2004年


[哲 学]

1 次の文章を読んで 以下の問いに答えなさい。

長年にわたる過度の飲酒や強度の被害妄想、複雑な人間関係などが重なって心身に障害をきたしたムンクは、1908年、45歳の時、コペンハーゲンのクリニックに入って療養に努めた。 その甲斐あって翌年には退院し、祖国ノルウェーに帰り、それ以後、肉食を控え、コーヒーは体に悪いからと紅茶党に変身し、心身ともに健康を取り戻した。ムンクはしかし、もは や自分がかつての自分でないことを、健康の代わりに何かを失ったことを理解していた。ムンクの生活からタバコが消え、アルコールが消え、女の影が消えた時、彼の芸術も健康を 取り戻し、同時にその毒を失ったのである。
『思春期』(1895年)『叫び』(1893年)『不安』(1894年)『メランコリー』(1892年)などが相次いで描かれた1890年前後から1908年までの、年齢的には20代後半から40代にか けてのこの10数年間は彼が最も悩み、苦しみ、感じ、考え、その内面の軌跡を最も生々しく絵筆にたくした10数年間であった。
これらの作品は世紀末という病める時代の病める芸術家が生んだ生々しい内面のドキュメントと言えるが、彼をとりわけむしばんだのは、ノイローゼ(神経症)、鬱病、被害妄想な どの精神障害、あるいは“狂気”であった。
 病むことによって新たな世界を発見し、新たな世界観、価値観あるいは完成を獲得する、ということは珍しくないし、ムンクが病を逆手にとってこれを彼の芸術の活性剤としたこ とは十分に考えられるのである。無論、病ゆえに、病的な感性あればこそ彼の芸術がありえた、といった類の主客転倒は慎むべきである。病めるムンクの前に芸術家ムンクはすでに 存在していたのであり、彼の病あるいは狂気はそれをある方向に導いたに過ぎないというべきであろうが、しかし彼の意識の中に病と狂気が、またその延長線上にある死が常にうご めき、それが彼の芸術に色濃く投影されていることも事実である。
「病と狂気と死は私の揺り籠の上を漂い、以来生涯にわたって私につきまとった黒い天使となった。」「不安と病なしでは、私は櫂のない船のようなものだったろう。」「父方の家 族から私たちは脆弱な神経を遺伝的に引き継いだ。君も知るように祖父は気が狂った。母は肺を病んでいた・・・・・」(ムンク)
ムンクは有名な『叫び』の人物の上の空の一部に、鉛筆でほとんど目に見えないくらいの小さな字で「これは狂人だけが描けた絵である」と書き込んでいる。無論、“天才”の自負 をふまえての“狂人”であろうが、いずれにしても彼が自らの“狂気”を意識していたことは確かである。ただし、その方面の専門家による医学的な診断、所見が多数出されている ゴッホの場合と異なり、ムンクの“狂気”の実体は必ずしも明らかにされていない。しかし、「狂人」云々の書き込みの真意がなんであれ、この絵が高圧電流を流したように極度に 高揚し、張り詰めた精神状態をまって初めて成立しえたことは想像にかたくない。『叫び』に限らずその周辺の彼の傑作の多くは狂気と理性との危ういバランスの中から生まれてき たとも言えるが、上に引用した彼の言葉からも察せられるように、ムンクにとって心の病と不安とは表裏一体であった。彼の言う不安とは一方で彼の祖先に多く見られた心身の病弊 が彼にも発言するのでは、という不安、つまりある程度方向性をもった不安であり、また一方でそれは対象をもたない、ただ漠然とした不安、生そのもの、実存そのものに対する不 安であった。(千足伸行「北欧の黒い太陽」から)

@ムンクの『叫び』から絵画と画家の内面についてあなたの感じることをまとめなさい。(30点)
A「私のイメージ」の授業中に描いた絵をどうにかしてあなた自身と結びつけてください。 あるいは、今のあなたの気分を絵で表すとどんな絵になるか、言葉で表現してください。(30点)

2 「成人病」を「生活習慣病」と言い換えることによりどのような効果が期待できるか述べなさい。また、そこから考えられる言葉のもつ力についてあなたの考えを述べなさい。(40点)    

 



[欧米思想論]

1 以下の文章を読んで、囚人のジレンマ・ゲームの現実社会での有効性についてあなたの考えを述べなさい。(60点)

1980年代に入ると、ゲーム理論は、フォン・ノイマン(アメリカの数学者。ゲーム理論、オペレーションズリサーチなどの提案者。)が予想もしなかったような方向に進んでいった。 現在、生物学や社会学などの分野において、ゲーム理論が積極的に応用されている。以前は説明のつけられなかった生物間の強調行動や競争の数々のパターンについて、ゲーム理論 による説得力のある解釈がなされている。(300)

アクセルロッドの発見を利用すれば人間社会の紛争が解決できるのではなかろうか、と期待した者は大勢いた。政治家や軍部の指導者たちに「おうむ返し実用版」の手ほどきをすれ ば、世界中の問題がいっきょに解決すると思いたいのだ。
当のアクセルロッドは、こうした意見をあまり重要視していない。研究の成果を政治家たちへの提案という形でまとめてはどうかと筆者が提案したところ、アクセルロッドはそれは 本来の目的ではないとつっぱねて、次のように語った。「この理論の目的は、そういったものではなく、人々がものごとをよりはっきりと見ることができるようにすることなのです。 ゲーム理論のみならず、こうした形式的なモデルがあった方が、モデルなしでものごとを見るよりも、ものごとを動かす本質を、はっきりとらえることができるのです。ただし、す べての本質が明らかになるわけではありません。モデル化するために捨てられる要素も多々ありますし、その中には、きっと重要なものもあるでしょう。」(325-6)

スティーヴン・ヴァン・エヴェラは、『ワールド・ポリティックス』誌(1985.10)の中で、「おうむ返し」やこれと同様の戦略を使えば、第1次世界大戦の勃発を阻止できたかとい う問題を検討している。ヴァン・エヴェラの結論は否であり、次のような理由が述べられている。

「おうむ返し」を使うためには、双方の過去の経緯の本質に対する見方が同じでなければならない。そうでないと、両者とも、「こちらは挑発していないのに」侵略されたとして、 かわるがわる相手を罰しつづけ、終りのない報復のエコーから抜け出せなくなる。しかし、国家間の過去のとらえ方は往々にして異なるため、国際的な問題に「おうむ返し」で対 処しようとしても、非常にかぎられた効用しか望めない。国家間で協力をして国際的な協調を促進しようとする戦略を用いるならば、それと平行して、国家の過去に対する目を歪 ませるような国家神話を、愛国主義者らが作りあげるような動きを制御しなければならない
つまり、1914年当時は、「おうむ返し」の成功に必要とされる条件が整っておらず、ヨーロッパは「おうむ返し」に適した土壌とは言えなかったのだ。国際問題には、こうした条 件が整っていないことがよくある。1914年の症状は、国家のよくある病がいろいろ際立った形で表われていただけだった。このことから次のことが言える。「おうむ返し」の成功 に必要な条件を整えることをしないままこの戦略に頼ってしまうと、協調を促進できないばかりか、かえって紛争を拡大してしまうことになる。

現在、外交の舞台でどの程度ゲームの理論が使われているのだろうか。非常に少ないというのが現実のようだ。アクセルロッドは次のように考えている。「軍縮理論の構築のために は多少役に立っているかも知れません。しかしその前に、囚人のジレンマとは何かを理解している外務大臣は、いないのではないでしょうか。」(327-8)

(ウイリアム・パウンドストーン『囚人のジレンマ・ゲーム』(青土社1995年)


2 進化論的には人類は5万年前からまったく進化していないそうです。それでは、これから10万年後、今の人類がどうなっているのか、あなたの予想を書いてください。さらに進化しているのか、絶滅している のか、他の生物の家畜になっているのか、講義の内容を加味しながら想像力を思い切り働かせ考えてください。(40点)




[倫理学]

1 以下の文章を読んで、現代の地球環境についてあなたの考えを述べなさい。60点)

環境保全型社会のモデルは江戸時代か

現代社会は、大量消費・大量廃棄を前提とした、いわば浪費型の社会である。これに対して、江戸時代は環境にやさしい社会であったという見方がある。確かに、物質の流れ、すなわち物質循環という観点からすると、江戸時代には見習うべきものが多々ある。例えば、水稲耕作をとりあげてみよう。休耕せずに連作ができる農耕としては、水稲栽培はまれにみるものである。しかし、地力を維持するためには、それ相当の努力が払われた。里山の森林から得た下草を肥料として用いることはいうまでもなく、ありとあらゆる有機物が投入された。人糞・馬糞・牛糞や生活雑排水なども肥料として利用された。
 こうして栽培され、収穫された稲は、実の部分すなわち米は人によって食べられ、藁の一部は家畜の飼料となった。また一部の藁は肥料としても用いられた。物質があます所なく有効に利用され、生産から廃棄までがうまく結びついているのが分かる。人糞や家畜の糞は、畑作の肥料としても用いられた。特に江戸の場合、人口が集中していたため大量の排泄物が出たであろうが、周辺農家の肥料としてほとんど利用されたのである。地力を維持するための貴重な肥料であった排泄物には価値が付いた。江戸には下肥市場ができたほどである。農民が直接ダイコンやナスなどの農作物を支払って、下肥を買い取ることもあった。
 里山の森林は、薪炭材というエネルギーの供給源でもあった。この森林は、下草などを適度に刈り取ってやることによって保存することができる。この下草は農耕肥料として用いられることは先に述べた。また薪炭材として用いられた木々は、再生力が強く、切り株から出る芽はかなりの速さで成長した。里山は、人間と自然との共生の産物ともいえるであろう。
 江戸時代は、また進んだリサイクル社会でもあった。紙屑は集められ、すき返され再生された。浅草紙などはその代表例で、おとし紙(トイレットペーパー)などとして用いられた。この他、提灯や古傘の張り替え、ほうきの再利用など、リサイクルは徹底して行われた。また道具なども、修繕に修繕を重ねて用いられ、そう簡単にすてられることはなかったのである。
  しかし、一方環境破壊がなかったわけではない。例えば、近世前期は開発が盛んであったが、新田開発に伴う洪水・水害などが見られた。まぐさ場・茅場といった共有山林原野も多く消失した。また、たたら製鉄(足踏みのふいごを利用した日本独特の製鉄法)のために、西日本では大量の森林が伐採された。この製鉄法は、砂鉄を原料として製鉄する方法であるが、砂鉄採取の際大量の土砂を流出させ、これが地形に悪影響を与えた。
 江戸は大都市であったため、それなりの問題があったことはいうまでもない。ゴミの不法投棄、大八車による交通妨害など現代さながらの問題がすでにあったのである。18世紀前期には、江戸市中からホタルがいなくなるというようなこともあったらしい。

(植田和弘『地球環境キーワード』 有斐閣 1994年 p.84-5 一部改変)

2 インターネットの普及に伴い生じる問題で、あなたがもっとも重大と考えるものは何ですか。40点)                    




[学問論]

1 福沢諭吉の以下の文章を参考にあなたの子どもの教育方法についてあなたの考えを述べなさい。(60点)

 子どもの教育法については、私はもっぱら身体の方を大事にして、幼少の時から強いて読書などさせない。まず獣身を成して後に人心を養うというのが私の主義であるから、生まれて3歳5歳まではいろはの字も見せず、7,8歳にもなれば手習いをさせたりさせなかったり、まだ読書はさせない。それまではただ暴れ次第暴れさせて、ただ衣食にはよく気を付けてやり、まだ子どもながら卑劣なことをしたり卑しい言葉を真似たりすればこれを咎めるのみ、その外は一切投げやりにして自由自在にしておくその有様は、犬猫の子を育てると変わることはない。すなわちこれがまず獣身を成すの法にして、幸いに犬猫のように成長して無事無病、8,9歳か10歳にもなればそこで初めて教育の門に入れて、本当に毎日、時を定めて修業させる。なおその時にも身体のことは決してなおざりにしない。世間の父母はややもすると勉強勉強といって、子どもが静かに読書すればこれを誉めるものが多いが、私たちの子どもは読書勉強してついぞ誉められたことはないのみか、私は反対にこれを止めている。[]すでに20年前のことです、長男次男と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させていたところが、とかく異が悪くなる。それから宅に呼び戻していろいろ手当てすると次第によくなる。よくなるからまた入れるとまた悪くなる。とうとう3度入れて3度失敗した。そのときの文部の長官にも話をしました。私たちの子どもを予備門に入れて実際の実験があるが、文部学校の教授法をこのままにしてやって行けば、生徒を殺すにきまっている。殺さないにしても心身ともに衰弱して半死半生になってしまうに違いない。丁度この予備門の修業が3,4年かかる、その間に大学の法が改まるだろうと思って、それを頼りに子どもを予備門に入れておくが、早く改正してもらいたい。このまま置くならば東京大学は少年の健康屠殺場と命名してよろしい。早々教授法を改めてもらいたいと、懇意の間柄で遠慮なく話はしたが、何分埒があかず、子どもは3ヶ月やっておけば3ヶ月引かしておかなければならぬというような訳で、何としても予備門の修業に堪えず、私もついに断念してしもうて、それからは慶応義塾に入れて普通の学科を卒業させて、アメリカにやってかの大学の世話になりました。私は日本大学の教科を悪いというのではない、けれども教育の仕様があまりに厳重で、荷物が重すぎるのを恐れて文部大学をさけたのです。何といっても身体が大事だと思います。

(福沢諭吉『福翁自伝』 岩波文庫より)

2 今の小学校に新しい教科を設けるとしたら、あなたはどんな教科を新設しますか。またその教科で子どもたちにどんなことを学んでほしいと思いますか。(40点)





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