渚と委員長な日々『第一話・渚と徹』
著・安藤零治
走り出す。足を前へ前へ。本条渚は加速する。そして左足で力の限り地面を蹴る。その瞬間、身体は重力に逆らって中空に舞う。彼女はその時、鳥になる。
マットに背中から着地した後も、彼女は暫く空を見上げていた。既に太陽は西の空遠くに引っ込んで、周りの風景は夕焼けに紅く染まっている。どこかでヒグラシが鳴いている。
「おい、何ぼーっとしてるんだ」
渚の視界に突如、古館徹の顔が映る。彼はマットに寝転んでいた渚を見下ろしている。
「他のメンバーはもうクールダウンしてるぞ。渚ももう終われ」
渚はゆっくりと身体を持ち上げ、マットから降りる。次はもっと高くもっと遠くへ。走り高跳びの練習を終えるたび、彼女はいつもそう思うのだ。
他のメンバーは既に帰宅して、しんと静まり返った女子陸上部部室の中。渚は一人、練習用のジャージを脱ぎ、ブラウスと紺色のワンピース型の制服を着る。最後に胸に真紅のリボンを着けて、鞄と鍵を持つ。部室内がきちんと清掃されているか、忘れ物や落し物がないかを確認すると、彼女は電気を消して外に出た。さっきまでは夕焼け色に染まっていた気色が、刻一刻と夕闇に染まっていく。教室のいくつかに光が灯っている。部室の前にはいつもの如く徹が待っていた。
「ごめん。遅くなっちゃった」
渚は彼に向かってぺこりと頭を下げた。
渚と徹はお互いの部室の鍵を持って、体育教官室に向かった。体育教官室は校舎の西側に隣接していて、部室棟はグラウンドの東端に建っている。二人は疲労した身体に鞭打ってグラウンドを横切り、体育教官室に向かった。体育教官室には新任体育教師である伊藤美咲しかいなかった。渚と徹は彼女に鍵を預け少しだけ挨拶を交わすと、足早にその場を後にした。
「俺、自己記録更新したぜ。百メートル十一秒五六。ま、練習だから非公式だけどな」
帰り道、徹は得意げに渚に向かってそう話す。二人は小さい時から、それこそ物心つく前から一緒に育った。同じ保育園、同じ小学校、同じ中学校。クラスもこれまでで五回一緒になったことがある。中学二年の今はクラスこそ離れているが、お互い陸上部の男子キャプテンと女子キャプテンなので、実質毎日顔を合わせている。家は隣同士だし、親も非常に仲が良い。要するに、二人は幼馴染なのだ。渚は徹の満面の笑みを見て、自分も微笑んだ。
他には授業の話、嫌いな先生の話、学生食堂のあまり美味しくないランチの話、図工室の窓ガラスがいたずらで割られた話、面白い友達の話。渚と徹は様々なことを話しながら、銀杏並木のアスファルトを歩いた。時々、時差ぼけのヒグラシが『ジジッ』と鳴いた。空には星がちらほらと散り始め、まん丸で真っ白い月が東の空に浮かんでいる。兎が餅を搗いている模様がはっきりと確認できる。
渚が音楽の時間に皆の前でピアノを弾いた話を終えた時、二人は家の前に着いた。
「じゃ、また明日ね」
「おう、じゃあな」
そして二人は隣どうしの各々の家へ入って行った。
『第二話・渚と委員長』に続く