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山東半島横断の旅--烟台、青島、青州、臨ツ、済南・


山東半島随一のリゾート--青島


2002年4月

桟橋から見た夕日の中の青島

 青島といえば、何はともあれ「青島ビール」そして「ドイツ」だが、いまの青島はそれから脱出しようとしているように見えた。一時は日本軍の占領下にあったのだが、もちろん、そんな痕跡はどこにも残っていない。実感としていえば、青島にはあまり見るべきものがない。一番楽しんだのは、青島市博物館の仏像だったが、人それぞれの趣味で見所を探すことだ。海の景色が素晴らしい。見事な海浜もある。間違いなく海鮮もいいだろう。ここは一級のリゾートと見た。

2002年4月18日 青島到着 

 12:30 烟台駅前広場の長距離バスターミナルから青島行きに乗った。バスは10分もたたないうちに満員になり発車した。烟台ー青島間の道路は、ほぼ片道3車線で高速道路並み。ただ所々で舗装が痛んで工事中、車線規制があったりしたが、ほぼ順調に走った。青島市内に入ってから交通渋滞があり、やや時間がかかったが、烟台駅からおよそ4時間で青島駅前に到着した。バスの旅は3,4時間どまりがいい。

 16:30 バスを降りると、すぐ客引きが群がってきた。最初のおばさんのいうことを聞いて、彼女の案内するホテルに行った。眺めも何もない通り端のまるで一昔前の商人宿のような小さなホテルであるが、一応、トイレ、シャワーつきの2人部屋で60元というので手を打った。最初は40元を主張した。2日目は45元にするという約束にした。あとで客引きのおばさんが部屋に来て、40元と言い張れといって帰って行った。それが面白かった。

 17:30 フロントでビールを買って飲んで、まずは落ち着いた。長時間のバスの後だったが、元気を出して、とりあえず青島のシンボル的存在の桟橋まで行くことにした。これだけは今日中に処理しておきたかった。駅前に出て、海岸が見えたのでそちらに歩いていくと、何と桟橋が見えるではないか。やはり駅前は有利だ。途中で女の子の栗売りに引っかかった。一つ食べたらおいしかった。一斤6元だという。高いから3元にしろといったら、半分にして3元だというから、それならやめたと歩き出しだら、やはり半分にして3元といい、袋を持って追いかけてきたので、仕方なく買ってやった。海岸には大勢人が出ていた。風が冷たい。凧揚げの人も何人かいた。

 

 18:00 前海桟橋に入るには、入場料が必要だった。2元 海風に吹かれて桟橋の突端の八角亭(回瀾閣)まで歩いた。この建物、すでにどこかで見たことがあるぞ、一瞬、デジャビュかと思ったが、すぐ思い出した。あの有名な青島ビールのラベルに印刷されている建物だ。何か懐かしさを感じる。

 この桟橋から見る青島の街は、高層ビルが林立した近代都市そのものだった。夏だったらもっとすごいだろうなと想像するほど、人がたくさん集まっていた。とくに夕暮れ時に、夕日の沈むのを見るのがよい。

 歴史を振り返ってみると、1897年、ドイツは膠州湾を占領し、青島に軍港と商業港を開いた。きっかけはドイツ人宣教師二人が殺害されたことだった。ドイツ軍は艦隊を派遣し数百名のドイツ兵を上陸させ、この辺一体を占領し、支配した。翌98年、北京で清国政府はドイツが膠州湾を99年間租借することに同意した。

 1914年8月23日、日本は第一次世界大戦に連合国軍の一員として対獨宣戦布告し、同年9月2日および18日に竜口およびラオシャン湾から前後して上陸し、1897年以降青島を植民地としていたドイツ軍を攻略、11月7日ドイツ軍は投降、以後青島は日本の植民地とされた。

 第一次大戦終了後、1922年、中国政府はいったん青島の主権を取り戻したが、1938年1月10日、日本軍はふたたび山東頭およびこの桟橋から上陸、当時の青島市長兼陸海軍総指揮官沈鴻烈は、蒋介石の無抵抗政策に準じてすでに撤退していたので、日本軍は一発の銃弾も打つことはなかった。

 しかし、いま立っているこの桟橋には、戦争の影は豪もない。もともとこの桟橋は、清代光緒年間の1891年に外国軍の侵略を防ぐための軍用施設として造られたもので、観光施設ではない。現存の桟橋は1933年に国民党政府が造ったものである。

 ここを去るとき、夕日が静かな海に光を散りばめながら、ビルの谷間に沈んで行った(写真トップ)。

 18:30 桟橋公園を出て、地下道兼商店街の中のトイレに入ると、小でも2角だと料金を取られてしまった。男性の小は無料のところが多いのだが。大の方を覗くと、ドア、鍵つき、きんかくしの便器だった。そういえば烟台市博物館のトイレも、鍵はついてなかったが、ドアつきできんかくしの便器だった。中国のトイレも変革中だ。

 「歩き方」によれば、欧風のビアホールがあるというので、海岸通り公園前、独逸風建築の桟橋賓館まで歩いて行ったが、地下は海鮮料理のレストランだったので入らずに戻った。この海岸通りには何軒かのホテルが並んでいたが、部屋から見る景色は最高だろうなと思った。また、今度青島を訪ねるような機会があったら、こんなホテルのオーシャンビュー(海景)の部屋に泊まろう。

 ホテルに戻る途中、中山路を少しそれたところに、人が大勢入っている餃子屋さんがあったので、そこに入って芹菜餃子を食べた。20個で5元、ビール3元で合計8元だった。この店では「大蒜」(ダスアン)といったら、すぐ生のニンニクをもってきてくれた。ニンニクをかじりながら食べたここの餃子は、最高においしかった。20個全部食べた。大連でも牛肉でなく韮菜餃子を食べてみるべきだった。しかし、ここで迷わず芹菜餃子を頼んだのは、その学習効果だった。初めて中国を旅行した人の中には、餃子の注文の仕方にたいへんとまどったという話をよく聞く。 

  19:30 ホテルに戻ったが、とても寒かったので、そのまま布団にもぐりこんだ。21:30まで仮寝してしまった。暖かい長袖のシャツに着替えて、明日の旅程の参考資料を読んだり、日記の整理をしたりして23:50就寝。

桟盈賓館 青島市南区蒙陰路11号 Tel:(0532)2961980 青島火車站から100メートル、中山路から50メートル、桟橋から300メートルのところにある小さな宿。双人間標準間(トイレ、シャワー、テレビ付き) 60元 駅前で客引きに連れて行かれた。最初の晩だけ60元払ったが、2,3日目は40元にして貰った。部屋はとても狭かった。しかし、すべてにおいてとても便利のいいところだった。

烟台(駅前広場)ー青島(駅前) (235km) 長距離バス 発車随時 所要時間 約4時間 31元 

2002年4月19日 青島ーラオシャン 

 今日の空はあくまで晴れていたが、風が冷たかった。

 5時に目がさめた。部屋でいつものような朝食を取っていたら、6時半頃、ドアをノックするので、出てみると若い女性が「今日はラオシャンに行くのではないか」と聞いてきた。フロントから連絡が行ってたらしい。「何時か」と聞いたら、「7時半出発です」と答えた。「このツアーではどことどこに行くのか」と聞いたが、実際はその通りではなかった。

 昨夜目を通した資料にはこうあった。

 ”ラオシャン([山勞]山、以下労山という)は海抜1133メートル、黄海に突っ込むようにして、嶮しくそびえ立つ。海と連なるようにして立つところから、海山奇観、”海上第一名山”と呼ばれる。「斉記」には“泰山[口/虫]云高、不如東海[山労]”(泰山は雲より高いけど東海の労山には及ばない)と記されている。そこからさきは東に向かってはてしない海が続く奇岩怪洞の山に、神仙が棲むと信じられていたのであろう。昔から“神仙窟宅”“霊異之府”と言われる。斉の景公がここで牛を飼っていたことがあるところから「牢山」と呼んだ(牢は牛など家畜を囲って飼う小屋の意。なるほど屋根の下に牛がいる)。

 秦の始皇帝、漢の武帝はこの山に登って仙人を尋ね、唐の玄宗皇帝から派遣された人も、入山して丹薬を練り、暦代の文人名士も、ここに 遺跡を残した。西漢の時、 道教はここで広げられ、宋、元、明、清代を経ても 衰えなくて“天下第二寺院”と言われる。盛んな時は九宮、八観、七十二庵があり、労山道士も有名であった。

 労山には太平宮・上清宮・白雲洞・明霞洞・斗姆宮などの道教の宮観があり、太清宮が首位になっている。現在労山太清宮は、全真道の重要な宮観である。

 《太清宮誌≫によると、このお寺は漢武帝の建元元年(紀元前140年)に建て始めた。主な建物は三宮殿、三清殿、三皇殿および翰林院、経神祠などである。蒲松齢が≪聊斎志異≫の≪香玉≫の中に描いた意志の堅い降雪はこのお寺を背景にしたのである。”

 7時半、待っててくれた若い女性の案内人についてホテルを出て、近くの集客点に待機していたバスに乗りこんだ。料金25元はホテルのフロントに支払い、換券証を貰い、それをバスの中で切符と交換した。

 8時出発。市内を回って、他のバスから客を集めたりしてから海岸に出た。ほぼ満席だった。桟橋、八角亭などの説明もしている。最初のストップは、八大関区の花石楼。一時、蒋介石が使っていたという古い建物で、もとロシア人が1903年に建てた西欧古典式の重厚な石造りの建築である。重厚な花崗岩で作られているところから、花石楼と呼ばれるようになった。入場料5元 屋上に展望台がしつらえてあって、眺めがすばらしかった。 ここから見る第二海浜はすばらしかった。

 
花石楼             第二海浜

 ガイドは車内で一生懸命にいろいろ説明しているが、もう耳が中国語を拒否している。

ーーー太平宮は労山の東岸にあります。青島から車で約1時間30分。そこに到着するまでは、西欧風の青島市街とは違った、岩山、紺碧の海、点在する漁村などの風景を楽しむことができます。

 この太平宮の近くには「綿羊石」「獅子峰」など奇岩、奇峰が点在し、またロープウェイからは崖に書かれた真っ赤な文字「天下第一寿」を見ることができます。仰口索道で頂上まで登ると、素晴らしい眺めが楽しめます。・・・・・・ ーーー

 
    仰口索道              パノラマ風景が素晴らしかった頂上

 労山は市内からおよそ50キロ。しばらく山間を走ってロープウエーの駅に着いた。どこに行くのか見当もつかないまま、ロープウエーに乗り、人について歩いた。やっとたどり着いた頂上の百人は乗れるという大きな岩には、力強い字で天苑と大きく刻まれていた。天苑は上天の苑。神々がこの上に立って、世界を眺めたのだろうか。吹き抜ける涼風が気持ちいい。

 ここまで来て、ようやくここが仰口景区の頂点だと分かった。この天苑までの登りはきつかった。とくに覓天洞(べきてんどう)のなかの真っ暗闇の石の細い通り抜けのところは、ひとの懐中電灯のかすかな光を頼りに足下もおぼつかなく、頭もぶつかりそうで身を屈めなくてはならず、ステップもきつくて、そのうえ重いバッグを持っていたので、大変だった。まさに洞中伸手不見五指、汗をびっしょりかいた。

 
覓天洞                天苑      

 頂上に着いて、下界を眺めたのは爽快だった。覓天とは大意「目を細くして天を探す」といえるから、この洞はまさにその通り、光を求めて洞穴が垂直に天に向かっている。

 下りはきちんと整備された石段の道で、松の林を抜ける風を受けて、眺めもすばらしく、爽快に降りることができた。とくに帰りのロープウエーは、風が爽やかで気持ちよかった。

 

 天下第一寿は大きな岩に大きな字で寿と彫られていた。その字の高さはゆうに20メートルを超え、幅は15,6メートルはある。石壁に彫られた世界で一番大きい寿という字であるところから、天下第一寿と呼ばれている。

 老子に死而不亡者寿ということばがある。死んでも亡びない者が寿なりということをいっている。この大きな字の周囲に大中小いろいろな寿が、多数彫られていた。ここは道教の聖地である。道教の修行者は、朝に夕にこの字を眺めては、修行に励んだのであろう。

知人者智、自知者明。
勝人者有力、自勝者強。
知足者富、強行者有志。
不失其所者久。死而不亡者壽。 (「老子・道徳経」第33章)

人を知る者は智なり、自ずから知る者は明なり。
人に勝つ者は力有り、自ずから勝つ者は強し。
足るを知る者は富み、強(つと)めて行う者は志有り。
其の所を失わざる者は久しく、死して亡びざる者は寿(いのちなが)し。

 他人のことが良く分かるのは知恵があるから。自分自身のことが良く分かるのは、そのうえに明知があるから。他人に勝つものは力があるから。自分自身に勝つものは、もっと強い。自らが足りることを知る人は、豊かであり、つとめて努力する人は志がある。『道』を失わない人は長続きし、死ぬまで自分の無為自然の態度を堅持していた人は寿(いのちながし)である。『道』の体得したものは「死してなお寿し」の境地にまでたどり着く。

 昼食は青椒肉片、ご飯、ビールの定番。青椒が大切りで味気なかった。ご飯もおいしくなかった。それでも21元取られた。典型的な観光料金である。同じテーブルのおじさんが餃子を頼んでなかなかサービスされなくて、大声で怒っていた。料金も高かったらしい。店から出るとき、店の前に並べてある小さな鮑が一つ20元と書いてあるのを見て、隣の席に座っていた中国人男性が、普通これなら2元だ! といっていた。

 

 昼食後は、太清宮景区に行った。労山には多数の道教寺院があり、四川青城山、湖北武当山斉名と並ぶ道教の聖地といわれている。中でも代表的なのは太清宮であるが、予想通り、建築、彫刻などの点から見れば、何のこともない寺だった。漢の武帝建元元年(紀元前140年)創建という古い歴史を持った道教寺院だが、いまは信仰の対象にもなっていないようだった。もっとも現存の建物は、おおむね宋の時代のもの。古い木がたくさん境内にあって、ガイドが盛んに説明していたが、何のことやらさっぱりだった。

 一応、寺の見物が終わると、お茶の説明、販売。労山一帯はお茶畑がたくさんあり、わりと知られたお茶の産地であるらしい。いれてくれたお茶はまずかった。効能書だけは貰ってきた。

 帰りはまた海岸を通って街に戻った。佳世客(ジャスコ)がある辺りは、ニュータウンであるようで、日航、全日空などの営業所もこの地区にある。辺り一帯には同じつくりの住宅がたくさん並んでいて、新開地の様子を見せていた。青島で働く日本人もおおかたは、この辺りに住んでいるという。

 駅で降りる人がいたので、一瞬一緒に降りてしまおうと思ったが、ツアーの内容を把握するためにも、最後までと思ってそのまま乗りつづけた。最後は船に乗って海から街を眺めるコースで、この寒いのに天気も好くないので、乗らなかったら40分ほどバスで待たされてしまった。(翌日の市内観光で同じコースがあったので、それに参加した。)

 駅の切符売り場であさっての青州行きの切符があっさり買えた。32元 何の雑作もなかった。

 ホテルと中山路のあいだの肥城路にあるインターネットカフェに行ったら、日本語が使えないというので、自分のパソコンを持ってくれば電話線貸してくれるかと聞くと、いいというので、パソコンを持って再度出かけた。しかし、電話線のコネクターが違っていて接続できなかった。仕方なく、その店のパソコンでインターネットアクセスをした。最初に日本語表示のソフトのダウンロードをして10分ほど待った。西安の友人からメールが入っていた。西安で泊まる予定の西安外語大宿泊所の電話番号をメモして、お礼のメールをローマ字でいれた。家族にもメールしておいた。結局、あれこれ1時間ほど使ったが、1元だった。これはこれまでで最低の料金である。

 すでに19時半になっていたので、夕食でもと少し先に歩いたら、北方餃子という店があった。昨夜と同じ味を期待して入ってみて驚いた。まったく同じ店だった。こんなにホテルに近かったなど思いも寄らなかったので、うれしい驚きであった。昨夜は遠回りして帰ったようだ。今日は白菜水餃にした。ビール込みで7.5元。前に座った中国人男性は、ニンニクの皮をむいてお酢に浸してから食べていた。なるほど、こうするといくらか口臭は消えるかも知れない。まねをしてそのようにしてニンニクを食べた。今日の白菜餃子もおいしかった。餃子は毎日でもいいなと思った。

 20:30 ホテルに戻ったが、相変わらず部屋の中も寒い。しばらく何もする気にもならず、布団にもぐりこんで寝た。それにしてももう2日間お風呂に入っていない。寒くても仕方ない。シャワーを浴び、髪を洗った。さっぱりした。思ったほど寒くなかった。缶ビールを飲んだ。北京で買い込んで道中ずっと持ち歩いていた最後の缶ビールだが、ようやく始末が付いた。もっともこれは何かの時にと、予備にしていた事情もある。

 何とか少しだけでもと、日記を付けて寝た。23:50だった。

 労山には見所がたくさんあり、丹念に見て歩けば、1週間はかかるだろう。しかし、遠来の客にとっては、それだけの時間を割く値打ちはなさそうだ。他にもっと見なければならないところがあるだろう。そこで「ちょっと、どんなところか、覗いてみよう」といった軽い気持ちで、一日游のバスに便乗してみた。公共バスも利用できるが、時間がかかりすぎるし、見所の選定も難しい。やはり、出来合のツアーに参加するのがよい。

2002年4月20日 青島博物館 

 曇り、時々薄日。昨夜はやはり寒かった。なんとなく寒々として気持ちよく寝られないので、隣のベッドの毛布を一枚持ってきたかけて寝た。5時に目が覚めた。お湯が出れば洗濯しようと思って、お湯の栓をひねっても、何も出てこなかった。6時まで日記を付けながら待ったが、それでも出てこない。服務員に開水を貰って熱いお茶を飲んだ。昨日はパンを買っておくのを失念した。ホテルの横の店で買ったが、あまり好いパンではなく、あるいは古いかもしれないと思いながら、おそるおそる食べた。

 フロントで今日の分の宿泊費を支払う。最初60X3=180といったが、それは違う、昨日と今日は40にするという約束だ、といったところ、電話をかけていたが、それで納得した。40元不足分を支払って一件落着した。3泊で140元だった。

 9時、ホテルを出て、駅前から青島博物館までバスに乗ろうとしたが、係員に聞いてもわけが分からない。タクシーが早速寄ってきて乗れという。嫌だ、バスで行くと突き放したものの、どのバスで行くのか見当も付かない。それで市内地図を買った。2002年4月版で最新だといっていたが、それが違っていた。大間違いだ。地図によると307路のバスが行っているはずで、運転手に聞くと行かないという。仕方なくタクシーに乗って青島博物館に着いた。門前に表示があり、青島博物館は青島市西部にある労山区の文化博覧中心に移転したので、大学路から321路のバスに乗って博覧中心で降りてくださいと書いてあった。タクシー代10元も払ったのに。バス停が分からないで往生した。大学路のバス停には321路の表示がない。通りがかりのおばさんに聞いたら、横の通りにあるというのでそちらに行ったらあった。通りの名は桟橋路、バス停の名は大学路とあった。人民会堂のすぐ前だった。どこの場合でも、バス停を探すのがたいへんなのだ。

 

 ちょうどバスが出たところで大分待たされた。しばらく待たされて、ようやくバスに乗って1元入れたら2元といわれた。この路線は長距離走るので、距離にあわせて2元一律にしてしまっているようだ。昨日労山に往来したときに走ったところで馴染みがあったので、バスを降りるところに迷うことはなかった。ところが博物館の入り口までの取り付けが分からない。何の表示もないので、どちら側から入るのか、最初歩いたほうは間違いで、戻ってぐるっと回る形になった。ものすごく大きな建物だ。青島博物館のほかに、科技、美術館の二つを収容している。それで文化博覧中心と名づけたのだ。科技部門は中国でいまや有数の電気機器メーカーに成長したハイアール(海爾)によって創設されたものである。

 
       現在の博物館に収容されている姿          屋外に展示されていたときの姿(注)

 博物館の正面入り口に、この博物館随一の宝物、すでに写真で見ていた、大きな2体の石仏像が威圧的に立っている。ただ、その容貌はあくまでも柔和で、穏やかな微笑を浮かべてさえいる。北魏時代(AD500-550)の仏像に共通な典型的なアルカイックスマイルである。ここに移される以前の旧博物館では、野外に置かれていたようだが、いまは館内に収容されていて、つまらなくなった。(注)平野京子様のサイト「中国歴史散歩」より許可を得て転載したものである。

 この博物館では、写真は撮ってもよい、しかも、フラッシュをたいても差し支えないとは、じつに寛容なものだ。入場料20元 展覧は1階から3階まであって、仏像と古代文化は1階にある。開館は4-9月が0900-1730 10-3月が0900-1630とあった。

 入り口正面に置かれた一対の北魏の石仏像は、こう説明されていた。

 ”この一対の石仏像は、それぞれ高さが1尺8寸、重量は30トン、「丈八仏」と俗称されている。1400余年前、山東臨ツーにある竜泉寺にあったもので、1928年日本が済南および膠済鉄路沿線を占拠したのち、ツ河店駅まで輸送して、日本に運び出そうと準備を進めていた。その後中国人民の抗日闘争が澎湃として起こり、1930年に仏像を取り返して青島まで戻して、当時の四方公園に安置した。1979年、青島市博物館(旧址)に収めたが、1999年に現在地に移した。” ツ=錙のかねへんをさんずいに換える。

 展示室の最後の辺りに面白い説明を見た。

 1937年  牛一頭が100元だった。
 1947年  油条1/5が1元だった。
 1949年  一粒の米が130元もした。

 解放後の超インフレを物語るものである。

 12時退出。1時間半ほどいたことになる。

 321路のバスで、駅まで戻り、ホテルにいったんバッグを置いてから、隣の食堂で昼食をとった。ニンニクの芽の肉炒めといったら、芽がなかったらしく、外に買いに出ていた。味はそこそこ、値段もそこそこだった。ホテルに戻って、歯を磨いている間に、市内見物バスに乗る連絡をしてくれたようで、しばらくして迎えがきた。労山の一日ツアーに乗った人には、市内ツアーの無料サービスがある。きのうの労山の呼びこみをやっていたおじさんがガイドできていて、やあ、あなたか、と喜んでくれた。このおじさん、何を勘違いしているのか、自分を教授だとみんなに紹介していた。

 バスは最初に船で回るコースに案内した。昨日は曇っているうえ、寒かったので、参加してなくてよかった。35元 結果はまあ、乗らなくても好いな、というところである。その後は花石楼まで走った。ここではビデオを撮りそこなっていたので、5元の入場料をまた払って、上の展望台まで登った。他の人たちは中に入らなかったようだ。今日は土曜日で、たくさんの新郎新婦が写真を撮りにここにやって来ていた。

 
花石楼は新婚さんに大人気    迎新花車・中国でも一部は日本より欧米化(でもプレートには「白頭偕老」とある)

 さらにバスは信号山公園の回転展望台に案内した。12元 信号山は海抜98メートルの小高い丘、そのうえに20メートルほどのキノコ形の塔が立っていて、一番上が市内が一望できる回転展望台になっている。高いところから見るのは、気持ちの好いものだが、烟台山灯台よりは、感激が少なかった。信号山はもと旗を掲げて船の入港を知らせる信号旗台が設置されていたので、「挂旗山」と呼ばれていたところである。

 17時過ぎにホテルに戻った。メモをなくしてしまったので、新しいメモ帳に記録を取った。小遣い帳も大きくなると重くなるので、4月21日からの十日分を別に作った。そんなことで時間がどんどんたってきてもはや20時になったので、夕食を取りに外出した。 

 結局、今日も北方餃子になった。20個ものでまだ試していないのは、三鮮水餃だけなので、これを頼んだ。少しエビの味がするようだった。これもおいしかった。この店ははずせないと思った。

 帰りは少し街を歩いてみた。中山路に出ると角に百盛(パークソン)があった。外はあまりぱっとしなかったが、中に入ってみるとしっかりした店になっていた。時計売り場で、時計のバンドを取り替えようとしたが、係員がもう退社したという。何ということか。中山路も9時過ぎると、店が半分ほど閉まっていて、灯りがついているのは、ほとんどが海産物を売るお土産屋さんだった。今晩も寒かった。

 ホテルに戻って、少し日記をつけようと思ったが、もう億劫なのでやめて寝てしまった。21:45 就寝。 メモをなくして困るのは、避暑山荘の部分がそっくり抜けてしまうことだ。

2002年4月21日 青島ー青州 

 緊張していたのだろう。昨夜早く寝たせいもあるかもしれない。2時、3時、5時と目が覚めた。5時半には起床した。荷物のパックを最初にして、6時に開水を貰いに部屋を出た。自分で開水をポットに入れて戻った。すぐコーヒーをいれ、きのう買ったパンにピーナッツバターで朝食をした。中国に来て以来、ずっと欠かしていない習慣になった。

 6:45 チェックアウト。外は濃いもやだった。ここでは洗濯はしなかったが、シャワーを浴びた後のタオルがなかなか乾かなかったので、たぶん、湿度が高いのだろう。

 7:00 駅の待合室は2階にあって、重い荷物を持ち上げるのに苦労した。7:05 改札 7:15 乗車。この列車はK416と車次が付いているように、観光列車である。食堂車を除いて、すべて2階建てになっている。この時期なら、当日の朝でも切符が買えそうだ。とにかく高速道路の建設と共に、バスとの競争が激しくなってきている。バスなら同じ時間で到達し、料金もそこそこ、何より火車よりはるかに頻繁に出ているので、便利である。今回はほとんどバス旅行だが、青州行きのバスはなく、たぶん済南行きのバスに乗って途中で降りることになるのだろう。面倒なので、この区間は火車にした。32元

 火車が青島駅を出てから30分もたつと、田園地帯が拡がる。景色は蘇州辺りと差異ない。この辺りも日本軍が席巻したのかな、と漫然と風景を眺めていた。どこから舞い込んでくるのか、車内には柳絮がさかんに舞っていた。

 【印象】 青島では、博物館がよかった。労山はどうでもよかった。ホテルは行きがかり上、商人宿のようなところに泊まってしまったが、このようなリゾ−トでは、やはり少し費用がかかっても、海岸通のオーシャンビューの部屋を取るべきだ。

K416次 青島ー青州 (240km) 07:30発 10:57着 10号車下56号 新空調硬座特快 32元

(2004.11.01) (2007.01.25) 

つぎの「青州・臨ツ」旅游記を見る  


 
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