「文庫の値段」の巻
私は古本文庫が好きでその種の店にはよく出入りしている。住んでいる近所には
4店舗ほどあり、先日も或る店で本棚の題名を追っていた。
店の戸ががらりと開いて(この店は自分で戸を開けるのです)、手軽な山登りでも
する趣味だろうか、リュックサックを背負った年配の男性がやや興奮気味で入って
きた。手には一冊の文庫本を持っている。外のワゴンセールの中から持ってきたも
のだ。
女主人に嬉しそうに言う、「この本をください!私はこの本を35年間探していたん
ですよ!」。興奮度が次第に増してくる、「こういう古本屋さんを見つけると必ず
入って探すんですが、まず見つからない。今も外でぼんやり見ていたら35年間探し
ていた本があるじゃないですか。もう驚いたの何の。」
女主人は、「それはよかったですねえ。いいお土産ができましたね。」と応えている。
客の話は続く、「この本にはね、他の本には載っていない句が載っているんですよ。
たとえば、これ!この句はどの類書にも載っていない。それからこの句も。」余程
嬉しいのだろう、終わりそうもない。女主人は、「ふんふん、はあはあ」と調子を合
わせて聞いている。話の様子からして、どうも歳時記関係の本のようだ。客はこの本
には他の歳時記には載っていない名句が多く収録されていることを強調する。
しばらくすると女主人のあいづちも「はいはい、ええ、ええ」と一本調子になってく
る。客も落ち着いてきた様子で、支払いの時となる。
客「おいくらですか」
女主人「えーっと、これはワゴンセールのものですから100円ですね」
この「100円」という言葉を聞いたとたん客の態度が豹変する。
客「何!、何を言ってるんですか、あなたは!この本はね、今も言ったように貴重な
本なんですよ。私が35年間探し求めていた貴重な資料ですよ!それが100円だなんて、
そんなね。あなたはね、この本の価値が分かっていない。古書市場では、8000円、
9000円のものですよ!」
女主人「お客様にとってはどんなに貴重な本でも私の店にとっては価値のない本です
からねえ。捨てる他ないんですが、それはもったいないので100円均一のワゴンセール
で出しているのですよ。それで売れなかったら破棄処分ですものねえ。」
客「何を言ってるんですか、何を言ってるんですか、あなたは!ハキショブン?
破棄処分?この本を捨てる?この本を捨てるということはひとつの文化の抹殺で
すよ!人類の文化の抹殺ですよ!まったくこの本の価値が分かっていない!」
女主人「それでしたら、この本を9000円か一万円でお買いになったら如何ですか。
そうなさればお客様の気もお済みになられるのでは」
すると、客の態度がまた変わるのである。
客「いやいや、それとこれとは話は別ですよ。私はこれを100円で買います、100円で
結構です、買います。100円で買いますが、私が言いたいのはこの本の価値は100円ど
ころのものではないと言うことですよ。私の言いたいことが分かってますか!」
女主人「はいはい、それでは100円いただきます。どうぞお楽しみ下さい。」と言って
客を去らせるのである。
客は嬉しいのだけれども、自分の気持ちをもっと話したい、そして理解してもらいたい
という気持ちでいっぱいで、自己矛盾にはまりこんだまま不完全燃焼で帰って行く。
その後ろ姿を見ていて、この不完全燃焼をどこに向けるのかな、奥さんや家族相手に
燃焼させるのだろうかなどと考える。同時に、もしかするとこの男性こそ私自身なの
かもしれないなどとも思うのである。
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