欧米思想論

1 つぎの文章を読んで、以下の問に答えなさい。

人間以外の動物が道徳的な行動を見せたからといって、彼らが私たちと同じくらい熟慮を重ねていることにはならない。動物は相手の権利と自分の利益を比較しているのか? 社会全体の繁栄を見通したり、悪いことをして生涯後悔したりするだろうか? そんなことは考えられない。

 容認される行動と、抑制されるべき行動について明確な総意ができている動物もあるが、いかんせん言語がないために、彼らはその背後にある基本方針を議論することはおろか、概念化もできない。意図や感情を伝えあうことと、何が善で何が悪か、その理由はどこにあるのかをはっきり示すことはまったく別次元の話なのだ。動物は道徳哲学者ではない。

 しかし、人間はみんながみんな哲学者だろうか? 私たちは、人間がなしとげた業績のなかでも最上級のところを引き合いに出して、ほかの動物と比較したがる傾向がある。1000頭のサルにそれぞれタイプライターをあてがい、好き勝手にたたかせてもウィリアム・シェイクスピアの仕事はできないなどと言って、いやみな自己満足にひたるのだ。こんな比較で私たちは頭がよく、動物は愚かだと分類しているのだろうか? 私たちは自分で思っているほど、いつも合理的ではないのではないか? その証拠に事前に結果を見通すよりも、ことが起こったあとに言い訳をするほうがみんな得意のようだ。私たちが知的な生き物であることは疑いようもないが、同時に思考や行動にバイアスをかける強力な傾向や感情を持って生まれたことも事実である。

 チンパンジーは、攻撃を受けた者を優しくなでたり、たたいたりするし、腹を空かせた仲間と食べ物を分け合ったりする。また人間も泣いている子どもを抱きあげたり、恵まれない人に食事を出すボランティアをしたりする。両者の行動を区別するのは難しい。チンパンジーの行動は本能に基づくもので、人間のほうは道徳的な配慮の現れだろうか? そんな分類は誤解を招くものだし、おそらくまちがっている。だいたい人間とチンパンジーという非常に近い動物が同じような行動をしているのだから、わざわざ異なる説明を付けるのは不経済な話だろう。それにチンパンジー本能説は、感情移入など徐々に解明されつつある彼らの複雑な精神活動を無視している。人間以外の動物を「道徳的な生き物」と呼ぶのはためらわれるが、人間の道徳性の底に流れる感情や認知能力の多くは、人類が地球上に登場する前から存在していたのである。

 動物に道徳性があるかどうか。この問題は、彼らに文化、政治、言語があるかどうかという問題と少し似ている。人間が高度に発達させた特徴をものさしにするならば、そんなものはないという結論になる。しかし人間の能力をもっと細かく分けてみれば、動物にも見いだすことができるのだ。

(フランス・ドゥ・ヴァール『利己的なサル、他人を思いやるサル』1998p.352/3

(1)    下線部についてあなたの考えを述べなさい。(40点)

(2)    人間以外の生き物にも文化といわれるものはあるのだろうか? これについてあなたの考えを、例を示しながら述べなさい。(30点)



2 「囚人のジレンマゲーム」の現実社会での有効性についてあなたの考えを述べなさい。30点)



哲 学

1 つぎの文章を読んで、以下の問に答えなさい。

 風呂屋のペンキ絵は誰がなんと言おうと絶景である。日本人にとって理想の景色である。
空真青にペンキ色てかてか晴れ上がり、ほとんど視界の真中に水平線があり富士山がドーンと居る。時によっては、帆かけ船などが浮いている。 海の波打ち際は風呂屋の湯船で白いペンキが打ち寄せて来ている。
 左手に島が海からつき出ていて松の木がいい按配に生えている。
 人は一人も居ない。
 私は風呂屋に行く度に、風呂屋ごとに、それぞれ趣向をこらして違う絵柄になっていたとしても、 ペンキのてかてかしたばかでかい絵の根底に流れる断固とした主張をいうものを納得した。見ろ見ろ俺は絶景ダゾォとペンキ絵は言う。そしてどこへ行っても、 風呂屋のペンキ絵の様な完全な風景というものを見ることが出来なかった。当たり前である。あれは風呂屋のペンキ絵だからである。

[ 略 ]

 ある時、海に行った。あんなに驚いたことはない。
 風呂屋のペンキ絵がドーンと現れたのである。一点の不満も苦情も申し立てられない富士山と海、島と松、真中に白いヨットさえピタリと止まっているではないか。
 それが現れた時、そこに居た人間はどうしたか。
 ゲラゲラ笑い出したのである。
 地面をたたいて笑った人さえ居た。そして笑っている間に雲の切れ目から斜めに光がいく筋もサーっと降りて来たのである。
 神様のその上におわしますという光である。
 絵の様に美しい現実は滑稽である。

[ 略 ]

 私は偉い人の好きな絵を見ると芸術とはひどい偏見だと思わずにはいられない。
 モジリアニの首の長い女、もしも現実にそんな女がベッドの上に横たわり眼球のない目でどこも見ていなかったら化物である。
 しかしどこにも居ない首の長い女をキャンパスの上に見て、私達は魂をゆさぶられる。私はモジリアニの偏見に魂をゆさぶられるのである。
 ボテロは地上のあらゆるものを風船の様にふくらませ、ジャコメッティは、そいでけずってもう一回そいだら消滅してしまう偏見をもって現れる。
 ピカソなど、あまりに暴力的な変幻自在な偏見でどうだどうだと私達をせめまくる。
 世の中を偏見をもって見ることは醜いことだ。しかし、私達はその偏見の前で言葉を失い、笑ったりしないのである。
 その偏見にしか現れない多様な真実が私達をゆさぶる。

(佐野洋子『私はそうは思わない』筑摩書房 p.71-4

(1)       風呂屋のペンキ絵と芸術といわれる絵との違いについてあなたの考えをまとめなさい。40点)

(2)       自分の姿を後世に残すとしたら、あなたは絵で残しますか? 写真で残しますか? その理由とともにあなたの考えを述べなさい。30点)

2 「世界の数学化」とはどういうことか? また、そのことに対するあなたの考えを述べなさい。30点)



学問論


1 つぎの文章を読んで、以下の問に答えなさい。

 たとえば、やなぎますみちゃんという女の子のことを話すと、この子は、「おとうさんのかえりがおそかったので、おかあさんはおこっていえじゅうのかぎをぜんぶしめてしまいま した。それやのにあさになったら、おとうさんはねていました」という"おとうさん"の詩を書いた子どもなのだけど、感性がするどくって、頭もいいし算数の計算など得意だった。そ れだけ見ると優等生なんだけど、本当はお行儀のいい子どもではなかったの。とくにことばづかいが悪くって、かわいい顔をしているのに、「おまえなあ」とか「しばいたろか」とい ったようなことばをつかう。ぼくなんかにも「おいせんこう、まるつけんかえ」といった接しかたをしてくるの。
 こういったますみちゃんのことばづかいは、彼女の地のことばであって、日常つかわれている。そんな荒っぽい女の子が、ぼくの解放するということを第一義とした学級にはいって、 ますます水を得た魚のように荒っぽくなっていった。そんな荒っぽさをもったますみちゃんが詩を書くと、たいへん楽しく人間性豊かで、それでいてきちんと大人を批判するようなこ とを言っている。たとえば、

つうちぼ   やなぎ ますみ

つうちぼのじはかんじばっかりで
ぜんぜんなにがなにかわからへん
なんで、こんなもんで
おかあさんがおこるんやろ

といった詩を書いている。初めて通知簿をもらったとき、いつも通知簿をもらってきてはしかられていた姉さんのことを思いだして、おかあさんがなんでおこるんかわからんとふっと 口から出たのね。
 この子に、お話を聞くときにはちゃんと背すじをのばしなさいということを強要したり、あなたのことばづかいは乱暴ですから、正しいことばづかいをしなさいと矯正すれば、ます みちゃんは自分をさらけださなくなって、からにとじこもってしまうことになるのじゃないかと思うの。学級というのは、子どもの持ち味のすべてをだしきれるような状況をつくって やることが、教師の仕事であるわけね。ますみちゃんは自分のもっているものを、学級でだすことができたから、ますみちゃんのもつおもしろさといったものも作品の中にあらわれて きた。自分のペースで遊べるし、先生と話ができるので、学校というところがたいへん楽しいところになった。そうすると学習への参加態度も積極的になってくる。算数なんかの問題 をすると、友だちに負けてたまるかというような勢いでやってしまう。

せんせい   やなぎ ますみ

きょうせんせいはいつもとちゃう
目がぼおっとしとう
しゃべりかたもなんかへんや
いつものせんせいとちゃう
やっぱりおこってくれるほうがええわ

 ますみちゃんはぼくにたいしてこんな詩をかいてきてくれたんやけど。ぼくがかぜをこじらせて学校へ出たときに、一番さきにぼくの病気に気がついてくれたのは ますみちゃんで、「おこってくれるほうがええわ」といった逆説的な言い方でぼくを心配してくれている。これなどは彼女の独特な表現になるのだけど、ぼくが解放するという ことを第一義に考えてい たから、ますみちゃんは自分をさらけだしてくれるようになってきたし、そこに感性の豊かさが表出されてきたのではないかと思えるの。子どもを育てるとい うことは、最初の時期におきては、まず解放するということが大事ではないかということなんだけど。

(鹿島和夫・灰谷健次郎『一年一組 せんせい あのね』理論社)

問 下線部「解放する」ということばで作者が考えているのはどういうことか(30点)、また、それにたいするあなたの考えを述べなさい(30点)。

2 国語の教科書は写真 が少なくほとんどが絵でしたが、これはどのような理由からとあなたは考えますか?(40点)


倫理学


1 つぎの文章を読んで、以下の問に答えなさい。

世代間倫理の問題−現在世代は、未来世代の生存可能性に対して責任がある。

 環境を破壊し、資源を枯渇させるという行為は、現在世代が加害者になって未来世代が被害者になる(1)という構造をもっている。加害者と被害者が世代にまたがる時間差をもってい る。
 人類の過去が、約五万年あり、未来も五万年あると考えてよいだろう。石油や石炭などの化石燃料を人類が大規模に使い始めて約100年たっており、あと50年間は使うことができると する。人類十万年の歴史のなかで、わずか150年間の世代が、化石燃料を使いきってしまうことになる。しかも、後に残される世代は大量の人口とその生活を支えるエネルギーを入手し なければならないという事態に直面させられる。現在世代は未来世代を梯子(はしご)に登らせて、後で梯子をはずすというに等しいことをする。(2)資源枯渇も環境破壊も、ともに現 在世代による未来世代の生存可能性の破壊である。これは人類の歴史上、奴隷制度とか、大量殺人とか、さまざまの犯罪が行われたなかでもっとも悪質な犯罪なのである。われわれは石 油、石炭を使いきってしまうことによって、あるいは地球環境を破壊することによって、未来の人類の90%を殺害することになるかもしれない。
 ところが民主主義的な決定方式は、異なる世代間にまたがるエゴイズムをチェックするシステムとしては機能しない。構造的に民主主義は共時的な決定システムであり、地球環境問題 が通時的な決定システムを要求しているからである。封建主義的な決定システムから近代的決定システムへの転換とは、すなわち近代化とは、通時的決定システムから共時的決定システ ムへの転換であったからだ。われわれは、共時的決定システムを完成させることによって、同時に現在世代の未来世代への犯罪をチェックするシステムを失ったのである。
 伝統の支配という形をとった決定システムは、生活形態を反復可能なものとして維持していくためのシステムである。例えば婚姻の形態は、もしもそれが隣の部族と女性を交換すると いうシステムであれば、それぞれの部族が人口の再生産率を一定に保つことによって維持される。社会は、世代ごとに同一の人口、同一の生産規模、同一の文化を再生産しなければなら ない。
 また例えば武家社会などの世襲制の社会は、親子の数が同一であるという人口定常の状態で最適になるシステムである。このような社会では、人口の増大という事態に対処することは できない。通時的システムから共時的システムへの転換はほとんど避けられなかった。常に過去世代が現在世代を支配することに人類は耐えられなかった。しかし、この古いシステムを 捨てたとき、同時に現在世代の未来世代への犯罪をチェックするシステムも捨ててしまった。
 現在世代の未来世代への加害という構造が明らかになることによって、「進歩」というシンボルは泥にまみれてしまった。それは未来世代はつねに現在世代よりも、より自由で、より幸 福な生活を保証されているだろうという約束だったのである。ところが進歩の名のもとに未来世代への犯罪が行われてきた。

(加藤尚武『倫理学のすすめ』より)


問1 下線部(1)「環境を破壊し、資源を枯渇させるという行為は、現在世代が加害者になって未来世代が被害者になる」についてあなたの考えを述べなさい。(30点)


問2 下線部(2)「現在世代は未来世代を梯子(はしご)に登らせて、後で梯子をはずすというに等しいことをする。」はどういうことですか。具体例を挙げて説明しなさい。(30点)


2 ネット上の有害情報を3つ以上あげ、それぞれにどのような点が有害なのか、またそれぞれにたいしてどのような対策が可能か述べなさい。(40点)