「老人と花束」の巻
12月14日は私と妻の30年目の結婚記念日である。結婚30年は「真珠婚」とも
言い、妻はこの真珠に狙いを定めている。
それはさておき、とりあえず花束を用意することにし、行きつけの花屋さんへ
行く。先客があり、70歳前後の年配男性が店の人に花束を誂えてもらっている。
言葉使いも丁寧な紳士である。
客「ご婦人に花を贈りたいのですが、こうしたことは不慣れで何を贈ればいいの
か分かりません。どんな花がいいでしょうかね。」
店員「薔薇でしたらどなたでも喜ばれるかと思いますよ。薔薇をおすすめします。」
客「そうですか。この深紅の薔薇など綺麗ですね。薔薇だけだと淋しいのでかすみ
草などを添えますかねえ。かすみ草では当たり前すぎて陳腐ですかね。」
店員「とんでもございません。深紅の薔薇にかすみ草の組み合わせはご婦人に喜ば
れると思いますよ。」
と、馴染みの店員は私にチラリと視線を送りなぜか賛同を求めて来る。老人もこの
アイコンタクトに気づき私の方に視線を投げかける。
私「えっ?あっ、その、薔薇にかすみ草ですか、いいじゃないですか。素敵ですよ。」
と、関わりあってしまったのが事の始まりである。
客「それでは、この深紅の薔薇を5本とかすみ草でお願いします。あっ、5本では
少なすぎますかね。」
店員「とんでもございません。立派な花束になりますよ。」
老人の視線が私にも向けられる、
私「深紅の薔薇が5本ですか、お喜びになりますよ。」
客「それでは5本でお願いします。薔薇はきゅっと締まった蕾を少し入れておいて
下さい。いや、それは変ですかね」
私に助言を求める老人の視線、
私「いえ、薔薇の蕾は引き締まっていいかと思いますよ。私も好きですよ。」
店員は「承知いたしました。すぐにご用意いたします。」と言い、手際よく綺
麗な花束に仕上げる。
店員「お待たせいたしました。これで如何でございましょうか。」
客「ああ、綺麗な花束ですね。素敵じゃないですか。」
予想していた通り、私の感想を求める老人の視線、
私「素敵に仕上がりましたね。綺麗な花束ですね。お喜びになりますよ。」
すっかり店員化した私の言葉に老人の顔は明るく輝き、確認するかの様に花束を見
つめ満足そうである。
が、その輝いた顔が一瞬少し曇る。店員も気がついた様子で、
店員「あっ、何かご不満なところがございますか。」
客「いや、不満ではないのですが、この花を包んでいるラッピングというのでしょ
うか、これは外国の新聞ですかね。」
店員「新聞と言いますか、新聞をイメージしたデザイン・ペーパーでして、現在は
こうしたお洒落なラッピングでお作りしておりますが、ご不満でしょうか。」
客「いいえ、不満ではないのですが、これは英語ではないですね。何語でしょうか。」
店員「えっ?何語?いや、そういうことではなくて、一種のちょっとお洒落なデザイン
としてお考えになればよろしいかと思いますよ。」
客「ふーむ、彼女は英語は分かるが、それ以外の外国語は分からないからねえ。これ何
語でしょうかね。」
すっかり頼りにされている私の存在、老人の視線と店員の視線。
私「えっ!私ですか?えーっと、これはフランス語ですね。」
客「フランス語ですか。それは困りましたなあ。彼女はフランス語は分からない。ちなみ
に何と書いてあるのですか。」(視線ではなく私に直接に聞いてくる)
私「私もフランス語はよく分からないのですが、『花は人生を幸せにします』という様な
ことが書かれてますね。」
客「ほほう、たいしたものですね。外国語は何かお分かりになるのですか。」
私「ドイツ語でしたら多少分かりますが。」
客「おおっ、私も若い時はドイツ語を勉強しましたよ。イッヒ・カン・ドイチ・シュプレッ
ヒェンですな。」
老人は若い頃のドイツ語青年時代を思い出したのだろうか、店員に向かって、
「君、君、英語かドイツ語かのラッピング紙はありませんかね。」
店員「いや、ですから、そういう問題ではなくてですね、これは一種のデザインでござ
いますから、何語でも構わないものだと思いますよ。意味が分からない方がいいのですよ。」
客「そうでもないでしょう、せっかくの贈り物だから分かった方が楽しいでしょう。」
店員「英語もドイツ語も、ラッピング紙はございませんので、無地でシックな色調のラッピ
ングにいたしましょう。」
客「ちょっと待って下さいよ。この新聞紙のアイデアはすばらしいですよ。無地の包み
にするのはどんなものですかね。」
店員「先程も申し上げましたように、これは新聞紙ではございませんよ、新聞をイメー
ジしたデザイン・ペーパーでございますからね。」
老人は「うーん」と腕組みをし長考状態に入ってしまった。店員も「まいったなあー」
と立ち尽くしている。綺麗に仕上げられた深紅の薔薇の花束を囲んで男3人が固まってい
る光景はいささか異様でもある。
と、老人の顔がぱっと輝いた。
客「そうだ、私はぴったりのものを持っていますよ!これなら彼女も分かる。これにし
ましょう、これに!」と鞄からあるものを取り出した。「日経新聞」である。
店員と私「えっー!ニッケイシンブン!」
店員「駄目です、駄目です!それは絶対駄目です!はっきり申し上げて変です。止めた
方がよろしいです。花束の雰囲気を壊してしまいます。」
客「そうでもないでしょう。新聞紙のアイデアはすばらしい。日経新聞はちょっと堅いか
ら朝日新聞あたりでもいいんですが、まあいいでしょう。おっ、もう時間がない。日経で
お願いしますよ。少し急いでくれますかね。」
店員は完璧に不満ではあるが、老人はすっかりその気になっているので渋々日経新聞でラッ
ピングを仕上げる。できばえに老人はすっかり満足をし、勘定を済ませて足取りも軽く店を
出る。
「日経平均下げ幅100円超える!」「百貨店売上高2ヶ月ぶりマイナス」「地方交付税5年ぶり
削減」などの記事に包まれ揺れている深紅の薔薇とかすみ草。はっきり言って変である。
トップページ