない。
以上のような状況を踏まえると、「皇太子」という現代語は日本書紀編纂時に適用されたのであろうか
ら、逆に言えば、推古天皇時代は、立太子制度がなかったということを証明している。
また、中国の漢代(前漢(紀元前206年〜後7年)、後漢(後25年〜後220年))以後、天子の位を
継ぐ皇子を皇太子、諸王の子を太子というように確立しているので、立太子制度が紀元前619年の
神武42年以来存在していたという「日本書紀」の記述は非常に作為的であると言わざるを得ない。
推古天皇時代において、全体的に、最も不思議な振る舞いは、西暦592年12月、推古天皇即位後、
翌年、聖徳太子は皇太子となって摂政を開始しているが、この当時太子の年齢は20歳である。未熟
だったのか解らないが、何故、推古天皇に代わって、天皇に即位しなかったのか?。その後、官位十
二階、十七条憲法制定や西暦606年(太子の年齢33歳)には「法華経」を講じたり、実績を積み重
ねているにも関わらず、天皇に即位できないのはどういうことなのだろうか。
推古天皇のような女性天皇の場合は、適当な男子天皇資格者が居ないか、未熟である場合に限り、
天皇として、一時的に即位できるのだから、聖徳太子のような男子で卓越した能力の持ち主は天皇と
して最適任者であると思われる。
西暦622年太子崩去後、田村皇子即位により、舒明天皇に引き継ぎできたはずなのに?。年齢的に
満たしていなければ、数年間一時的に,再度、推古天皇が天皇名を変更して即位すれば良い。
1) 推古天皇→聖徳天皇→舒明天皇へ継承する場合
西暦592年 593年 603年 604年 606年 622年
| | | | | |
推古天皇即位 冠位十二階 十七条憲法 聖徳天皇即位 舒明天皇即位(30歳)
廐戸皇太子摂政(20歳) (法華経、33歳)
聖徳天皇崩御
(舒明天皇誕生)
2) 推古天皇→聖徳天皇→推古天皇(天皇名変更)→舒明天皇へ継承する場合
西暦592年 593年 603年 604年 610年 622年 628年 629年
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推古天皇即位 冠位十二階 十七条憲法 聖徳天皇即位 推古天皇即位 舒明天皇即位
廐戸皇太子摂政(20歳) (37歳) 聖徳天皇崩御 推古天皇崩御
(舒明天皇誕生) ┗即位年は舒明天皇即位年齢37歳に合わせる
というような、上記2方策が考えられる。日本書紀によれば、崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺され、皇位
が空になったので、推古天皇にお願いしたが断られ、3度目のお願いにてやっと仕方なく即位されるく
らい遠慮されていたのだから、何故、天皇として最もふさわしい聖徳太子に皇位を譲る事をしなかった
のか、最も疑問が残る行動である。要するに、天皇に即位できない人物が摂政を実施していたのでは
ないかという証拠を呈しているようなものである。日本書紀では、「豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしき
やひめのすめらみこと)(推古天皇)の二十九年に、皇太子豊聡耳尊(とよとみみのみこと)(聖徳太子
)が薨(こう)じ、その後皇太子を立てないまま、三十六年の三月に天皇はお崩(かく)れになった」とあ
るが、何故、次皇太子を立てなかったのか、その理由が述べられていない。おそらく、立太子制度が
無かったから安閑としていたのではないだろうか。中大兄皇子の場合は、皇極(こうぎょく)天皇と同一
人物である斉明(さいめい)天皇崩御(西暦661年)後、自らの意志にて皇太子のまま素服(あさもの
みそ)(白の麻)をつけて称制(しょうせい)(天皇が在位していない時、皇后・皇太子が政務を行う)さ
れ、西暦668年に天智(てんじ)天皇に即位している。聖徳太子は本人の希望で皇太子のままだった
のか?。上述のように、群臣(ぐんしん)(多くの臣下。諸臣)は一回も聖徳太子(男子皇太子(聖人天
才))を天皇に推薦していない。太子が亡くなっても次皇太子は決めていない(立太子制度の疑問)な
ど、その真意がはきりしていない。また、後に聖徳太子と一族(上宮(かみつみや)王家)の滅亡という
ように、この一族は突然現れ忽然と消え失せるミステリの中、聖徳太子は藤原氏の秘密兵器ならぬ影
の代理人としての広告塔だったのか?。
西 暦 天皇年号 主要略記
600年 推古08年 倭王、阿毎多利思比孤(あめたりしひこ)が隋へ遣使(日本書紀に記述なし)
607年 推古15年 其の王、阿毎多利思北孤、小野妹子らを隋へ派遣し、隋帝に国書呈示(日本
書紀では最初の遣隋使の記述である)
608年 推古16年 夏4月(陰暦の夏は4月〜6月)に、小野妹子、隋帝が派遣した使者、裴世清
(はいせいせい)を伴って九州に帰国
6月15日に、客人(裴世清)たちは難波(なにわ)の津(海岸)に着いた
秋8月3日(陰暦の秋は7月〜9月)、客人(裴世清)は都(飛鳥)へ入った
9月11日に、客人裴世清は帰途についた(日本書紀による)
上記、開皇(かいこう)二十年(西暦600年(推古天皇8年))の遣隋使は、わざわざ天皇名に「姓」を
付けて(阿毎多利思比孤)、倭王の真意を謁見持に伝えたにもかかわらず、隋帝との意志の疎通がう
まく行かないばかりか、冷たくあしらわれて失敗したので日本書紀には記録されていない。
西暦607年の遣隋使の第2回目派遣では、隋帝も文帝(ぶんてい)から煬帝(ようだい)の時代になっ
ていたが、第1回目派遣をバ−ジョン・アップして強力な対等関係を誇示する「国書」を呈示する。「隋
書倭国伝」では次のように記されている。(日本書紀には、始めての遣隋使(小野妹子)の記録あり)
大業三年((西暦607年(推古天皇15年))、其の王、多利思北孤、使を遣わし朝貢す。−−中略−
−其の国書に曰く、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無(つつがな)きや云云
(うんぬん)」と。帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿(こうろけい)に謂いて曰く、「蛮夷の書無禮なる者有り。
復た以て聞するなかれ」と。
「日が昇る東の国の天使(日本の天皇)から、日の沈む西の国の天使(隋国の煬帝)へお手紙差し上
げ候、ご機嫌如何ですか」と国書の前文に書かれていた。帝はこれを覧(み)て憤慨する。「野蛮人の
国書、無礼な奴め!二度と聞きたくない」と外交担当官の鴻臚卿に言ったというのであるが、ここで、
天使というのが二度記されていたのが気にくわなかったようである。なぜならば、天使は世界で唯(た
だ)一人、煬帝のみ(only one)であるというのだ。人徳が卓越した聖徳太子が相手を憤慨させるよ
うな、このような国書を差し出すのであろうか?。蘇我馬子の仕業であれば納得するだろうに。しかし、
西暦608年(推古天皇16年)に、小野妹子が帰国する際、煬帝は日本へ隋使、裴世清(はいせいせ
い)を派遣している。すなわち、外交は成功したと評価すべきである。
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