畏怖される龍・おろちのルーツ−神話・昔話の中の蛇たち−

近藤良樹

 

1.ドラゴン・おろちの生みの親

昔話や神話には、どの民族のものでも、おろちや龍がでてくる。ひとびとを恐怖させ、英雄によって退治される獰猛な存在としてしばしば登場する。だが、現実には、神話や昔話にあるような、ひとをのみこむような龍や大蛇は存在していない。その大蛇は、実際のへびであるよりは、なにかの象徴、あるいは現実の極端な誇張とみなされなくてはならないであろう。へびは、象徴としては、強暴・邪悪とともに、知恵や生命を表すものとなり、女性や男性の性を表現するものともなる。誇張としては、あの蛇行する姿を巨大化してみたり、かえるやねずみを呑み込むのを、ひとがのみこまれるかのように描くものとなる。本稿では、知恵や性の象徴に関することはさておき、現実の蛇の姿に恐れおののきこれを巨大化するような誇張に属するものを中心にして、これを見ていきたいと思う。

ところで山や川で出合うわれわれのおろちであるが、これは、大蛇というほどのものではないにしても、さしあたりは、本物の蛇であったろう。へびは、その独特の姿ゆえに、古来恐れられ、目を見張らせる奇怪な話のかっこうの材料となりえた。退治されるべきおろちは、ひとつには、身近な田んぼや山・池に生息していた、そういう不気味なへびたちであった。

『常陸国風土記』のなかに、新田を開発し池の堤を築くというとき、へびがたくさんでてきて、みんなをなやませ、これを勇敢なリーダーが山などへと追い払う話が載っている。そこでは、へびから逃げるとき、(ふりかえって)これを「見る」者があると、「家門を破滅し、子孫継がず」といった状態にされると言われている[i]。へびは、いつまでもひとを恐怖でしばりつづけ、悪魔的な害悪を及ぼすものと見なされていたのである。このような気味の悪いへびのうちすこし大きいものになると、大蛇となって、昔話のおろちの話になっていったことであろう。

だが、われわれのおろち退治の代表的な話である「やまたのおろち」は、どうもそういう現実的なへびではなさそうである。その巨大なこと「八丘八谷の間にはひわたれり」[ii]といわれている。しかし、いくら大きいといっても青大将あたりのことであるから、せいぜい電信柱ぐらいでないと本物のへびとしては受け入れにくいであろう。とすると、この巨大なおろちは、爬虫類としての現実のへびではないと考えなくてはならない。へびの姿をとったべつの存在だということである。『記・紀』は、さらに、やまたのおろちについて「その身にひかげと檜・榲と生ひ」(古事記)[iii]とか「松栢、背上に生ひて」(日本書紀)[iv]といっている。樹木がそこに生えることができ、「八丘八谷の間に」はいわたっている存在は、河川以外のなにものでもないであろう。あるいは、樹木が生えている川というと、あらゆるものを呑み込みつつ駆け下る身も凍るような山津波を想起もさせる。

古代的心性においては、われわれとちがって、おそらく、川は生きたものととらえられていたのである。川を蛇で表すのは、象徴的にそうしたのではなく、類縁関係にあるものと見てのことであろう。川を生きている巨大な蛇類と見たのではないか。いまでも、(現代の古代人である)こどもに「生きているもの」をきくと(動いていてももはや雲を生きているとはいわなくなる年令になっても、まだ)、「川」は、太陽などとともに生きているというものである。生きていて細長くて蛇行していて、ということで、川と蛇は重なりやすい。蛇が川の神・水の神となるのは、へびが水辺にいることとともに(草の生い茂るようなところでは、砂漠の蛇とちがって、草のない水辺や道端でないと見つけにくい)、プリミティブな心性においては、蛇行する川とへびがかなり近い関係にあるものと感じられていたからではないか。

巨大なわれわれの「やまたのおろち」が犠牲にもとめるものは、「稲田姫」であった。河辺の稲田=水田であろう。その父母の名は、「脚なづち」「手なづち」で「稲田の宮主の神」[v]といわれている。「稲田」をつくり守る存在で、稲田にはいって手で苗をうえ、足で田をこしらえてなでいつくしみ、この田をわが子のように大切にしている存在だったのであろう。この我が身よりも大切な稲田を一瞬にして奪い去ってしまうものとは、河川の氾濫であり、これこそが「やまたのおろち」だったのではないか。あるいは、少女が「年毎に八岐大蛇(やまたのおろち)の為に呑まれき」[vi]というから、おそらく、毎年、人身御供としてこれを川に奉げていたのであり、稲田姫は、稲田ではなく、姫そのもので、つまりは、うら若い女性を川に沈めて殺すということでもあったろう。しっかりした堤防のつくれない時代には川の氾濫を防止するてだてはなかった。あれすさぶ暴風雨の神としての「すさのをのみこと」の支配下にある洪水(おろち)を彼自身にとり押さえてもらおうと、稲田の守られることを祈願して、その制圧の過程を観念的に展開し、つまり、おろち退治をリアルに語り、そのことによって現実的な過程に良い影響を与え河川の氾濫・洪水をなくし、かつ生け贄の悲惨をも回避しようと試みたものであろう。

われわれの大蛇・おろちは、川であり水の支配者である。恐ろしい暴風雨・洪水と恐ろしい蛇が重ねられて一体化したものが、おろちであり、龍であったろう。川は、洪水をもたらす恐怖の存在で災いの元凶となるが、水稲によって生活するものには、川の水が利用できることは不可欠であり、川は恵みの元でもある。善悪両面を河川はもつ。この河川のそばから、われわれは離れられないのであり、川つまりは龍・おろちは、深く生活に入り込んでいるものとなる。

だが、グリムらの龍(ドラゴン)は、特殊な地域では河川の氾濫に負っていたかもしれないが、一般的には川との結びつきはなく、恐怖の蛇がもとになって、これが誇張され、単におひめさまを誘拐したり住民に危害を加える恐ろしい存在になっているだけである(グリムの『ドイツの伝説』によると、アルプス地方では、川があばれて木々や岩を砕き下るさまを、「龍Dracheがでた」[vii]と表現していたとのことである。暖かくなって雪消の水が一気に流れ下る姿は、恐怖心を抱かせそうである)。川と重なることは一般的ではないから、邪悪な災いの元凶は、川のような長々としたへびの姿はとらなくてもよいように思われるが、それでも、しばしば、へびの姿をとるドラゴン・おろちにしようとする。そうしているのは、神話・昔話の聞き手をして、恐怖すべき奇怪な存在ということで納得させるには、その姿自体が恐怖をよぶ蛇が一番ということだったからであろう。ただし、河川とのつながりがないことも手伝って、蛇行する細長い管の姿はとらなくてもよくなっていったのであろう、絵に描かれるときは、ヨーロッパのドラゴンは、手足をもつ爬虫類様のものとして表現されることが多い。

描かれるヨーロッパの龍(ドイツならDracheとかLindwurm)は、中生代の恐竜のような姿になっているのだとすると、はたして蛇(Schlange)が誇張されて想像のドラゴンたちが作られているといえるのか疑問になるかもしれない。だが、ヨーロッパで、想像のドラゴンを支える現実のものは、おそらく蛇以外には存在しない。ワニや大とかげが誇張されて熱帯地方から入ってきたとしても、その姿自体は人にさして恐怖をよばないし、第一棲息していないから、ドラゴンの現実的土台としては、恐怖のへびをもってする以外になかったはずである。龍は、Lindwurmとも言われる。Wurmとは、みみずや回虫の類いをいう。気味の悪いみみずが巨大化したのがLindwurmであろう。手足のない帯状のものである。へびかへび状のものが巨大化して大地をのたうつのである。歴史をさかのぼると、ヨーロッパの龍がどこからやってきたのかは大いに議論となることであろうが、龍の想像と民間におけるその伝承継続の根本・支えが恐怖のへびによっていることは、われわれと同様であろう。

われわれの龍は、へびへの恐怖が創造しただけではなかった。恐怖の川がこれを支えてもいた。この川=龍が他方にあって、龍に長大さを求めたから、その寸法を縮めるわけにはいかなかった。新幹線「のぞみ500系」のような細長い巨大なすがたを保たせ続けた。だが、ヨーロッパの龍には、この川という制約はなかった。かれらの龍は悪の権化で、もっぱら英雄が退治すべきものとして登場することになったが、のぞみ500系のような姿では、戦うに困難なものがある。手足がほしい。手足をつけると、のぞみ号は長いから、ムカデのように多足となってしまう。空を飛ぶために翼までつけるとなると、描くにも困難となる。といったことで、改造されたドラゴンは、胴体を短くして、せいぜい一対の翼と手足をもったものになり、500系の16両の車両は切り詰められて1両にと矮小化されたのであろう(ドラゴンは、へびのような姿のものから、足のみをもつもの、翼のあるものまでがある。これは、進化だったのか退化なのか。足を捨てた蛇の立場からいうと、優美な500系のぞみが一両編成のローカル線の気動車に格下げされたようなもので、甚だしい逸脱だといわなくてはならない)。

ところで、おろち・龍は、川や水の存在ではなく、むしろ、火の存在とされることもある。ヨーロッパのドラゴンは、一般に火をふくものとなっている。たとえば、グリムの『メルヘン』の「悪魔とその祖母」の話では「火の龍」[viii]をいうし、「ふたごの兄弟」の話の龍は火を吹く[ix]。火山の溶岩の流れるさまが、へびを思わせることもあろうが、溶岩を見ることができるのは限られたところになり、一般的ではない。へびと火の関係は、おそらくその根本は、へびの独特の舌によるものであろう。へびの舌は、そのさきが割れており、これを頻繁に口から外に出して激しく揺れ動かす。その様子は、あたかも燃える炎の動きのように見える。へびが水の神であるはずのわが国でも、『道成寺縁起絵巻』では、へびは火をはきかけている。その割れて激しくゆれ動く舌が炎にみえたのであろう。また、火災の巨大な炎は、めらめらと燃えひろがり、のたうち、これを見るものを恐怖させる。その炎への恐怖は、恐ろしいへびと(その舌に)重ねられえたことでもあろう。

わが国の赤いまだら模様のある蛇「やまかがし」は、怒らせると鱗間のあかい皮膚を見せてその前半身をあかく変身させるという。火のへびである。筆者の見たそれは、火というより「血色」の記憶であるが(50年以上前の記憶で、浅い井戸に落ちて上がれず子供たちに棒でつつかれて憤慨していたか、疲れきっていたものであった)、へびの色は個体差が大きく、火色に見えるのがいるのかもしれない。数年前に見た若い(中年太りしてないスリムな)やまかがしの鱗の「あか色」は、見事なオレンジ色で、地も黒色というより、空色を思わせ、そのまだら模様は、ハンミョウの羽根の色どりに似ていて、はっとするぐらいに鮮やかできれいであった。仮に前半身の皮膚か鱗が全体としてそのような鮮やかなオレンジ色になるのだとしたら、まさしく、それは「火の蛇」である。「やまかがし」の名は、山を「こがす」とか「かがやかす」といった、火の蛇を意味しているものなのかも知れない。キリスト教の『旧約聖書』にも「火のへび」[x]がでている。この毒蛇にかまれて多くが死ぬということになっている。毒蛇にかまれたら、やけどのような痛みがするというが(すべての毒蛇がそうなのかどうかは知らないが、少なくともわが国の「はぶ」や「まむし」にかまれての痛みには灼熱感がともなうといわれる)、そのへびの舌の炎と、かまれた時の灼かれるような痛みは、へびを火の存在と見なすことを可能にしたのであろう。エジプトのファラオのひつぎ頭部の額を飾る蛇(コブラ)も、火を吹いて敵を倒すのだといわれている。

昔話・神話のへびは、水の主となり、火の存在ともなっているのであるが、現実のその多くは、大地をはう存在である。ギリシャ神話では、へびは、その現実の通りに、なんといっても大地の存在、地下の存在である。ラーオコーンを絞め殺すような水蛇もときにはでてくるが、多くは、大地の存在であり、大地に関わるものが、しばしばへびとして表現されることになる。アテナイの最初の王ケクロプスは大地ガイアの子でその足は、へびだったとか、地下にすむメドゥーサの髪や、冥府の番犬ケルベロスの尻尾も、へびだったとかいわれている。グリムらのメルヘンのドラゴンは、その延長上にあり、しばしば地下に住んでいて、お姫さまを誘拐し、英雄や王子さまから退治されるべき存在として登場する。かれらの龍は、ときに空を飛ぶ翼をもらってもいるが、多くのへびの現実がそうであるように、本来的には大地の存在とみなされている。だが、我々の場合は、蛇・龍は、なんといっても、川と重ねられて水の存在となっているのである。

へびは、地の存在であり、水の存在であるとともに、その独特の舌の動きからであろう火の存在ともみなされている。「地水火」の存在である。となると「風」で地水火風の四大がそろうが、実は、へびは、風、空中の存在でもあった。龍は、竜巻がその代表的な現われとなろうが、空・風に舞う存在である。が、われわれの身近に見る現実のへびには、どこにも風の特徴をなすものはない。それでも、熱帯地方には、空を滑空するへびは存在しているようで、蛇腹を平らにして、むささびが滑空するようにブーメラン様になって空を飛ぶことがあるという。へびは、地水火風のすべてに関与するものとみなすことができそうである。

 

2.恐怖の対象

氾濫する恐怖の河川と、不気味なへびを重ね、さらにはときどき生じる竜巻なども重ねて、想像の巨大な生物である龍をわれわれは創造している。だが、かりに人がへびに対して恐怖の感情をいだいていなかったとしたら、龍やおろちは、この世には存在しなかったことであろう。誰かがそういう想像上の存在を創造したとしても、一般の者がその存在を承認し昔話あたりにまで入ってポピュラーなものとなるようなことはなかったにちがいない。かりに蛇がかわいいものであったとしたら、その小さいままをペットにして机上においてかわいいとぐろをまかせて楽しむことであろう。おろちのように巨大化したのでは、愛玩の対象としてはあつかいにこまる。

恐怖のへびだからこそ、その恐怖に見合う大きさにとこれを巨大化していくのであろう。恐怖の河川は、生きていると見なされたとしても、生きた川としておけばよいことであって、へびとすることはないのであるが、川を、木の根っ子や蔦、あるいは牛の尻尾や髪の毛などにはせず、へびに見たてたのは、へびが恐怖の存在として、恐怖の河川と重なったからであろう。巨大な蛇としての龍とかおろちの話は、ひとびとの蛇への恐怖心がこれを創造しささえてきたのである。恐怖心が、つえほどの青大将を電信柱のおおきさのおろちにと巨大視したのであり、恐怖の河川の氾濫を不気味なへびの様相においてとらえて、あばれる龍とし、人をのみこむおろちと見立ててこさせたのである(ヨーロッパの龍(Dracheとか Lindwurm)の場合、へびへの恐怖は、一般には川への恐怖とは重ねられることはないから、へび自体について、小さなへびに大の男が恐怖したというのではみっともないこともあり、これを誇張して、大へびとし龍としたのであろう)。

『今昔物語集』のなかに、へびぎらいの男の話がでているが、かれは、三尺ほどのからすへびをみただけで真っ青になって驚倒し、転び転び京の都を北へはしり西に走り南へ走りして逃げかえり、うちでぶったおれたという[xi]。『沙石集』では、大蛇を射殺したものの、もの狂いして「狂ひ死」したとか、小さなへびをくしざしにしたのだが、それが殺しても殺しても現れて、「身の毛いよだち」やがて「狂て死にけり」と語っている[xii]。この恐怖のありようからすると、その恐怖の対象は、強烈な危険・危害をもたらす存在と想定されることになろう。巨大なおろち・龍でなくては、その恐怖に見合わないということになる。彼らほどではないとしても、普通のひとも、なんでもない無毒のへびに驚怖する。へびは危険ではないと知性が判断していても、それよりはパトス(感情)の方を信じるなら、へびは、強烈な危害をわれわれにあたえるものとして存在しているのである。

では、なぜ、へびは恐いのであろうか。強盗や暴走車が恐いのは、それが危険で、危害の加えられることを思って恐いのである。へびは、そういう危険を現実にあたえるものなのであろうか。確かに、毒蛇は、農作業をするものにとっては、身近にいるやっかいな存在で、かまれるとその猛毒が身体をまわり死に至ったり、かまれた付近が壊死する等、強烈な災いをもたらす恐怖すべきものである。だが、われわれは、無害と知っているはずの青大将を前に恐怖するのである。さきに挙げた『今昔物語集』の男は無毒のからすへびに恐怖した。多くの者は、その動転ぶりを笑えないはずである。危険はないと重々承知していても、怖いのである。車の場合、暴走車は(危険だから)怖いが、普通の車は怖くはない。狂犬は怖いが、我が家のブルドッグはいとおしい。だが、へびは、無毒・無害のへびであっても怖いのである。ひとに危険をもたらすからということで蛇を恐れるのではなさそうである。危険なものへの一般的な反応としての恐怖という、普通の恐怖の説明ではかたづかないところがある。どうも、理由ははっきりしないもののようである。仮説としては、われわれが人となる以前に恐竜や大蛇・毒蛇になやまされたので、その情報がなんらかのかたちで人にはうまれつき備わっているのだろうという先天説もあれば、実際にこわい目にあって、あるいは、恐いものだと周囲から言いたてられ学習してという後天説もある。だが、どういうかたちで生得的に、いわば遺伝情報として伝えられるものか不明で、同じ哺乳類の犬や猫は恐れないから先天説では十分な説明はできないし、逆にへびをはじめてみる猿でも恐れるというから、後天的経験説も説得的ではない。

筆者は、へびをおそれる理由を「奇怪な姿」そのもののうちに求め、つぎのように恐怖の成立を考えたい。われわれは、世界に存在するものをとらえるばあい、単純にこれを受容(模写)するだけではなく、カントのいうように、自らのうちにある概念や図式をもって構成しながら見ているものである。目の前のものを、「これは、馬だ」と馬の概念のもとに普遍化し、さらにこの馬の一定のパターン・図式のもとに当てはめつつ理解していく。馬なら、ながい足が四本あって、ながい顔をして、たてがみがありというように、ひとつの典型的な図をあらかじめ描いていて、その一般的図式のもとに眼前の個物としての馬をとらえるのである。目の前のそれに足が三本しか見つからなければ、馬(の一般図式)には四本あるのだがともう一本をさがし、「片足は、まげている」と解しつつ見る。

この典型となる図式(原型)というものをもって眼前の存在をとらえるとき、この図式に当てはまらないものがあったとすると、それは、不可解なもの、不気味なものと感じられることになる。それの極端なものがへびになるのではないかということである。「ナイルの馬」がいるというので「馬」の図式をもってこれをみると、これは若干ずれてはいるが馬の図式のもとに理解可能で、ただし肥満しすぎで愚かしくも走るに不自由なほどに見え、このナイルの馬(Nil-pferd=河馬)は、こっけいさを生じる。だが、へびは、動物の図式をずれているというにはとどまらない。動物の図式そのものをこわすのである。つまり、地上の「動物」の典型・図式は、足があり、それをもってすすむのに、これをへびはうけつけず、胴体しかなく、しかも蛇行するのである。さらに、逆に線状のものであれば、植物であり、動物なら内臓などであって、有機体の部分としてそれ自身ではかってに動くものではないのに、その図式をこわして奇怪にも、足元の木の根っこが動きまわり、切り離された内臓が勝手に蛇行するのである。普通ならそういう有機体の部分は、それだけで切り離されれば死ぬのに、それが生きていて動き回るというのであって、切断された内臓や髪の毛や手足の指がひとりでうごくとすれば、あるべき姿(典型)から逸脱していて、なにがされるか分からない危険を感じ、ぞっとするように、われわれはへびにぞっとするのではないだろうか。

へびがこわくないひとがある。かれは、へびとかみみずのような形態の動物について自らの心に何らかの形で一般的な図式を作り出しえているということなのであろう。ひも状の長いもので動くものという特殊な動物の図式である。これは、一方では、細長い動かない植物の図式と相容れず、他方では、動物ならば手足があるといった動物の図式と相容れないが、これらのことについて、何らかの形で折りあいをつけているのであろう。あるいは、蛇の図式化はできていないとしても、その姿に不可解さを感じるとしても、それにとどまり、攻撃しない限り襲ってはこないと捉える等して、これに危険の判定をせず、したがって恐怖にまで進まないで済んでいるのであろう。

たぶん、多くのひとは、みみずにもぞっとするのではないか。眼もはっきりしないのろまなそういう小動物が危害をわれわれにあたえることなどありえないが、これに気味悪さを感じる。それは、われわれの心のうちにある動物一般の図式からはずれており、かつああいう姿のものの図式は、内臓や指のような有機体の一部分であり、あるいは植物であって、それだけでは自立しては動かないのに、動くという不気味さである。

幼児は、へびやみみずを気味悪がることをあまりしない。それなのに小学校にはいる前ぐらいになると、かなり恐れるように変わるといわれる(猿でも似た事情にあるようである)。筆者の子もそうであった。3、4才のころは、へいきで亀のえさのためにみみずを掘りだしていたのに、5才ぐらいになると、これを気味悪がりだし、また、小さなへびをみても跳びのくぐらいになってしまった。その頃、動物とかしっぽとか内臓などの一般的図式・典型が出来上がるということであろう。図式ができて、それに当てはめて世界を見るようになったとき、それにへびやみみずが当てはまらず、不気味なものと感じられるようになって来るのではないか。この図式は、いったん出来上がると、そう簡単には変わらないもののようである。筆者は、みみずとは、こどものころ、釣りのためにやむなく、気味悪いと感じつつ、そうとう長い間つきあっていたが、あの、血管がひとり歩きする姿には、とうとうなじめなかった。へびには眼や口があるから、まだましだと思うぐらいである。おなじ爬虫類でも、足があるトカゲやワニの姿自身には恐怖心をもたないひとが多いのではないか。筆者も、身近にいるヤモリ、特にその子供は何とも愛らしいと思う。だが、手足がないみみずや回虫は、小さくても気持ちが悪い。自分のうちに存在する動植物の図式にあてはまらず、これを無効にして、不可解で不気味となるのであろう。

へびの場合は、これがさらに大きく、かつ、動きが敏捷なのであるから、不気味さは、危険なものという方向へひっぱられて、恐怖ということになっているのではないか。へびがみみずほどのおおきさにとどまるものなら、あれほどには恐怖しないであろう。ふつうにはへびは、おおきくて、それがわれわれにむかってくるとしたら(みみずがそうしたとしても逃げられるし踏みつぶせようが)、大きな口があり、攻撃目標を明確にする眼もしっかりしていて、巻きつかれたり噛みつかれるかもしれないということで、不気味さは、恐怖にまですすんでいくのであろう。しかし、みみずが仮に蛇の大きさだと、もっと不気味な感じがする。へび大のみみずを想像すると嘔吐感も伴う。内臓や血管が一人歩きしているようで不潔さも感じられ、ゾーとする。無毒のへびか、へび大のみみず(長さだけなら、大蛇なみの長いみみずがいる。これは、のろまな地中の存在で、並みのみみずが数珠つなぎになっている程度の不快感をもたらすのみである。胴の太さもへび大のみみずでなくてはならない)を手に持つようにといわれたら、多くは、へびの方に触りたいと思うのではないか。

龍は、畏怖される想像上の巨大な蛇類であろうが、現実の蛇そのものよりも親しみをもって受け入れられる。龍が蛇より親しみをもてるのは、その姿が、へびとちがって動物として理解可能なものとなっているからであろう。つまり、普通の動物のように、顔には耳や角があり、ひげまでもそろっているし、なんといってもほっとするのは手や足のあることである。われわれのうちにある動物の一般図式に多くの点で一致しているので、暴風雨や竜巻になり狂暴で蛇以上に恐れるべきものなのに、理解可能な存在として、親しみをいだけるのであろう。

  

3.恐怖とは、なにか

本当はおとなしく、踏みつけたりして挑発することがなければ毒蛇でも安全な存在であるのに、ひとの恐怖の感情が対象化され凝固したような危険な存在にされているのが蛇である。神話や昔話におけるへび・おろちの話を理解するためには、へびそのものの現実的な在り方を観察するよりは、人の恐怖そのものを問題にする方が肝心ということになろう。恐怖とはいったいなになのであろうか。

恐怖とは、その対象を危険と判定して、逃走・不動等の態勢をとって自己を防護しようとする心身の防御反応だといってよいであろう。危険との判定は、まだ危害が現実には加えられていないところでなされる。恐怖の声に「アレー」というのがあるが、危害はなお、ここに現実化しているのではなく、なお、「あれthat」にとどまっている。なお危害の加えられることにはなっていないけれども、差し迫った自身の将来について、間違いなく危害が身に及ぶと判定して、その確実な危害を想像力は先取りして、危害を加えられる自身の悲惨な想像図を描くのである。そして、この危険な存在から逃れ、自身を少しでも守ろうとして、恐怖の反応では、ひとつには、跳びのき逃走の態勢がとられる。さらに、もうひとつの有り方としては、出血を小さくするため血の気をなくして真っ青になったり、あるいは、動けなくなってかたまるということになる(恐怖は、身体・生命の危険への恐怖が基本で圧倒的であろうが、現代では、社会生活での非身体的な(財産とか地位の)危険への恐怖が多くなっている。これには、跳びあがる恐怖反応はその社会的危険から逃走したい気持ちへと大きく変容しているが、青くなって血の気が失われる反応はそのまま強く残っている)。恐怖で「ゾー」としたり「ヒヤー」とするのは、血が皮膚表面にはいかなくなり、冷えるからであろう。怖くて「震える」のは、冷えることへの二次的反応、つまり、筋肉を激しく小さく動かして暖めようとするものであろう。危険なものからは動いて逃走すればよさそうだが、激しい恐怖では、ひとの身体は麻痺し腰を抜かして不動になる。逃走し動くとむしろ目立って、獲物になりやすく、生存に逆効果となった中生代からの二億年にわたるわれわれの歴史の繰り返しで(動いたものは肉食恐竜にたべられ、動かなかったものがわれわれの祖先として生き残るということが気の遠くなるほど繰り返されたはずである)いまだに身体が麻痺状態になって不動になり、あるいはこちこちに石化することになっているのであろう。

恐怖は、確定的な危険のもと、つまり危害はなお加わっておらず、その危害の現実的可能性が見出される状態に感じるものであるから、可能にとどまることをやめて現実に危害が加えられる段には、新たに別の危険が感じられないならば、もう恐怖はなくなる。強盗のピストルや刃物への恐怖は、撃たれたり刺されたとたんに消えて、やがて痛みにとってかわられる。ライオンにかまれた人がどこかでいっていたが、かまれている最中は、もうなんともなかったという。自動車事故にあったひとにきくと、事故をおこす過程ではスローモーションで無感覚的にことの展開を傍観している感じで、恐怖など感じていない。ひやっとして恐怖を感じるのは、事故をおこしそうになったときのことである。事故をおこしたときもその直前の一瞬はそういう恐怖を感じているのであろうが、あとの事故がそれを忘れさせてくれているもののようである。恐怖は、いまだ危害が現実化せず、なおその可能性の状態にとどまっている者が感じるのである。

現実には危害が加わっていないのであれば、その危害の可能性について、多様にその現実化のすがたを描ける。多くの恐怖は、持続的となる。落ちそうなつり橋を渡るときの恐怖は、渡りきるか、危険が現実となり落下するときまで、続く。刀を突きつけられたら、刺されるまでは、ずっと怖いであろう。危険そのものが未定という「不安」とはちがって(不安は、恐怖とはちがう。恐怖では危険が確定しているが、不安では危険かどうかが未定なのである。危険ではないのかも知れず、いくら大きな不安でも、恐怖のように「震える」ことにはならない)、危険なことは確かであるけれども、どういう具体的なかたちになるかとか、いつのことかは未定ということでもあり、いわば危害の多様な可能性へおののいているのが、恐怖になる。危険のまえにたっていて、自己はそれに関して無力で危害は不可避と判定していて、かつ、どうされるかは未定ということで、危険なもののすこしの動きにも過敏に反応して、びくびくし続けるのである。

へびへの恐怖の場合、その危害の想像図は、ライオンを前に恐怖するようには、定かには描きにくい。ライオンへの恐怖は、その牙やその鋭い爪、その腕力等をみて、噛み砕かれ、引き裂かれ生命を奪われるというような具体的なものになる。大きなへびになら、絞め殺されるということになろうが、ひとは、通常、小さなへびをみて恐怖する。この恐怖は、噛みつかれるとか、絞め殺されるというものではない。その具体的な危険の有り様は、不明である。猛毒をもつへびなら、生命の危険を思ってということもあろうが、無毒でもこわいのである。刺されると生命を落とす危険性もあるスズメバチなどを見ても、虫かごにはいっていて安全なかぎり、みんな平気でながめる。それなのにガラスケースに閉じ込められた無毒のしま蛇であっても、ひとは顔をゆがめて恐怖する。へびは、その姿そのものが怖いのである。その動きもくねくねと蛇行して、ゾーとさせられる。不気味なのである。へびについては、実際には危害がくわえられることはまず無いのだから(毒蛇を踏んづけてかまれるような場合以外)、危害の現実化=痛みの現実化=恐怖の無化にいたることがなく、いつまでも恐怖が持続する。その不気味な姿から色々の想像図をえがいて、冷たいへびが足にからみついてのぼってくる図にゾーとし恐れおののく等、恐怖の時間をへびはたっぷりと与えてくれる。

恐怖では、自己が危害をこうむることは確実と判断している。かりに被害を防ぎ反撃できると判定していたのなら、恐怖することなく攻撃の態勢をとる。筋肉にむけた血流を早く盛んにして顔も紅潮する。だが、恐怖は、反対である。青ざめ、血は凍ってしまう。敗北を認め挑戦を放棄し、かつ、なお守るべき生命などがあってこれを守ろうと、もっぱら被害を少なくするための防衛態勢、つまり逃走か不動という態勢をとることになる。恐怖は、防衛・防護感情である。自らに守るべきものがない場合には、危険なものはなく、恐怖をいだくこともない。恐怖する者は、自己に守るべきものがあり、これの危険を少なくし危険からのがれたいと必死なのであるが、へびの場合のようにその危害の現実化が不定であったりすると、どうしていいか分からず無意味な動転をすることになる。さらには、ひるんで動けなくなって石化し、そのきわまりにおいては、危害によって自己が無化される前に自身でそれをおこない、観念的に逃走して「気絶」することになる。

意識が無化する気絶では、自己と対象の二つについて、これを無化している可能性を考えることができるが(たとえば、サルトルの『情念論』は、恐怖での気絶では両方の無化を魔術的におこなっているのだと見ている)、対象自体の無化は、恐怖ではしないのではないか。おそらく、自己を無化しているのみであろう。恐怖するときは、危険除去の挑戦を断念し敗北を受け入れ無力化しているのであるから、対象を無化しようというような能動性はない。対象を無化する能動性は、攻撃であり、怒りや憎悪に抱かれるものであろう。恐怖の対象に「目をつむる」とか「目をそむける」ことがあり、これは、一見、対象を無と化すように思えなくもない。だが、そうではなく、恐怖を無化しようとしているのみであろう。恐怖の注射に「目をつむる」のは、注射を無と化そうというのではない。見ないで(対象の無化ではなく、対象の表象を無化して)、突然の痛みのみにしようと、見ることで(危険を思って)生じる恐怖感を避けようとしているだけであろう。こどもに戦慄の場面を見せないように配慮することがあるが、それを自分自身で行っているということである。恐怖の対象から逃れようと必死になる場合、この対象を無化しようという攻撃的な構えは、一切なくなっている。せめて、逃れるか、被害を小さくすることに向かうのみである。あげくは、身体が守れないのなら、せめて魂だけでもと、魂は、おのれの身体を恐怖の対象の前に捨てて逃走をはかり、気絶する。恐怖の夢の場合、その対象を無くしようというのではなく、大きい恐怖ほど、夢・眠りから「眼覚める」。つまり、身体を恐ろしい対象の前に放置して魂は現へと逃亡する。逆に、現つの自己は、ひどい恐怖においては、この現実から自己(魂)を消す、つまり気絶するのである。

奇怪なすがたをしている蛇に、ひとは、怖じ驚き、腰を抜かし不動となったり、気絶までするような強烈な恐怖心をいだく。しかも恐怖すべきものの対象的特性としての危険は、本当はないことが多いので、危害は現実化されず、したがって、恐怖から痛み等への事態の展開はなく、いつまでもこの恐怖を持続させることになる。だが、へびへのこの恐怖は、たやすく克服できる。実に簡単で、これを見なければいいのである。本稿冒頭に、逃げるときへびを「見た」ものには災難がもたらされると記している『風土記』の一節をあげたが、見るから恐怖するのである。気絶しなくても、単に見ないだけで、へびの恐怖は消失する。へびは、本当は人間に対しては平和主義者としてふるまうのであって、どんなに空腹であっても虎やライオンとちがって、見る距離にあるかぎりでは襲ってこない。見ないようにすれば、動植物の図式に反する不気味さは感じることはなく、恐怖を生じることもない。

 

4.恐怖にみあった蛇の特性   

恐怖が眼前の危険なものの危険度に応じて感じられるのだとすると、へびの場合、かなり大きな恐怖感がいだかれるのが普通であるから、それに対応する危険性はそうとうなものと想定されなくてはならない。へびに出合った人は、しばしば針小棒大に、指ぐらいのものでも腕やももの大きさにとおおげさに表現するが、まだひかえめなのである。その恐怖の感情そのものに見合ったおろちの大きさは、大木のおおきさになり、河川のおおきさになる。われわれがものを見るとき、カメラのように客観的にとらえるのではなく、主観の利害関心のもとに構成しながら見ていくのだとすると、つり落した魚は大きく見え、地平線近くの月や太陽はどうしても大きく見てしまうように、強烈な印象を与えるへびは、その恐怖にみあうように、これを巨大化して見ることがあっていいのである。恐怖にみあったへびは、なんといっても、巨大なおろちであり、ひとを戦慄させる圧倒的な破壊力をもったものとなるのである。

蛇への恐怖は、この危険と想定されるものを量的に極端に誇張し大蛇・龍を作り出したが、他方では、その性質・本質について虚像をつくりその恐怖に見合う大きな魔力や知力を想定していった。恐怖して動けなくなり石化してしまうところから、そういう呪力をへび自体がもっているものとされた。ギリシャ神話のメドゥーサは、髪がへびだったというが、彼女を見るものは、石にされてしまうのであった。あるいは、ドラゴンの毒に当てられてふらふらになるというような話も、恐怖に正常心を喪失してしまう状態をもってそう言ったものであろう。

へびのすがたは、この実在的世界の存在の一般的な図式・典型にしたがっておらず、不可解であり不気味である。この世界の図式にしたがっていないということで、この世界をこえたものとみなされることともなる。へびたちは、この世界を超越しつつ、この世界のものを震えあがらせる存在として登場しているのである。へびは、しばしば神や神の使いとみなされるが、それは、そのとらえどころのない不気味さによってのことであろう。へびは、この世ならぬ悪魔的なものとしてか神的なものととらえられ、畏怖すべき存在となっていた。現実のたかだか1、2メートルのへびが、ひとの恐怖の感情に押されて巨大化し、この地上のみならず天空をもかける龍となり、この世界を威圧し、ときに暴威をふるう圧倒的な存在にと高められたのである。そして、どの神でもそうであるが、その破壊力が自分を守り他者を打ち倒すために使用されるならば、それはこのうえない味方となり守護神となる。龍神は、われわれにおいては信仰の対象になってきたが、それは、畏怖すべきこの存在に対して、災いをもたらさないでほしいと人身御供等をして許しを乞うものであったろうが、他面では、その絶大な威力を頼みとしたのでもあった。

恐怖のへびと形態が似ていてかつ洪水の恐怖をもたらす河川は、われわれにとって龍・龍神のもう一つの姿であった。洪水時の濁流がのたうち蛇行する様は、恐怖を呼ぶ。山津波を目撃するものは、杉や松が背に生えているおろちが走り下ると形容したくなることであろう。河川の神は、水の神ということであり、さらには海の神ともなった。龍宮城は、わが国では海のかなたか海中にあるものとなっていて(川の竜神は当然、川に竜宮をもつ)、龍王は、海の支配者ともなっていた。この龍神を敵とすれば、水の災いがもたらされ、暴風雨となり河川の氾濫となるわけであるが、それが逆に味方となれば、適度の雨がもたらされて、これは農民にとって最大の贈り物となった。へびが真に獰猛であったのなら、そう簡単にへび=龍神は味方とみなされるわけにはいかなかったであろうが、その真実は、踏みつけるようなことをしない限り、決して襲ってくることはなく、平和主義の代表のようなへびであるから、容易に善いもの・有り難いものとの評価もできた。

「雨乞い」は、龍神に対して祈願された。『今昔物語集』は、龍に法華経を聞かせていた僧が旱魃の時、この龍から、その命をかけて雨をふらせてもらい、この龍を弔う寺を建てるといった話をのせているが[xiii]、みんなそうしてもらえることを願った。「山さちひこ」は、海神=龍王から呪物としての玉をもらって水を自在にあつかえる存在となり「海さちひこ」を打倒できた。「浦島太郎」の玉手箱には老化を写す手鏡しか入っていなかった模様だが、ふつうは、玉の手箱には龍の呪力のこもった「玉」がはいっていた。龍の「如意玉珠」「宝珠」は、ひとの願望を意のままに実現してくれる魔法の玉(=魂)であった。へびを助けると龍王からほうび(宝物)をもらえるというのが、わが国の昔話の常識であるが、『今昔』にも、小さなへびをたすけて龍宮の王から「金の餅」をもらい富人になったというような話が載せられている[xiv]。恐怖において想定される圧倒的な力を自分たちのためにつかえるなら、この危険な存在は頼もしい味方となる。恐怖のへびは、ありがたい存在ともなるのであった。

グリムたちのメルヘンの龍(ドラゴン)は、われわれの龍とちがい、雨乞いに慈雨を降らせてくれるようなこのうえなく頼もしい存在と見なされることは、どうもなさそうである。大体、悪魔と同等かそれ以上に凶悪な存在として、専らに退治されなくてはならない存在となっている。中世の騎士の冒険の旅は、ひとびとを困らせている邪悪なものを退治しお姫さまと結婚する旅になるが、その邪悪なものは、多くがドラゴンということになっていた。グリムの「ふたごの兄弟」[xv]なども例にもれず、そうであった。「ふたごの兄弟」は、動物をお供にドラゴン退治をするもので、西洋版「桃太郎」と言えるものであるが、われわれの鬼に相当するものはドラゴンとなっている。グリムのメルヘンでは、その「地下の小人」[xvi]にせよ「器用な四兄弟」[xvii]にせよ、龍は、誘拐したお姫さまをひざまくらにして寝るという、不届き千万な存在であり、ぜひとも退治されねばならないものであった。ドラゴンは、単に恐怖心をいだかせる唾棄すべきへびの親玉として、退治されるべきものとなっているのみである。

われわれは、水田に頼って生きるものとして、川=龍のそばに生きていかねばならなかった。おろちや龍に依存していきる以外ない。それが、ときに洪水となり田んぼを台無しにし凶暴に荒れ狂った。ヨーロッパの場合、農耕への川の直接利用は一般的ではなく、洪水もわれわれのようにすべてを押し流し荒れ狂った状態になることが山岳地帯以外ではあまりなく、川は、恐怖のへびに結ばれる必要がなかった。洪水はあるが、かつてのナイル川がそうであったように、ゆったりと流れる水は、ゆっくりと増水し、荒れ狂うという感じではないのが一般であろう。ドイツはライン川上流の山間にある小さな町を筆者は訪れたことがあるが、そこの川に面した小さなアーチに、いくつも刻みがいれられていて、ライン川の水が何年にはここまできたと門の上の方まで印してあった。山間の小さな門でも洪水に余裕があったようで、荒れすさぶ恐怖の龍とはならずに済んでいた模様であった。かれらのドラゴン・おろちは、川とは無縁でよいから、水とは切り離されて、現実のへびの生き方の通りに大地の存在とされ、むしろ地下に住むことになっていた。

へびの威力を利用するという場合も、われわれとちがって、現実のへびがひとを恐怖させるのを直接利用することになり、その限りでは、これを巨大化させることはなかった。現実の大きさでひとを十分に恐怖させえた。エジプトのファラオなどが頭に巻きつけている蛇がそうであるように、恐怖させるべき相手に現実のへびを向けるだけでよかった。メドゥーサの首にしてもその髪のへびは、現実の大きさのへびでよかった。それだけで、人を石に変えてしまうぐらいに恐怖させえた。利用するには、巨大なものより、手に持ってこれを相手に向けて畏怖させる方が、手軽で効果的でもあった。商売人から泥棒までの守護神となるヘルメス(マーキュリー)の杖の小蛇で十分であった。このつえには、一匹でも恐ろしいへびが二匹も巻きつき、しかもツタでもないのに奇怪にもつるんでいる。これを見る者は、不気味な動きを感じ、さらにはその二匹の肌の触れあうのをわが肌に触れられるかのようにも感じて、その「ゾー」とする恐怖を何倍にもしてしまう。つるむ蛇を向けられた者は、ひるむことまちがいなしで、恐怖の魔法のつえ、強力な守護のつえとなったはずである。

 

 

Die Herkunft des Furcht erregenden DrachenDie Schlange in Märchen und Mythos

Yoshiki KONDO

 

In Mythen und Märchen der Völker tauchen immer wieder Drachen und riesige Schlangen  auf. Aber Drache sind fiktive Gestalten. Menschliche Furcht vor Schlangen ist wohl die Wurzel dieses Fantasiebildes. Außerdem wurden früher Flüsse aufgrund ihrer Form in Verbindung mit großen Schlangen gebracht; an vielen Orten litten die Menschen unter Überschwemmungen und betrachteten den Fluss als lebendiges Wesen. Aus der Furcht der Menschen vor Schlangen bzw. Flüssen entstand die Vorstellung von großen Drachen und ungeheuren Schlangen.    

Viele Menschen fürchten Schlangen, da deren Gestalt sehr fremd für uns ist. So können wir zum Beispiel, eine Wespe mit giftigem Stachel im Insektarium ohne solche Furcht betrachten. Aber bereits eine ungiftige Schlange dort kann uns ängstigen. 

Die Furcht ist eine natürliche Reaktion des menschlichen Körpers und der Seele. Wenn die Menschen eine Sache, die für sie gefährlich sein kann, erkennen, kann Fluchtverhalten entstehen, umso den Schaden durch diese potenzielle Gefahr zu vermindern. Ein Wagen, der mit sehr hoher Geschwindigkeit fährt, oder ein Hund, der mit Tollwut infiziert ist, erregt Furcht, weil man erkennt, dass man dadurch verletzt werden kann. Aber die Schlange erregt Furcht, auch wenn man weiß, dass sie nicht unbedingt eine Gefahr darstellt.  

Die Schlange ist dem Menschen unheimlich und furchtbar, weil sie in das Bild, das man sich vorstellt, wie ein Lebewesen aussehen soll, überhaupt nicht passt. Ein Wirbeltier besitzt Extremitäten. Schlangen jedoch haben diese nicht. Sie sind uns innerlich fremde Lebewesen und somit erregen sie Furcht bei dem Menschen. Und aus dieser Furcht vor Schlange machten die Menschen die Vorstellung vom Drachen, indem sie die Schlange vergötterten oder verteufelten. 

 



[i] 『常陸国風土記』行方郡   

[ii] 『日本書紀』巻第一 神代上 第八段

[iii] 『古事記』上巻

[iv] 『日本書紀』巻第一 神代上 第八段

[v] 『日本書紀』巻第一 神代上 第八段

[vi] 『日本書紀』巻第一 神代上 第八段

[vii] Brueder Grimm; Deutsche Sagen. 217(Der Drache faehrt aus)

[viii] Brueder Grimm; Kinder-und Hausmaerchen.  KHM125(Der Teufel und seine Grossmutter)

[ix]cf. Brueder Grimm; Kinder-und Hausmaerchen.  KHM60(Die zwei Brueder)

[x]『旧約聖書』民数記 第21章 参照

[xi] 『今昔物語集』巻第28―第32話(山城の介三善の春家、蛇に恐ぢたること)参照

[xii] 『沙石集』巻第7 (5)蛇を害して頓死したる事

[xiii] 『今昔物語集』巻第13―第33話 参照

[xiv] 『今昔物語集』巻第16―第15話 参照

[xv]cf. Brueder Grimm; Kinder-und Hausmaerchen.  KHM60(Die zwei Brueder)

[xvi]cf.Brueder Grimm; Kinder-und Hausmaerchen.  KHM91(Dat Erdmaenneken)

[xvii]cf. Brueder Grimm; Kinder-und Hausmaerchen.  KHM129(Die vier kunstreichen Brueder)