虹のように(第10号)最終号  日本籍マイノリティの未来


         21世紀の在日コリアン
                   パク シル
                   朴 実


 私が自らを「日本籍朝鮮人」と名乗り、 民族名を取り戻す運動を始めた'80年代 初期は、各民族団体をはじめ、同胞社会は日本籍者に冷たく排他的であった。特 に「帰化」者に対しては「新日本人」と言う差別語を浴びせ、蔑視の対象であっ た。しかし、時代は二重の差別の中で梁 (山村)政明が焼身自殺をした'70年とは 明らかに違っていた。世代は2〜3世へと替わり、「帰化」による国籍取得と、日本人との婚姻という流れへと移って行っ た。特に'85年、日本の国籍法が父母両系 に改正されてからは、在日同胞社会は「 日本国籍者問題」から逃れられなくなっ た。

● 日本籍が大半を占める在日社会

 やがて迎える21世紀、我が在日朝鮮人 社会は大半が日本籍者となるであろう。年間約1万人の「帰化」者、婚姻件数の80 %以上が対日本人、従って産まれる子供 のほとんどは日本籍者、特例永住者(主 に、日本の植民地支配によって在日を余 儀なくされた者とその子孫)の、年間約1万人強の減少等々・・・・このような現象 に対して、法務省入管局のある局長は「 いずれ本来の在日韓国・朝鮮人は居なく なるであろう」とまで言っている。また 民族団体は「国籍を守ろう!」「同胞同 志の結婚を!」と、危機意識まる出しで 叫んでいる。しかし、これらの主張は、民族を単なる血統や国籍でしか見ること のできない短絡的な考えであり、「純血主義」につながる危険性を孕でいる。在 日も80年以上になれば、日本人との婚姻は自然の現象であろう。

 そもそも民族と国家は同一ではない。国籍という概念も、近代の国民国家成立過程に於ける産物であり、その歴史は浅い。国民国家の概念を克服する筈であったロシア革命の実験と実践は、民族問題と経済のグローバル化の前に挫折せざるを得なかった。

● 韓国の「在外同胞特例法」

 8月26日、韓国法務部は「在外同胞の法的地位に関する特例法案」を発表した。内容は、在外同胞にも、本国民とほぼ同等の法的地位を与えようとするものである。画期的なのは、在外韓国籍者(213 )だけでなく、居住国籍を持つ同胞(307 )にも適用される点だ。'99年7月から実施される予定である。韓国籍者と外国籍者に「在外同胞登録証」を発行し、同列に扱おうとすることには未整理な部分も多いが

、経済のグローバル化に伴い、ますます国境がなくなるであろう21世紀に向けた、先取り的政策だと思う。これに対し、民族団体の中には「民族差別の中で50年間国籍を守って闘ってきたのに、 帰化 者と同列扱いとは何事だ!」と、ショックを隠し切れないでいる。確かに在日同胞の特殊な歴史性は考慮されなければならないが、もっと普遍的な視点を持つべきであろう。在外同胞約700万人(韓国政 は520万と発表している)の内、在日韓 国・朝鮮籍の特例永住者54万人弱(この数も確実に減少している)、このような傾向の中で打ち出された今回の「在外同胞特例法」は、未来に向かっての画期的な法案であろう。

● 民族問題がなくなるとき民族は残る

 ここで古典的な命題「民族と民族問題」 に立ち返ってみよう。19〜20世紀は「民族 と国家」の歴史であったと言っても過言 ではない。あらゆる分野でこの問題は取 り上げられてきた。その集大成は「戦争」 であろう。何故なら「戦争」こそ、政治と イデオロギーの実践だからだ。「民族」を 「定義付ける指標は様々に言われてきた。 その中の主なものを揚げると、1,言語2,血族3,地域4,文化・習俗5,宗教6,歴史これらの共通性である。これらの指標を21世紀の中心となる在日3〜5世に当てはめて見るとどうなるか。言語、地域、宗教の共通性はほとんど無理であろう。 血族も多くは2分の1〜4分の1となるであろう。文 化や習俗の中に若干、キムチ・ナムル・焼肉などの

食文化や、祭祀(チエサ)などの習俗が 残されているかも知れない。しかし、前者の食文化も、いずれ日本の食文化に組み込まれるであろう。歴史(歴史的記憶)の共通性は、「在日」の存在そのものを客観的に位置付けるものとして共有できるが、歳月が進めば、これも希薄になるであろう。

 一方、日本社会を見ると、例え血統がであろうがであろうが、朝鮮民族とみなし、差別の対象として置かれるであろう。このようにして、民族差別の産物として民族を意識し、その克服のために努力し、闘わなくてはならない。近代の国民国家形成は、弱小民族・少数民族否定の歴史であった。それ故に、幾多の民族問題が生じ、滅ぼされた民族もあった。しかし、21世紀を迎える今日、民族問題や経済分野を中心に、近代国民国家に矛盾と限界が見えた。日本では国民国家形成過程で「解決」(民族抹殺)されたかのように思われてきたアイヌ・琉球(沖縄)民族が、徐々に民族的復権を果たしつつある。国民国家からより成熟した社会においては、少数民族など、社会的少数

者は尊重されなくてはならない。まさしく「民族問題」が解決される時代に「民族」が尊重され残り続けるという歴史のアイロニーが起こるであろう。言語・文化・歴史は特に大切にされなくてはならない。そのためには、民族教育を促進させ、全国各地で行われているマダンを更に創造発展させ、何よりも民族名が大切にされなくてはならない。21世紀、我々在日コリアンの文化と歴史は、普遍性を勝ち取るであろう。


新「坂中論文」への疑問と批判!
           チョン・ヤンイ


「虹のように」終刊を聞いて〜読者からの声

        「虹のように」と私
             金 宜伸

 「虹のように」がこの度、活動を休止されるということを誌面で知りました。まったくショックを受けなかったといえば嘘になります。しかし、「虹のように」から得た人間関係や心理的な支えを思う時、少なくとも私の場合、「虹のように」の役割は果たされたのではないか、とも思っています。そしておそらく、私以外の多くの人々にとっても、その一人一人にとって特別な、何らかの役割を果たしてくれたのではないでしょうか?
 私にとって、「虹のように」とはまず、帰化によって名前を変えたことのボディブローがじわじわと効いてくるなかでの、大きな心の支えでした。そして、実際に民族名を取り戻すためには、どうしたらよいのか教えていただいたり、弁護士さんを紹介していただいたりして、知識と人間関係を得る場でした。
 また、実際に氏変更の申し立てをした方々の存在を知ることで、私は、家族に、日本名を使うことの苦しさを、民族名を自分の名前とすることが出来ない事による無力感を、打ち明ける勇気を得ました。そして、「日本名を名乗る」事がどうしてつらいのか、冷静に考えることで自覚できるようになりました。
  「日本名を名乗る」というのは、「今までの人生を否定し、私の生まれを否定する」事を意味するのであり、そのような自信喪失状態で、生き続けていく事がとてもとてもつらいことなのだということに、はっきりと気付いたのです。
 「虹のように」との出会いを通して得たたくさんのものは、これからも私を励まし続けるでしょう。だから、私は、「虹のように」の廃刊を、笑って見送りたいと思います。
 最後に、「虹のように」から私が読みとった、一番暖かいメッセージを、これを読んでいる全ての人に。
 「虹が虹であるように、私が私であることを、伝えなきゃ!」 
 どうして苦しいのか、何が私にとって幸せなのか。そして、伝えるときには心をこめて。それで痛いめにあったら、泣けばいいし、怒ればいい。そういうこと!ほんとのほんとに最後、「虹のように」の発行に関わった方々へ、感謝をこめて。仕事や家庭と両立しながらの誌面作りには、苦労が多かったことでしょう。今まで頑張って下さって、本当にどうもありがとうございました。
 「虹のように」が、創刊に関わった全ての人にとって、大切な「表現」だったことを、私たちは知っています。なぜなら、その「表現」が、様々な経路をたどって、今、これを読んでいる私たちを引き寄せたという事実があるからです。
 それでは、引き寄せられた者のなかから、また新たな「表現」を行う者が、出てくることを願って。さようなら、また会う日まで!


     5年間をふりかえって
     金 信明(都立南葛飾高校定時制教員)


 日本国籍で朝日混血の私は、5年前朝文研の生徒(前任校・都立荒川商業定時制の中国人生徒)との関わりを通して、民族名を名乗るようになりました。いろいろ行きつ戻りつ悩んだ末でしたが、私と裏表の鏡のようなその生徒の存在が私にはとても重く、大きかったのです。その生徒−−彼女は中国にいる時には両親を誇りに思っていたのに、日本では両親と町を一緒に歩くのも恥ずかしいと感じてしまい、そんな自分に涙する生徒でした。在学中中国人の素敵な男性と結婚し、中国人として生きていこうと決心しながら、級友たちには自分を日本人として扱ってほしいと願ってしまう、差別故に自らの生き方を複雑に屈折させて、身動きが取れなくなってしまっている、そんな生徒でした。−−そして私も、自分の父が朝鮮人だと知って以来、差別の影に怯え屈折した人生を歩んできた人間でした。差別の不当性を学び、思想的にもニュー・レフト、組合運動や市民運動に関わりながらも、「朝鮮」をマイナスのものからプラスのものへとなかなか転化できないでいました。父が朝鮮人でよかったと心の底から思うことなどとてもできないことでした。

 民族名を取りもどす会の単行本はだいぶ前に読んでいました。こんな生き方もあるのだと思いつつ、言葉も文化も何ひとつ身に付けていない完全に日本人として育てられた私が、今更朝鮮人として生きることの方が不自然で滑稽だという思いが正直強くて、ためらっている時期がずっと続きました。

 しかし、私が「朝鮮」を完全にプラスのものに転化するには民族名を名乗り、朝鮮人として生きる以外になかったと今はそう確信しています。この日本社会の中では、差別と闘う主体として立たない限り、朝鮮人として解放されることはない、本当にそう思います。
「急に変わっては駄目。不幸な前例もあるから。」私が民族名を名乗り始めた直後の尹チョジャさんのアドバイスです。この助言を忠実に守って、ゆっくり、ゆっくり日本人から朝鮮人へ変わっていったつもりでした。もともとのんびりした性格なので、少しずつ文化や料理を学んだり、言葉を勉強したり、・・・いえいえ、やっぱり「激変」だったようです。

 父親の名前が突然変わってしまった娘たちにはとまどいの日々だったでしょう。今では小学校の先生に恵まれて、友達と学校ごっこで朝鮮語の勉強をしたり、チマ・チョゴリを喜んで着たりしています。何にも増して、なんと私は南葛飾高校定時制で現在朝鮮語の授業を担当しているのです。何という変わりようでしょうか。
 ある集まりで、ある先生が「民族名を名乗る生き方のほうがいいよって、身をもって言えるのは金さんだけだから」と言われたことがあります。本当にそのことは大切にしたいと思います。

 先日、ある高校の教員研修で話す機会がありました。その時私は、朝鮮人として行き始めて本当に幸せなんだと正直に話して来ました。その高校の先生たちは少しキョトンとしていましたが、……。「自分は今幸せです」などと平気で言える人間なんて、今時多分珍しいのでしょうね。私は民族名を名乗って今幸せで、そのことを正直に言える……二重の意味で「幸せ」なわけで、そのことを伝えることを大切にしたいと思っています。

 朝鮮人生徒に民族名を名乗れと言うことは当然として、そのことの重みに躊躇してしまう教員に私は自分のことを伝えて行かなくてはと思うのです。日本籍の生徒も混血の生徒も、この日本社会で「幸せ」に生きるには「朝鮮」を真正面から見つめて「朝鮮人」として生きること以外に道はないし、日本人教員にはそのことに確信を
もってほしいのです。「差別があろうと朝鮮人は朝鮮人として当たり前に生きて闘え」と言い切れる日本人になったとき、その日本人は日本社会の差別性から解放されて、「自分は幸せだ」とすっきり感じられる日本人になれるのではないでしょうか。


     接点を求めて
     森 武弘


 本号が終刊号だと聞いて驚き、「京都のメンバーを中心に新しい雑誌が企画・検討されている」と知らされてほっとしています。

 日本籍日本人である私は、つい最近まで、日本籍朝鮮人のことについて継続した意識をもっていませんでした。鄭良二氏のいわれる「在日70万人史観」(本誌第6号)にたっていたといえます。2年前、「民族名をとりもどす会」の会報『ウリイルム』を読み、『虹のように』を購読するようになって問題意識を持つようになりました。

 また、日本と共和国との国交実現あるいは南北の統一は、在日コリアンにとっては、悲願であり、両国の将来にとっても大切である、と一般的なとらえかたをしていたのですが、金石範氏が韓国籍も共和国籍ももたないディアスポラの問題まで提起して問う「いま、『在日』にとって『国籍』とは何か」(『世界』98.10月号)を読むと、「在日」の歴史が刻む存在の重さに考え込んでしまいます。

 しかし、「在日」の歴史は、そのままこの国の歴史であり、覆い隠すことのできない市民社会の現実であると思います。国家権力はつねに「同化と排除」の上に成り立っているものですが、在日コリアンによって透視されるこの国においては、民族ナショナリズムはおろか、パトリオリズムをも国家ナショナリズムのなかに呑み込んできた歴史ではなかったかと考えています。したがって、私にとっても住みにくい国です。

 知り合いの梁英淑さんは、リャン・ヨンスク、ヤン・ヨンスク、りょうえいしゅくという三つの呼び名に悩んだ体験を語り、「今でも、名前にフリガナを打つたび手を止めてしまう自分がいます。正しい答えは出ないかも知れません。でも、いつか結論を出せるでしょう。その時には韓国人でも日本人でもない新しい自分を私の中で見つけ出せるような気がします。」(『ハンマダン通信』第2号)と述べています。おそらく、このような地平で、お互いの接点は生まれてくるのだろうと思います。


  「あたりまえ」になる日を
         ノ  カヨ
         盧 佳世


 9月の中旬、穂高へ一人旅に行った。もちろん”盧”で予約を入れた。法的にも改姓して早3年、電話で名乗る時にはさほどの緊張も感じなくなっている。「野、野尾さんですか?」などと聞き返された時にも「カタカナでノでけっこうです。」と言ってしまったりする。何せ説明が面倒なのだ。遠慮、思慮の慮の字の心を皿に変えて、と言っても普段使うこともあまりなさそうな字なので、そう簡単には伝わらない。でも、この最初のハードルをクリアできると、あとは意外にもうれしい事が多いのだ。

 今回の旅でも、”盧”を名乗っていたからこそ、出会え、親しくなれたという事が沢山あった。宿のオーナーに名前の事を聞かれ、在日コリアンである事を話すと、他に二人の在日コリアンが来ていて紹介された。20人足らずの宿のゲストの中の一世の在日と宿の近くに住んでいる2世の在日だった。世の中は狭いものだ。朝食を食べながら、3人で生い立ち、今の状況などを話した。それぞれに、在日であるが故の様々な思いを抱いていた。そんな私たちの話を側で聞いている日本人達がいた。名前や国籍の事は日本人である自分には良くわからないと言いつつも、素直に素朴な質問をしてくれた。そしてこちらの話を素直に聞いてくれた。それがどんなにうれしかったか!

 いわゆるマイノリティーについての問題意識を持っている日本人とでなければなかなか出来なかった話を、こうしてたまたま同じ宿に居合わせた人達とすることが出来た。「できるものなんだなぁー」と感動したのだった。

 「民族名を取り戻す会」の尹さん達と出会って13年。この出会いが私の人生を変えてくれた。日本籍でもコリアンだと思っていた私に、民族名を名乗ることで、自らのアイデンティティーを隠さずに生きるという新しい道を教えたくれた。”盧”で生きることは必ずしも良い事ばかりではなかったが、良かった事、うれしかった事の方が、断然多い。何よりも、新しく多くの人と出会うことが出来たし、それまでの関係もうわべだけでなく、より深く親密にすることが出来た。この事がこれからの人生を支え、実り多いものにしてくれると信じている。

 ”民族名で生きる事”は一市民である私にとって、日本社会に対するささやかな抵抗であり、一歩である。「”となりの盧さん”として、当たり前に存在していくこと。」そこから人との新しい関係が生まれればと思う。そして、在日コリアンだけでなく、多くの日本名を持つマイノリティーが、当たり前に民族名を名乗ることが出来る日が来ることを願っている。


  在日社会の将来と日本籍朝鮮人
              ソン キフア
              宋 基和(ハンマダン)


 私は「韓国籍」を持つ在日朝鮮人ですが、現在日本籍朝鮮人の存在が在日社会では既にマジョリティーになり、今後も「韓国籍」「朝鮮籍」を持つ在日が減少し、日本籍朝鮮人が圧倒的多数になっていくという事実を目の前にして、もはや在日社会の主要な課題は、「韓国籍、朝鮮籍を保持して生きる」「祖国の発展に寄与ずる」といったものではなく、日本籍朝鮮人がいかにして自らの出自を隠さずに「

民族的アイデンティティ」を保持して生きていくことができるかに尽きると思います。そのために民族教育の保障や日本社会の変化など、いかなる法的、社会的環境がつくれるかが重要になってくると思います。私のいう民族的アイデンティティとは「祖国の在外公民として祖国の発展のために生きる」というものではなく、日本国籍だけれども、朝鮮民族としての歴史的・文化的背景をもつ存在であるということを自覚することです。

 私は日本籍朝鮮人の運動を、日本籍朝鮮人の運動といった枠に限定するのではなく、在日朝鮮人全体の大きな運動課題としてとらえられなけれぱならないと思います。その意味で民団、総連など既存の民族団体の認識から改められなけれぱなりません。国籍で分けるのではなく、民族として、同じ歴史的・文化的背景をもつ総体として在日朝鮮人の存在を考るべきです。

 ところで、在日朝鮮人の「国家に対する帰属意識」はどう考えるべきなのでしょうか?韓国にあるのか、朝鮮民主主義人民共和国にあるのか、日本にあるのか、それとも持つ必要はないのか。誤解を恐れずに言うと、私は日本という国に帰属意識を持ちます。というより持たざるを得ないのです。それは国家に対する忠誠心といったものでは全くなく、日本で生まれ育ち、これからも日本で生活の基盤を持って生きていくといったうえでの当然の帰結なのです。もちろん「韓国籍、朝鮮籍」を保持していれば韓国のあり方に対して大きな関心を持つ必要がありますし、朝鮮民主主義人民共和国と日本が国交正常化されれぱ国籍の持つ意味も大きく変わるかも知れません。また私

たちの歴史的存在で考えると、日本だけに帰属意識を持てぱいいというわけではないのかも知れません。しかし、私たちは自分たちが住んでいる地域や国のあり方に対して無関心ではいられるけれども、無関係ではいられません。行政、法律その他さまざまなところで大きな影響を受けます。また日本社会の構成員でもあり、税金もしっかりと納めているにもかかわらず、私たちの処遇に大きくかかわる政治に直接かかわることはできません。民主主義社会において、自分の住んでいる国なり地域なりに政治的意思を表明することは人間としての基本的な権利です。

 私は在日朝鮮人は国民国家の枠組みを内側から崩していく存在になりうる、言いかえると国家を相対化させる役割を果たしていけると考えています。国籍というのは極めて為的なものです。「朝鮮籍から韓国籍」、「韓国籍から日本籍」へ変わったとしても、人間そのものが変わるわけではないですし、その人のもつ歴史や出自が変わるわけではありません。国籍と民族は別ものです。国家間の問題を平
和的に解決し、揺るぎない信頼関係がその国に忠誠を誓う」関係ではなく「国家がその国に居住する者の権利を保障する、国民はその国の構成員」という関係になるなら、国籍にこだわる必要はないし、日本国籍を取得することに抵抗も起こらないと思います。私は日本籍朝鮮人がそのような先駆的存在になっていけると思いますし、なっていけるような開かれた日本社会にしていかなければならないと思っています。


  ユン・チョジャさんと出会って
            桑江 博幸


 今年のゴールデンウィークに和光大学で開催された日本社会臨床学会でユンチョジャさんと出会えた。ぼくの改姓裁判の時、いろいろとアドバイスを頂いたり、お世話になり、電話では何度か話していた。「一度お会いしたいですね」と言いつつ、ぼくは日本から沖縄に帰って来ており、まさかこんな機会に出会えるとは思ってもいなかった。

 下世話なぼくは、ユンさんがどんなルックスなのかも気になっていたし、バリバリの運動家で話が合わなかったらどうしようと思っていた。
 控室でお会いした時、様々な思いは吹き飛んだ。とにかく話したい、直感的にそう思った。ユンさんとは今後もせめぎ合える関係でいたい。そこで、ぼくの考えを少し話したいと思う。

 ユンさんは「混血」という言葉はおかしいと言う。それは、血と血が混じるなんてことは科学的にありえないことだからだそうだ。しかしぼくらは「血が踊る」「血が騒ぐ」といった言葉を目常会話の中で使う。

 でも血は、科学的に踊ったり、騒いだりはしない。言葉とはそもそもそんなものだと思うし、ならばその「混血」という言葉もぼくは引き受けて行きたいと思う。
 でもユンさんは朝鮮人は戦時中「半血」といわれて差別されてきて、許し難い言葉だと言う。ユンさんはたくさんの朝鮮人との出会いの中でこれらを追体験していったのであろう。そして、この言葉を呪うかのようになったのだと想像している。 でもぼくはその「怨念」を言葉のせいにするのは危険だと思っている。「混血」という言葉は差別用語なんだよ、使うの辞めよう、では議論はストップしてしまう。何故痛いのか、どう痛いのか、それを語り合っていく過程が大切だと思う。ハーフをダブルと言い換えるのが一部で流行っているが、ぼくには劣等感の裏返しに感じてしまう。これは「純血」と「混血」どっちが上かという「争い」と同じである。

 ぼくの論旨は、言葉を抹消する運動よりも何故、どう痛いのか話し、語り合うことがより重要なのではないかということである。

  「血」というのは自己規定する上での条件のひとつなのであろう。琉球人の父と日本人の母を持つぼくは25才まで自分のことを日本人と思っていた。それが今では、自分のことを琉球人だと言ってはしゃいでいる。「血」は条件のひとつであって、ぼくが生きていく上でたいした問題ではない。でもここに来るまで、嫌な思いもめんどうな思いもした。これからもするかも知れない。しかしその「思い」、「痛み」を琉球人の代表をすることなく、個々具体的な顔の見える関係の中で語っていきたい。ちなみにぼくは「血」の話になったとき、自らを「合いの子」と言っている。

 最後に編集部のみなさん、ひとつの冊子を長年続けるのは本当に大変なことだったと思います。ありきたりですが、お疲れさまでした。そしてユンさんこれからも「楽しいけんか」を続けて下されば幸いです。今日はこれで筆を置きます。にふぇ一で一びる。


  本名を呼ぶことは自分を問い直す原点
                 嵯峨山 浩子


 「ムジゲチョロム」が次号でおしまいというお知らせを受け、ずっとこの間ろくにお手伝いもできず申し訳なく思います。日本人の立場からいうと「本名(民族名)を呼び名のる」ことこそが「寝た子を起こすな」のアンチテーゼなんですよね。 在日はいろいろだから本人の意志を尊重しようといえば美しいのですが、それは結局、「寝た子を起こすな」「触れないのがやさしさ」になっちゃうんですよね、日本
人にとっては。だから、新井英一が多くの日本人に支持されるのは、日本人が何のアクトをしなくても許される、ホッとした心情を与えてくれるからなのでは?と思うんですよね。在日にとってはどうであれ、日本人である私の立場から言わせてもらえば、「本名(民族名)を呼び名のる」ことは自らを問い直す原点であり、戦後責任の原点だ、ということなんです。

注記)いつも感想や情報を送って下さった嵯峨山さんは、通名を使うしかない状況に置かれている在日中国人、韓国人生徒と深く関わりながら、本名(民族名)を奪って、通名に追いやっている日本人を問うてきた。彼女は「本名で接してもらえる日本人になりたい。そして、本名で呼びたい。」といつも語っている。そうした自然で対等な関係をめざしている。本名を呼び名のる運動が、日本人をも解放するものだと、訴えていると思う。
       (尹チョジャ)


  『虹のように』終刊にあたって
            尹 チョジャ


 『ムジゲチョロム』を始めるに当たって、念頭に置いたことは次のことだった。
1、日本籍コリアンの運動を起こすという視点を忘れないこと。
2、身近で読みやすい誌面、をモット−にし、読者の層を広げる。
3、コリアン以外の日本籍者の問題を取り上げ、広い視点に立つ連帯を求める。
 さて、成果の程はどうだったか。

 民族名への改姓運動が、私たちの周辺で次々と進められた。『ムジゲチョロム』が接点となったことや、情報交換の場になったことは、編集の大任を担った者の大きな喜びだ。盧 佳世(ノ カヨ)さん、金 久高(キム クゴ)さん、そして桑江(くあーえ)さんたちの改姓申請が次々と勝利した。彼らは、家庭裁判所への申請から許可の審判までの期間を次々と縮め、2週間の最短記録を作り、桑江さんの場合は、弁護士をつけない申請にも関わらず、アイデンティティと姓の一致を改姓理由として認める、画期的な審判内容を引き出した。

 横須賀在住の権(くおん)さん一家の申請書提出も、間もなくの予定だ。長年の会員であり、人知れずに改姓の思いを持っておられた金 宜伸(キム ウイシン)さんとの交流も持つことが出来た。彼女は改姓申請について家族と真剣に話し合う機会が持てたという。家族全員での改姓を目指して、調整中であるが、彼女の意志は固く、日常生活では、民族名を名乗っている。

 日本人のおつれあいと子ども3人の家族5人で改姓しようとされているの権さん一家の挑戦も新しい局面を切り開くことだろう。権さん一家は、弁護士をつけないで申請し、また改姓の理由もこれまでの枠を広げて認めさせようとされている。どんどんフリーパスにしていく試みとなるだろう。
 改姓についてはまだ保留であるが、民族名宣言をし、職場でも民族名を名乗って生活されている日本籍コリアンの方々との出会いや交流も『ムジゲチョロム』を通して生み出されたとも言える。草加市の康欣和さん、東京の金玲子さんや金信明さん達である。

 金信明さんが、今回文章に書いておられるように、彼の民族名宣言は40歳を過ぎてからのことであった。家族や職場での人間関係が永く築かれている上で、「朝鮮人として生きる」ことを宣言するのはどれほどの決意が必要だっただろうか?私自身は26歳という<しがらみ>の少ない年齢での民族名宣言であったにもかかわらず、1ヶ月以上深刻に悩んだ末に、職場で宣言した。そしてその後の数年間、朝鮮人として生きることの社会的影響の大きさに振り回され(それは、自分の心の中にも数々のインパクトと混乱をもたらした)、また私

自身も周囲の人を振り回していた。身近な人々の支えなしにはとうてい乗り切ることが出来なかったことだった。もう一つ、家族の中で一人民族名に変える事は、それにとどまらず家族全員を当事者にし、闘いに巻き込むことはいろいろな事例を見るまでもなく明らかだ。そんな経験から、金さんに、私は生意気にもアドバイスをしたようだが、それは杞憂だったようだ。金さんは家族や職場の人達を強力な味方につけ、ますますダイナミックに活躍されている。教師として、中国人生徒と関わったことがきっかけで自らも朝鮮人教師として立つようになった金さんが、これからも沢山の日本籍コリアンやマイノリテイの生徒達に自らの生き方を通して伝えるメッセージは多いだろう。

 最近話す機会のあった盧佳世さんはしみじみと、「民族名を取り戻した事は、私自身の解放だった。」と語り、その言葉通り、多くの友人を得て、はつらつとしている。民族名を名乗る事で本当に幸せになれるのだろうか?などと考える必要はないのかも知れない。文句なしに、解放であるのだから。

 そう思わせてくれるのは若い仲間達の民族名宣言だ。金久高さん、金志保さん、桑江さん、金宜伸さんたちが、「差別故に奪われてきた朝鮮の(沖縄の)名前で生きてみよう、」あるいは、「帰化」をしたからと言って日本名にしてしまったら、「これまでつらい思いまでして差別偏見と闘ってきた自分の努力が無駄になる。」と、自分捜しでもある民族名宣言を、淡々と肩肘張らずに、選んでいく姿を見て、心強く思う。私自身は、自分をこじ開けるようなやり方で生き方を模索したり、民族差別と闘う手段として民族名を名乗ると言う、少しばかり悲壮な面が拭えなかった。これからは若い仲間達の、自分の内面から発する動機を大切にした明るい民族名宣言が増えるに違いないと期待している。魅力ある民族名、魅力ある改名運動を、多様に考え進めていきたい。

 日本籍コリアンの運動を巻き起こすために、私たちの考えや主張を伝えるメデイアとして『ムジゲチョロム』の役割は大きい。最近は、チョンヤンイ氏の発信するインタ−ネットのホームページも大活躍してくれている。教育現場で行われている外国人児童・生徒への見方関わり方が多くの場合、国籍中心主義で日本籍マイノリテイ−が無視されているが、外国人児童・生徒の教育施策・指針に日本籍マイノリテイーの教育課題を盛り込むよう訴えてきた。また「<混血>という用語をやめよう」という提言を行い、当事者の思いも伝えてきた。「積極的(主体的)日本国籍取得」論についても取り上げてきた。これから更に活発に議論がなされることになるだろう。先駆的な役割を持っていたと自負している。

 不十分な点はたくさんあった。特に国際結婚における子どもの問題は、重要不可欠だと思いながら、特集を組めなかった。ダブルの子の名前や国籍、育て方については在日コリアン社会が黙殺といっていいほど、議論を避けてきたことだ。日本人との国際結婚は、即「日本人への同化傾向」と切り捨てられてきた。それは、同じように民族差別を受けたり、痛みを持ったりするダブルの子を無視することだった。今日では、コリアンの80%以上が日本人との結婚を選んでいると言う。無視され「透明な存在」にされているダブルの子の人権・アイデンテイテイ・民族性について、私たち日本籍コリアンが責任を持って議論を作り出さなければならないだろう。

 コリアン以外の日本籍マイノリテイへの取材、ということも不十分な点であった。在日コリアンとは異なる経緯で在日し、国籍観や民族的アイデンテイテイの在りようも様々である日本籍マイノリテイと、積極的に触れあうことが、国籍、民族を考える上での、より大きいフィ−ルドになる。また、日本が多文化共生社会へと変わっていく上で何が必要か、いろいろな課題を見ていきたい。

 ここ数年、日本籍者をテーマとする分科会、シンポジウムは大入り満員である。かつては関心の少なかった在日コリアンも大きく巻き込んで、関心は上がる一方だ。しかし、何をどうしたらよいのか、議論の基軸になる提案をしていかなければ、「どうやって帰化をくい止めるか」「どうやって国際結婚をくい止めるか」といった、迷路にはまり込むことも多い。 当事者である私たちの主張をもっともっと展開していかなければならないだろう。

 全国の会員、読者の皆さん、旧民族名をとりもどす会事務局の皆さん、関連記事・資料や原稿・感想を送って下さるなど『ムジゲチョロム』を支えて下さった皆さんに深くお礼申し上げます。今後は京都の地から若返って発信されることでしょう。ますますのご支援、ご協力をお願いいたします。共に。


   『ムジゲチョロム』から『風の便り』へ
      京都・パラムの会 安田直人

 山根さんが京都にきて、朴実さんと、パラムの会のメンバーとで、飲みにいったのは、いつのことだっただろう? 『ムジゲチョロム』が10号で最終となること、『ムジゲチョロム』を受け継ぐ新しい雑誌を、若いメンバーが多い(?)パラムの会を中心に出してほしいと考えているということを、その少し前から聞いてはいたものの、山根さんと朴さんの説得は酔うほどに激しくなった。

 杯を重ねて酔いうつつ、覚えているのは、山根さんの力強い一言。「僕も、今まで書いてきたメンバーも、原稿を依頼されたら必ず断らずに書くから!」。それならば…、と引き受けてみたものの、いったいどうなることやら。何しろ、パラムの会では、会報『風の便り』を出そうと計画したのはよいが、3年が過ぎようとしている今、出ている会報は何と2号のみ。頼まれた原稿依頼の締め切りを守らないこと数知れず。そんなメンバーが寄り集まって、お金を頂くような「雑誌」というものを、果たして出すことができるだろうか?

 しかし、『ムジゲチョロム』に励まされること、学んだこと非常に多く、お世話になりつづける一方のパラムの会としては、これで終わりというよりは、何とか「日本籍朝鮮人」や「ダブル」の立場からの情報を発信しつづけたいと願って、『ムジゲチョロム』を引き継ぐものを、生み出して行きたいと考えている。誌名は、とりあえず、きちんと定期的に出ていた『ムジゲチョロム』では重いので、私たちの会報である『

風の便り』を使わせてもらおうと思う。パラムの会の名称の由来は、聖書の言葉「風は思いのままに吹く」にある。さまざまな既成の枠組みを乗り越えて、自由に吹く風のように、自分たちの存在を解き放ちたいと願ってつけた。新しい『風の便り』では、そのような思いを込めて、各地に吹く風を集めて、言葉にしてみたい。私たちパラムの会で、原稿をすべて書くことは、到底できないし、あまり意味もないだろう。山根さんの力強い一言に励まされて、原稿を依頼することとする。

 『ムジゲチョロム』を応援してこられた方々に、引き続いての購読と、原稿執筆への協力と、厳しい意見を寄せてくださることを、切にお願いする。


  全朝教神奈川大会の「日本籍はいま」の分科会に参加して
                      神奈川高教組 山梨 彰

 この8月23日に横浜国大で開かれた全朝教神奈川大会の分科会ではじめて、「日本籍はいま」の分科会に席を連ねた。そこでのレポートは実に興味深いものであった。計三本のレポートのうちで、京都大学の学生である「片田 孫 朝日」さんのものは、私にとって大きな示唆に富んでおり、アイデンティティや民族の問題にとって、新たに考える視点がえられた気がしている。

 片田孫朝日さんは、その名字に父親と母親のそれぞれをつけて、いまそれを「通称名」としている。「朝日」というのは、名である。こうした名字の付け方は、私の勤務校で、ペルーからきた日系の生徒が、名乗っていたことを思い出すと、国によっては、ありふれた習慣なのだろうが、日本においては、非常にまれであろう。(実際、私はてっきり、片田さんと孫さんと朝日さんの三人がレポートするのだろうと、要綱集を編集していた時点では思っていた。)

 片田孫朝日さんがこのような通称名を名乗っているのは、在日朝鮮人の「母親の一家を、帰化と改名へと追い込んだ日本社会の差別に『腹を立てているよ』という表現」だからだという。また、いまでは、この名前が「子どもの頃に母から受け取ったダブルという言葉のポジティブな響きに似たのものを感じ」て、「好きになった」ともいう。彼は、自己紹介するときは、「朝日」か「片田孫朝日」かを使っているというので、以下では朝日さんと記すことにする。

 朝日さんは、「朝鮮学校や韓国学園を中心に、在日朝鮮人が非常に単純化され『ひとつ』に描かれて」おり、「国籍・血・文化をワンセットにした『ひとつ』の在日朝鮮人像」があるという。この「あるべき在日朝鮮人像」は、私のように少し「在日朝鮮人問題」(もちろんこの本質は「日本人問題」であるが)をかじった人間にも共通する思いがする。すなわちそれは、「日本の過去の植民地支配によって日本に居住せざるを得なくなった在日朝鮮人は、戦後一貫して日本社会からの不当な差別を受けている。彼らのうち一世は、戦後補償の問題の枠外におかれ、また、あとの世代も外国人としての権利が保障されず、制度的な差別・意識の上での差別は、根強く残っている。その証拠に在日朝鮮人のおよそ9割が日本名を名乗って生活しているではないか」というものだ。

 このような認識に事実の上での誤りはないだろう。しかし、ここでは、このような認識のパラダイムを問うてみたい。以下の叙述では、事柄の「善し悪し」という価値判断を問題にしているのではないことを、あるうべき誤解を防ぐために、あらかじめことわっておきたい。 

 1970年から、1998年までに全国各地の行政が出した、「外国人教育基本方針」の類は、延べ数で62におよぶ。これは、私たちの運動がこのような「教育方針」を出すように要求した結果であるが、ここでは、とりあえず、ここにみられる「外国人」という一括りの表現に今注目しておきたい。また、昨年の私たち(神高教「民族差別と人権」問題小委員会)の高校生2000人を対象にしたアンケート調査によれば

、今の高校生は「韓国・朝鮮人」と聞いて在日のことを思い浮かべるのはごく少数にすぎず、その大半が外国としての「韓国」と「北朝鮮」をイメージする。この傾向は、多くの日本人市民と共通しているだろう。さらに、在日韓国・朝鮮人に関するある程度以上の理解者たちにとっても、「日本人」ではない、在日としての「民族意識」を彼らがもつことが大切で、それは「日本社会の同化の圧力の大きさに対して、在日韓国・朝鮮人が、自らの人間性を取り戻すことである」という。そして、この民族意識の表現として、民族名の回復、民族舞踊・音楽・朝鮮語の習得などが、目標として掲げられたりする。

 さて、このような言説において、在日韓国・朝鮮人が語られるときにイメージされるのは何であろうか。それは、上記の朝日さんがいうような、「ひとつの在日朝鮮人」のイメージとはいえないだろうか。もちろん、この冊子『ムジゲチョロム』のようにはじめから日本籍の朝鮮人のことが主題となっている場では、話は違うだろう。ここで考えたいのは、一般的な在日の語られ方である。そして、この一般的な語られ方は、歴史的・社会的な事実をあまり知らない日本人の市民層においてと、在日への理解者層とでは、正にこの事実認識というレベルにおいて、その際だった質の違いを見せるが、在日を一括りに捉えることにおいては、大きな違いがないのではなかろうか。すなわちそれは、民族、あるいは、国家への所属民(北でも南でもどちらでもいい)として在日を捉えるということである。

 分類は科学的認識の始まりだという。カテゴリー化することで、私たちの理性が、抽象化作用を通じて概念を獲得することは、疑いない。この概念があるからこそ、現象世界は、混沌から秩序をもつ普遍的解釈と伝達が可能な世界になる。民族あるいは国民は、こうした概念といえるであろう。そして、いま、B・アンダーソンらの仕事を皮切りに、この民族あるいは国民の(nationの)概念の近代における創造がほぼ通説になっている。ここにおいて民族あるいは国民なるものは、「想像された共同体」であることが暴露されている。この成果を踏まえて、どのように、在日の問題を理解していけばよいのか。

 朝日さんは、「ひとつの在日朝鮮人イメージ」が「在日朝鮮人のなかの抑圧関係」を生み出している、と述べる。これは、言説のもつ権力性を見事に喝破している。もちろん、ここにいう権力とは、その伝統的な言葉使いとは異なり、外部(とりわけ国家)からの抑圧や強制のことではなく、M・フーコーがいうような、社会のなかで普遍的に働く力、真理を信じる主体の間の関係のなかにある力のことだ。そして、フーコーの権力理論は、「自分たちの生活する現場で、他者との間に生じている権力関係を作り変えていかない限り、自分たちの社会と生活を変える方法はないことを教えている」(中山元『フーコー入門』p.138)という。

 日本籍の在日の人々が、感じることは、分科会当日小中高の3人の共同レポートとして報告されたある一人の高校生の作文に典型的である。彼はこう書いている。 「このまま『帰化』して、みんなどんな気持ちなんやろと考えた。市尼のみんなに何て言ったらいいんやろ、今まで通り同胞の会に行けるかな、行きづらくなるやろなあと、いろんな気持ちがごちゃまぜになった。みんなの顔色はどうやろかとか思った。みんなの顔をまともに見れなかった。 『在日』『帰化』という言葉を聞くとなんかいやになるときがある。なんだか責められているような感じがしてむかつくしイヤすぎて気がふれそうになる。何もかも壊したくなる。が、最終的にはその『輪』からは逃れられない。」(分科会で配られたプリントより)

 このような悲痛ともいえる彼の感情は、どこから由来するのか。その答えは、朝日さんのレポートにうかがえる。彼は、こう言っている。「朝鮮にまつわる国籍と文化と血を一括りにして、それに適合するものが「われわれ在日朝鮮人」を語り、それが流布すると、自分を(在日)朝鮮人だと思うが、そのイメージから部分的にはずれる人にプレッシャーになってしまう」と。「真理」としての在日像が、語られるとき、それはこうした抑圧の言説となってしまう。また、この言説は権力として、少数派の日本籍の人たちのアイデンティティを脅かす。上記の高校生は、こうした権力による抑圧のもとにあるのではなかろうか。

 かつて、全朝教は、「本名を名のらせる」と言っていた。「本名を名のること」は、その行為の「真理であることの所有者」によって、力強く進められてきた。日本人教師たちは、贖罪感を背景にもつ使命感によって、自らの行為の「正義」なることを疑わなかった。しかし、「帰化」した在日の思いは、果たしてつぶされてはこなかっただろうか。

 これは、実は他人事ではないのだ。私自身が以前の勤務校で、母親が在日朝鮮人の生徒に出会ったとき、「う〜ん?」という思いだけしか持てず、何もいえず、何もできなかった記憶がある。私を含めた「日本人」が実は、ここでも問題の本質である。朝日さんは、日本籍の在日として、その側から、在日朝鮮人の運動に欠落しているものを指摘している。それは実に鋭く、目が覚める思いがした。そうなのだ。「日本人」は、やはり在日という鏡を見て、はじめて自らの欠落を知るのだ。「一括りの在日朝鮮人像」を生み出したのは、確かに在日の側の問題でもあるだろう。しかしそれ以上に、日本社会が、あるいは「日本人」の意識が生み出したものではないだろうか。

 今まで述べてきた「朝鮮人」の語を「日本人」に置き換えてみたらどうであろうか。「一括りの日本人像」には、私たちは、なじみが深い。あまたの「日本人論」や「国民性」についての話などは、巷間にあふれている。ところが、ドイツでは、「ドイツ人論」の本が書店で普通にみられることはないという。誰も関心を持たないからだという。「日本人は自らを論じることが好きなのさ」では、これは片づけられない。この「日本人論」の流布は幅広い。たとえば自由主義史観派のどうしようもない悪あがきも丸山真男の論考も、「日本人論」の系譜から逸脱しているといえるだろうか。「日本人」にまつわる言説は、それ自体抑圧的であり、イデオロギー性がある。だが、この言説を、短絡的にナショナリズムと同一視はできないと思う。丸山真男は、近代民主主義の普遍性を信じ、その理念を日本社会に現実化することに自己の思想的生涯をかけた人だ。彼の魅力的な論考は、私たちの精神構造を剔抉する。そうであっても、たとえば彼の『忠誠と反逆─転形期日本の精神史的位相─』は、「日本人」の言説を補強し、この言説の「真理」であることを強化する。

 「国籍・文化・血が一体化した日本人」なる言説は、異なるアイデンティティをもつマイノリティにたいしてまぎれもなく抑圧的である。確かに「日本人」への同化を言うか、「日本人」とは異なる「民族性」の確立を言うかは、180度方向が異なる。しかし、その発想の背後にあるものは、「日本人」なるものを前提していることにおいては、同質的なものではないだろうか。それは、抑圧的な権力作用をもつ、民族をめぐる言説ではないだろうか。

 この言説を解体するにはどうしたらよいのか。おそらく「自分たちの生活する現場で、他者との間に生じている権力関係を作り変える」ことが必要なのだろう。それには、まず、当事者の話を聞き、何をして欲しいのかを尋ねることが、出発点といえるだろう。さらにまた、朝日さんのレポートのなかにもうかがえるように、文化の複合として私たちは実存していること、あるいは、私たちのアイデンティティは複合的なものであることを、私たちは自覚し、「一括り」のイデオロギーに絡めとられないようにすることが必要なのだと思う。

 こうした問題に光を当てているのは、今は日本籍の在日の人たちや、「混血」の人たちだと思う。彼らが、民族名でアイデンティティを持とうとしているか、あるいは日本名でそうしようとしているかは、彼ら自身の生き方の総体に関わることだ。もちろん、そこに歴史がどう反映されているかは、問いかけてもよかろう。また、彼らの選択が、「自由な選択」としてなされるためには、その選択に抑圧的影響を与える歴史的・社会的諸条件を取り払うことこそ、「日本人」のなすべきことといえるだろう。まとまりのない文章になってしまった。いずれにせよ、全朝教のこの分科会に参加したことは、大きな意味が私にはあった。


   民族教育と民族名
    カタダ ソン アサヒ
      片田  孫  朝日

 今年の夏、ぼくは全朝教にはじめて参加し、日本籍部会では報告も行った。全朝教が「本名を呼び名のる」を標語にしていることもあって、この部会では予想どおり在日朝鮮人の名前のことが話題になり、とりわけ名前の「自己決定」が議論になった。報告者のひとり大村尚子(日本籍者)さんが、「大村尚子という名前でも(朝鮮人の)父を否定することにならない」し、「なぜ民族名を名乗っていないのか、と言われているような気がしてつらい」と発言した。ぼくや大村さんのように、戸籍名として日本人らしい名前を有する者が、その名前を使い続けることと、民族名を法的名前にしている朝鮮籍・韓国籍・日本籍の者が、日本人らしい名前を通名として使うこととを同じ事柄として扱えないことは当然であるが、それにしても、民族名での呼びかけや名乗りが、そもそも何のためのものであるのか、さらに民族教育は何を第一の目的にするのか、という原則をきちんと議論していく必要があるように思った。名前の自己決定の話は、その原則が共有されていなければ、空回りするだけだ。

 ぼくは、自分のささやかな経験からいっても混血を含む在日朝鮮人(国籍に関係なく)の民族教育がとても重要なものであると思っている。だからこそ、自分の大学で、朝鮮学校や韓国学園の学生に受験資格を求める運動にも積極的に関わっている。民族教育の効果として、まず第一に、在日朝鮮人やその子供が、親や祖父母などにまつわる文化や歴史を学ぶことを通じて、あやふやな自分の存在を確かなものへと変えられる点をあげられる。周囲からの差別に対しても悔しい思いや後ろめたさを感じずにすむだろうし、本人が望むなら相手を説得することもできるようになる。高校のときに、友達の口から在日朝鮮人に対する偏見が出てきても、当時の僕はうろたえるだけで、うまく反論することができなかった。自分の親が、在日朝鮮人の2世であるということも言い出せなかった。そういうことは、よく覚えている。

 それから、民族学校(朝鮮学校・韓国学園)であれ、公立校の中の民族学級やその他のクラブ活動であれ、さらには学外の場所でも、そういうところで自分と似たような境遇の者たちと出会うことは、心の深いところで安心感を与えてくれるだろう。ぼくは、大阪に生まれ育ちながら、大学に入るまでひとりの朝鮮人とも学校で出会わなかったし、そのような生い立ちの者は少なくないように思う。もちろんそれは、学校に在日朝鮮人がいなかったからではなく、ぼくを含め朝鮮人の子供が日本人らしい名前で生活しているからであり、そういう者たちが出会える場所として民族教育の場は機能しうる。

 ぼくの考えでは、民族教育とは在日朝鮮人が歴史的存在としての自分のことをよく知り、自信をもって生きていけるようにするための手段である。そして、もしこの考えを共有するならば、名前の問題はむしろ二義的なものになるだろう。かつて帰化した朝鮮人や通名だけを使う朝鮮人のなかには、朝鮮人や朝鮮文化を否定的に捉えた結果、自らを日本人に見せかけ、日本社会にパッシングpassingする者も少なくなかった。それは心理的にしんどい生き方である。けれども、現在若い在日朝鮮人の多くは、自分が朝鮮人であることや、わずかながら身につけている朝鮮文化をそれほど否定的に考えているわけではないと思う。そのため、私がそうであったように、少数の信頼できる友達には自分や親のことを告げているのではないだろうか(それで、相手は「そんなこと関係ないよ」とホッとさせるような、何か違うような答えを投げ返すのが私の経験したパターンだった)。もし、そうならば、自分のことをちゃんと説明する用語や歴史を学ぶことができれば、日本人らしい名前で生きていっても構わないのではないか。民族名で生活することが、やはり緊張感を伴うものである以上、自分が伝えたいと思う人だけに、自分のことを語るという生き方にどんな問題があるのか。

  『全朝教通信』の最新号によれば、横浜全朝教の高校生交流会では、民族名で暮らす生徒が、通名で暮らす生徒に「通名は奴隷の名前だ」「恥ずかしくないのか?」と厳しい口調で問いただす場面があったようだ。通名の生徒の精一杯の反論も聞き入れられなかったという。これについてレポーターの■■チョさんは、「その光景を眺めつつ、民族名(本名)で暮らす在日の生徒にこそ『大きな心の壁』と『不安』あるのではないかと、感じずにはいられなかった。本来それを乗り越えるための『本名宣言』だったのに……」と書いている。そして、その民族名を名のる学生と重なる自分の過去の経験についても言及している。(『全朝教通信No.59』の16ページ)。

  「本名/民族名を呼び名のる」という運動は、それが何のための運動なのかということを忘れて、自己目的化したとき危ういものになると思う。日本人の教員のなかには、正面から差別と闘い続ける朝鮮人を期待している者がおり、それが学生から余裕を奪う要因のひとつになってしまっているのではないだろうか。ぼくは、高校生のときに、自称「本名を名のらせる」取り組みをしているという他校の日本人教員に会ったことがある。彼は、ぼくの朝日という名前の由来が、朝鮮の朝と日本の日から来ていることを知ると、「君の将来は、差別問題に関わることに決まりだな」と言ったのだ。ぼくは、そのとき自分の思いを言葉にすることができなかったが、どこか変じゃないかと思った。何故あなたにそんなことを言われる筋合いがあるのか、という違和感である。高校生交流会の話に戻せば、教員は生徒に「ゆっくりやったらいい」「自分のことを知り、肯定することが大事」「今しんどかったら、通名にしてみたらどうか」と普通にいえないものだろうか。

 もちろん、全ての在日朝鮮人に対し学校で民族名で呼びかける試みは大切である。それは、もし本人が望むなら別の名前を使うことができるという選択の可能性を与えるからである。しかし、本人が「チョイル」よりも「あさひ」という名前がよくて、それで呼んで欲しいと言えば従うほかない。そして、それでも在日朝鮮人の歴史や文化を伝えていく努力をすればいいのであり、本人が自分や親の名前がなぜ日本人らしいものになったのか、ということに興味をもつように刺激を与えられればいいと思う。民族学級の中に日本人らしい名前の子供がいてもおかしくない教育を発想すべきだろう。

 日本籍部会のなかでは、この名前の「自己決定」の主張に対して、鄭良二さんや山根俊彦さんの方から「自己決定という装いのもとに、事実上の同化の承認になるのではないか」という意見が出た。おそらくは、山根さんが今回の日本籍部会の報告とし人教師が民族教育をしないでよい口実として誤解することを恐れた発言だったと思う。たしかに、そのような危惧を抱かざるをえないのが、教育現場の現状なのだろう。今後は、誤解を避けながら、この点をきちんと議論していく必要がある。

 さて、最後に自分の名前のことを書くと、ぼくは、片田 孫 朝日あるいは孫朝日という通名を使ってこれからも生活していきたいと思っている。大学に入って孫という名前を使いはじめたのは、母から名前にまつわる昔の話を聞いたからである。2世にあたる母は、中学生のときに家族ぐるみで帰化をしたが、大学に入って再び孫という旧姓を使いはじめた。そして、少なくない日本籍朝鮮人が当時そうであったように、母も国籍と名前をもとに戻そうと一時は考えた。日本人の連れ合いとの間にぼくが産まれてからも、数年の間は籍をひとつにせ

ず、名前だけでも変えるつもりだったという。もしも『民族名をとりもどす会』が10年ほど早く作られ、日本の社会が10年ほど早く氏変更に開かれていたら、(もしも、ばっかりだが、)おそらく母は名前を孫に戻しただろう。そしてぼくは、孫朝日として生まれていたかもしれない。現在、母は孫という名前をほとんど使わずに日常生活を送っている。これからもそうだろう。現在の母がどうであれ、わたしは、社会的圧力で孫という名前が消されていくことには腹が立つし、この名前を使えるところでは使っていこうと思っている。


  編集後記
  今回が最後だからか内容充実のこれまで最高の32Pだてに。編集者は表  にでないのが原則だが、最後なので編集の舞台裏の新聞記事もおまけで掲載。
  『ウリイルム』から引継いで丸4年。 7色の虹が2つかかる14号位までは続けたいと思っていたが、結局10号 で終刊することに。発行が遅れながら もここまで続いたのは、世の中の「追 い風」のおかげ。「なぜ終刊するので すか、日本籍の問題はこれからますます重

要になるのに」といろんな方から声をかけられた。日本籍の問題を考えることは、未来の日本社会を展望していくこと。決して当事者だけの問題ではない。途中までしかかからなかった虹の架け橋を、今度は『風の便り』で継承していただける。読者の皆さんにも、引き続きご支援・ご協力をお願いしたい。『風の便り』がこの追い風に乗って広がり、あちこちに美しい虹の架け橋がかからんことを。(や) 


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